2018年12月31日月曜日

年末みそかの一日

 今年(2018年)もきょう一日だけになった。一年を振り返る余裕は、あるようでない。やることがある。
  年が明けるとすぐ、いわき地域学會の1・2月市民講座の案内はがきを印刷して出さないといけない。そのための原稿づくりがある。講師を担当する会員とやりとりして、やっとおととい印刷データを仕上げた。ついでに、年賀状の原稿もつくって印刷した。

先日、行政区内の細道で交通事故が起きた。カーブミラーがあるところだ。そばの住民が来て、カーブミラーが見づらいのではないか、もっと前に出せないか、という。カーブミラーがあるところで事故を起こすのはよほど不注意だ、と応じたものの、それで打ち切るわけにはいかない。いちおう役所に聞いてみる、ということで帰ってもらった。

この問題を越年させるわけにはいかない。役所の仕事納めの前日、市道路管理課へ出かけて話を聞いた。私と同じ見解だった。

年内にすませておきたいことはすませた、という意味では、みそか(30日)・大みそか(31日)と、珍しくゆとりをもって過ごせそうだ。

とはいえ、みそかにはみそかの“仕事”がある。わが家では、私がこたつに座りっぱなしだから、カミサンが「家長」的な仕事をする。一夜飾りはよくないというので、きのうは玄関その他に正月様を飾った。夏井川渓谷の隠居へも行って(私は運転手)、玄関には正月様=写真上、床の間には餅を飾った。

晴れてはいたが、風が強かった。渓谷では、雪がふっかけていた=写真下。隠居のプロパンガス代がたまっている。上流の川前町の店へ払いに行くと、店主が「志田名(しだみょう)は雪だった」という。志田名は川前でも山奥だ。西側の阿武隈高地では、山を越えてきた雪雲が残りの雪を降らせる。標高の低い渓谷あたりになると、ふっかけだけになる。もっと低い平地ではただの寒風が吹き荒れる。いわきならではの冬模様だ
渓谷からの帰り。午後2時過ぎの太陽にまぶしさを感じなら運転していると、不意に吉野せいの作品「梨花」を思い出した。昭和5(1030)年12月30日午後3時半ごろ、せいの次女・梨花が亡くなった。<今ごろ、梨花は死の淵にいて、両親が梨花の手を握っていたのだ>

それから88年後の同じ日――。渓谷へ向かう前、前の日曜日によそのまちへ行っていた下の孫を連れてクリスマスプレゼントを買いに行った。夕方には、大学1年生の“孫”が両親とやって来た。おみやげをもらった。上京後、実家で迎える初めての年末年始だ。アカぬけているのにびっくりした。カミサンも「きれいになったね」と驚いていた。

さて、大みそかのきょうはこれから回覧資料を配る。これが、私の「仕事納め」。きのうは日曜日、きょうは月曜日。朝一番でごみネットを出した。みそか・大みそか、といっても、いつもの日曜日・月曜日でもある。あした元日も、年の初めの日であると同時に、いつもの火曜日だ。年賀状を書いて過ごす。

2018年12月30日日曜日

写真が突然、スケッチ風に

夕方に始まった今年(2018年)最後の忘年会がお開きになったあとの、夜7時過ぎの常磐線某駅ホーム――。
特急は止まらない。風が少しあった。コートに帽子、マフラー、手袋と、防寒スタイルで普通列車を待っていると、反対側の上り線ホームに列車が入る、気をつけて、というアナウンスが流れた。やって来たのは特急の「スーパーひたち」。轟音を発して通過して行った。

大急ぎで手提げバッグからカメラを取り出し、手袋をはめたまま撮影モードダイヤルを、連写のできる「スポーツ」モードにした、つもりだった。カシャカシャとシャッター音が続くはずが、カシャで終わった。そのうえ、「メモリーカードへの記録が終わるまでお待ちください。」という表示が出た。なんだ、これは! カメラがおしゃかになった?

撮ったはずの写真が全体的に灰色っぽい=写真。でも、通過しつつある「ひたち」のピンクの横線や、ホームの黄色いライン、ベンチの青色はそのまま出ている。それはそれでおもしろい色合いと構図だ。

なぜそうなったのか。撮影モードは、カメラを買って以来、「オート」が中心だった。最近は「発光禁止オート」で撮っている。運動会や鳥を撮るときには「スポーツ」モードにする。花やキノコを撮るときには「クローズアップ」モードにする。それで今までは十分、というか、それ以上の機能については知ろうとしなかった。カメラにまかせっぱなしだった。

おかしな写真になったのは、「EFEECTS(エフェクト)」機能のためだった。撮影モードダイヤルを「スポーツ」に合わせたつもりが「EFEECTS」になっていた。結果、今まで見たことも、計算してそうしようと思ったこともない映像ができた。写真なのだが、スケッチして色を塗った、そんな雰囲気がある。嫌いではない。

カメラの「使用説明書」を読む。カメラの多機能性をまったく理解していなかった。いろいろカメラで遊ぶ方法が記されていた。滝のしぶき、野菜の接写、キノコの傘裏のひだ、朝焼け・夕焼け。それらのモノトーン……。いろいろある撮影モードを選ぶことで、狙った写真に近づける。間違って合わせた「EFEECTS」が、結果的にはカメラで遊ぶ楽しさに気づかせてくれた。

2018年12月29日土曜日

道の駅は「まちのスーパー」

「道の駅よつくら港」=写真=は、地元の人間にとっては「まちのスーパー」となんら変わらない。以前からなんとなく感じていたことだが、たまたま開店間もない時間に行ってそれを実感した。
もう1年以上前になる。朝10時ごろ、四倉へ用があったついでに道の駅へ足を延ばした。高齢者でにぎわっていた。夫はまだ車を運転できる、妻もそれなりに体が動く。それだけではない、歩いてくる高齢者もいた。近場の人たちがまちのスーパーと同じ感覚で日常の買い物をしていた。

 わが家から道の駅よつくら港まではおよそ8キロ。15分もかからない。店内には大量生産・大量消費の物流システムにはのらない個人の生産物も並ぶ。いわば、産直。野菜とその加工品が典型で、主に梅干しと漬物を買う。三和町の「三和ふれあい市場」もそうだが、白菜は朝のうちに行かないと売り切れ――という事態になりかねない。「直売所兼スーパー」として、朝、「道の駅」が地元の人間でにぎわうのはそのためだろう。

 白菜は2玉をそれぞれ八つ割りにして漬ける。この冬はもう2回漬けた。カミサンがAさんにやり、Bさんにやりしているうちに、残りが少なくなった。そこへ、カミサンの知人が白菜を持ってきた。もう1玉は――。南の白菜ではなく、地元か北の白菜を手に入れたい。

朝、道の駅へ白菜を買いに行った。ついでに、ネギ・ナメコ・たくわんを買った。やはり、中高年組でにぎわっていた。私ともう1台、国道6号の南と北から同時に道の駅へ入った車がある。帰りも同じ時刻になった。久之浜方面の主婦のようだった。

白菜はいわきの北の広野町産だった。これで年末年始は新鮮な白菜漬を食べられる。生産者の名前がわかるところが、道の駅が身近なスーパーとして機能している理由でもある。

2018年12月28日金曜日

キミはどこから来た?

きのう(12月27日)昼前、用があって市役所へ出かけた帰り、いつものように夏井川の堤防を通った。
  平・塩地内の水鳥の越冬地には、カモ以外はハクチョウが1羽しかいなかった。そのまま通り過ぎようとしたが、ハクチョウのくちばしの色がオオハクチョウやコハクチョウとは違っていた。オレンジ色で目から付け根が黒い。ひょっとしたら――。車をバックし、河原へ通じる道に止めて、岸辺に立つとまちがいない。コブハクチョウだ=写真上。

ほかのハクチョウたちは朝、三々五々、やや離れたところにある田んぼへと向かう。わが家の上空を鳴きながら通過する一群もある。稲株のひこばえでも食べに行くのだろう。午後遅い時間には、堤防のそばの「白鳥おばさん」がえさをやる。それまでには戻ってくる。コブハクチョウはたった1羽残った。残るしかなかったか。

人間には慣れているらしい。私が近づいても逃げない。水面にくちばしをいれる。水をすくう。首を上げて水を流し込む。くちばしからしずくがこぼれる=写真下。首をかしげる。水の流れを見つめる。なかなか思慮深げな雰囲気だ。
ハクチョウにもいろいろ種類がある。日本に渡ってくるのは主にオオハクチョウとコハクチョウだ。これに、ときどきアメリカコハクチョウが混じる。

コブハクチョウはおおむね欧州に生息する。だから、このハクチョウが日本で、しかもいわきで見られるのは本来、異常なことだ。日本野鳥の会いわき支部の『いわき鳥類目録2015』によれば、コブハクチョウはいわきでは「漂鳥」扱いになっている。

公園などで飼われていたのが逃げ出し、野生化したのが日本各地に定着しているらしい。茨城県・霞ケ浦では盛んに繁殖しているようだという。いわきまでは直線距離で100キロほど。ハクチョウにとっては目と鼻の先の距離だそうだから、そこからやって来たか。

コブハクチョウはデンマークの国鳥だ。アンデルセンの童話「みにくいアヒルの子」や「野の王子」(白鳥の王子)は、当然、コハクチョウではなくてコブハクチョウが主人公、あるいは化身だろう。すると、チャイコフスキーの「白鳥の湖」のハクチョウも。欧州の文学や音楽・美術に登場するハクチョウはコブハクチョウだと思っていいのではないか。

きのうはたまたま、野鳥の会いわき支部の元事務局長氏が来訪した。コブハクチョウの話をすると、「鮫川へはよく来てましたけど、夏井川は初めてではないですか」という。私のなかでは、これはビッグニュースだ。キミはどこから来た? そして、どこへ行く?

2018年12月27日木曜日

イノシシとドクターヘリ

月に一度、義弟を内郷の福島労災病院へ連れて行く。途中、建設中の「いわき市医療センター」を見てきた。同センターは市立総合磐城共立病院の敷地内にある。今月(12月)中旬、わきを通ったときには歩道沿いの仮囲いがとれていた。アップした写真はそのとき、カミサンが車の助手席から撮った。南側からの病棟風景で、1階にはサービスヤード(物流・霊安出入り口)がある。要は裏口だ。
おととい(12月25日)、同センターが開院した。きのうからは外来診療も始まった。それに伴い、磐城共立病院は解体されて消える。屋上にヘリポートがある。開院初日にさっそく使用されたという。

きのうの朝の福島民報――。25日午前10時ごろ、いわき市小川町上平地内の山林で70代男性がイノシシにかまれ、両足に重傷を負った。男性は持っていた棒のようなものでイノシシを駆除した、という。棒のようなもの? 駆除? よくわからない。

夕刊(いわき民報)では――。開院初日の「午前に小川町で男性がイノシシにかまれたとして、ドクターヘリが出動し、市医療センターが受け入れることになったが、滞りなく運び込まれた」とある。

 上平の山林は阿武隈高地と平地が接するところにある。標高は200メートルに満たないが、結構険しい。そのため、消防の要請によって、福島県立医大からドクターヘリが飛来し、男性を浜通り南部の受け入れ病院である共立病院=市医療センターへ運んだ、ということらしい。

 夕刊で「棒のようなもので駆除した」あとの展開を知ったものの、やはりなぜイノシシに遭遇したのか、かまれたのか、がわからない。記者自身、イノシシと人間の攻防戦をよくわかっていないのではないか。

遭遇の仕方が具体的でないためについ想像をたくましくする。人里に近い山中には、イノシシ捕獲用の箱罠がある。男性はそれを確かめに行ったか。行くと箱罠にかかっていて、「棒のようなもの」で仕留めようとしてけがをしたか、などと、記事の足りないところを補ってみるのだが、それにも限界がある。しかし、浜通りのイノシシに関しては、記者はもっと知らないといけないのではないか――。あと5日もすると、イノシシを描いた年賀状が届く。

2018年12月26日水曜日

パクチー的におい

夏井川渓谷の林は松とモミなどを除いて、すっかり葉を落とした。隠居の対岸にある「木守の滝」が、裸になった木々の間から見える=写真下。冬だけの光景だ。
木守の滝は、1月下旬~2月の厳寒期には一部が凍結する。滝の下部と左右から氷が成長して、全面凍結に近い状態になることもある。しかし、それはこの20年余で2~3回だけだったような気がする。

それでも、虫たちには冬は厳しい季節だ。テントウムシやカメムシは、わが隠居へ入り込んで越冬する。テントウムシは悪臭を発するわけではないから、別に気にしない。問題はカメムシだ。

隠居の茶の間の隅に座布団を重ねておく。衣紋掛けもある。押入は布団でいっぱいだ。この時期、座布団や布団を引っ張り出すと、カメムシがパラパラこぼれる。土いじりをしようと、衣紋掛けのダウンジャケットを着たら、いっぺんに10匹も畳に落っこちた。ダウンジャケットの中で冬ごもり、を決めこんでいたようだ。
 そんなわけだから、いつの間にか上着にひっついてわが家へやって来る虫もいる。5日前の金曜日午後、座業を続けていたらポトリとカメムシが紙の上に落ちてきた=写真上。火曜日に隠居へ行ったから、そのとき、マフラーにでも潜り込んだか。ある日、隠居の帰り、街の某公共施設に入ったら、やはりポトリとカメムシが落ちた。人間もまた知らぬ間に植物の種子やキノコの胞子、虫の運搬役を果たしている。

隠居の10匹は、ヒーターと石油ストーブで部屋が暖かくなっていたせいか、畳に落ちるとすぐ動きだした。それを紙ですくい集め、外へ出した。そのとき、一発くらったらしい。パクチー的なにおいがしばらく体にしみついていた。

なんというカメムシだろう。背中の模様と特性(成虫のまま人家に入り込んで冬を越すことがある・一発が臭いので嫌われる)が一致した。クサギカメムシらしかった。

2018年12月25日火曜日

夏井川のコハクチョウと夕日

この3連休は朝日と夕日を意識して過ごした。冬至(12月22日)の朝は曇っていて、レイライン(光の道)は見られなかった。日中は日が差した。夕方、夏井川の堤防へ車を走らせた。対岸の専称寺の裏山に沈む夕日は、しかし、曇っていて見られなかった。途中、雲に切れ目ができて、寺から10時の方向に夕日が顔を出した。
翌23日は、朝のうちは晴れ。未明に平の八坂神社へ出かけて鳥居の内側から昇る朝日を見た。思わず合掌した。これだけでよしとするか――と思ったが、「専称寺の夕日」が残っている。しかし、午後になると全天曇り。宵には雨さえパラつきだした。

この日、午前中は孫とクリスマスプレゼントを買いに行き、午後は夏井川渓谷の隠居へ出かけてネギの苗床に寒冷紗をかけた。そのあと街へ戻り、ホームセンターで買い物をして、夏井川の堤防経由で帰った。

支流・新川と本流・夏井川の合流点にハクチョウが越冬している。夕方4時前後になると、堤防そばに住む「白鳥おばさん」がえさをやる。ちょうどその時間だった。ハクチョウが岸辺に群がっていた=写真上1。群れをはさんで上流に白鳥おばさん、下流には餌(え)づけの様子を写真に撮るアマチュアカメラマン。ハクチョウは、数えるとざっと100羽いた。

専称寺の裏山に夕日が沈む時間帯でもある。白鳥の写真は撮れたが、全天曇りでは対岸の専称寺を見るまでもない。

そして、きのう24日は午後3時すぎ、図書館へ出かけた。期限がきて返さないといけない本がある。代わりに、年末年始に読む本を借りる。家を出ると快晴だ。街へ向かっている途中でふと思い出す。専称寺の裏山に沈む夕日を見ないと――。
冬至の日と同じように、寺と正対する左岸堤防まで引き返し、高度を下げながら西に移動する太陽を追った。すると3時50分すぎ、専称寺の裏山の鞍部から一つ左側(南側)の尾根に夕日がかかって消えた=写真上2。

尾根の木々も、寺の裏山の竹林もずいぶん生長した。木々も竹林もなくて尾根筋がはっきりしていれば、冬至の夕日は寺の本堂に安置されている阿弥陀三尊の光背と一体化したことだろう――時間を追ってスケッチした太陽の位置を読みながら、そんなことを想像した。

2018年12月24日月曜日

一日遅れの「冬至のご来光」

きのう(12月23日)の続き――。拝殿・参道・鳥居と連なる先から昇る朝日を拝んだ。思わず手を合わせた。「一陽来復」の冬至の朝日こそ「初日の出」なのだと実感した。
冬至(12月22日)の日の出が曇っていて見られなかった。日中は晴れたので、「ならば日の入りを」と待ったが、これも雲が広がっていて見られなかった。

モヤモヤした気持ちのまま一夜が明けた。朝5時前に起きて庭に出ると、東の空に星がまたたいていた。晴れてる!

冬至や夏至、春分・秋分の日を中心にした「聖地のレイライン(光の道)」は、なにもその日だけの現象ではない。その前後何日かは見られる。よし、行こう――。6時前、「レイラインを見たい」といっていたカミサンを起こして、いわきの中心市街地・平の西方高台にある子鍬倉神社へ車を走らせた。

境内に八坂神社がある。冬至の朝、拝殿と参道、鳥居を結ぶ線の先から朝日が昇る配置になっている。それを確かめたかった。

きのうのいわきの日の出の時間は6時47分。6時20分すぎには境内に着いた。まだ薄暗い。歩を進めると、スズメと思われる小鳥が地面を這うように逃げて行く。まず、八坂神社に参拝する。「写真を撮らせてもらいますよ」

振り返って参道・鳥居のラインを確かめると、真ん中奥に大木が立っている。樹皮は杉に似る。常緑だが、下部は枝打ちされたためかすっきりとして、上部の枝葉だけが扇状に広がっている。

撮影データから時間を追うと――。6時22分、東の空は下部がほんのり赤みを増しているだけ。同54分、オレンジ色がさらに増し、大木のやや左、奥の木々の間で一部、白銀のように明度を増すところが現れた。やがて、そこが黄金色になったかと思うと、赤々と輝き、光線が放射状に伸び始める=写真上1。まさしく鳥居の真ん中から朝日が昇ってきた。「一陽来復」の生まれたての朝だ。
拝殿の中は、と振り向けば、「奉祝 天皇陛下御在位三十年」の立て看らしいものに朝日が当たっていた=写真上2。天皇陛下の誕生日でもあった。

昔は、元日の朝ではなく冬至の朝が初日の出だったことを、聖地研究家の内田一成さんが22日のレイライン講演会でいっていた。一日遅れとはいえ、「冬至のご来光」を拝むことですがすがしい気持ちになった。節目の日の朝日との一体感。そう、ちいさな家庭菜園で土いじりをしている私にも、これから日が伸びていく一陽来復こそが「初日の出」だと実感できた。

2018年12月23日日曜日

冬至の日の出・日の入り

きのう(12月22日)は冬至だった。朝4時に起きて庭に出ると、東の空に雲が広がっている。前日の「晴れのち時々曇り」の予報が、夜半には「曇りのち一時雨」に変わっていた。半日早く雲のかたまりがあらわれた。いわき市平市街まで車をとばし、子鍬倉神社境内にある八坂神社で「冬至のご来光」をと考えていたが、あきらめた。
いわき観光まちづくりビューローが主催した「冬至のご来光といわきの代表的な聖地を専門家と巡るバスツアー」も、最初の訪問地、小名浜鹿島神社でのご来光体験はならなかった。

冬至前夜、「いわき聖地観光レイライン講演会」が市生涯学習プラザで開かれた。まず、いわき地域学會の夏井芳徳副代表幹事が「閼伽井岳薬師と龍燈伝説」と題して話した。

そのあと、聖地研究家の内田一成さんが3年にわたるいわきでの調査結果をまとめたパンフレット=写真・上=を基に、「『いわきに秘められた聖地とは。』~レイラインハンティングでその謎に迫る」と題して、いわきのレイライン(光の道)について解説・紹介した。

 おととし(2016年)2月にも、観光まちづくりビューロー主催で、内田さんによるいわきの「聖地観光」の可能性調査報告会が開かれている。
 
 そのとき、レイライン調査の基本は、建物とその方位=夏至や冬至、春分・秋分といった節目の日の太陽との関係性を見ること、ということを学んだ。最新の地質学データやGPS(全地球測位システム)を駆使し、聖地の構造を科学的に分析する。みょうちきりんな「パワースポット」話と違って、合理的に聖地性の理由を説明できる。

 3年間に及ぶ調査で、たとえば金刀比羅神社(常磐)は夏至に真正面から朝日が昇り、冬至に真後ろに夕日が沈む=写真・中の左側=ことが確認された。閼伽井岳の常福寺(平)にある薬師堂は真東を向いており、春分・秋分の日にはまっすぐ伸びた参道の先から朝日が昇る。
 専称寺(平)も本堂・参道は夏至の日の出と正対している。すると、本堂の裏山に冬至の夕日が沈むはずだ。ネットの「日の出・日の入りマップ」で同寺と日の入り方向を線で結び、その延長線上に夏井川左岸堤防(中神谷側)があることを確認して、午後3時すぎ、夕日を見に出かけた。

日中は、雲が切れて日が差すこともあった。が、北側の半分は青空なのに、同寺上空は雲がかかっていた。小一時間もたつと、同寺の南、10時方向の尾根の上に太陽が顔を出した=写真・下。左上空から高度を下げながら右側に移動していることがわかる。晴れていれば、4時すぎには専称寺裏山の鞍部に近づくことが推測されたが、雲の切れ目がない、きのうはそれであきらめた。
「沈む」よりは「斜めに横切る」といった方が近い。「日の出・日の入りマップ」で専称寺の日没ラインを追うと、夕日が沈むのは湯ノ岳の南、高倉山付近だった。講演会でも、内郷山神社跡から冬至の夕日が高倉山に沈むのが見られることが紹介された。

さて、冬至の日が沈むと、東の空にはまん丸の月が現れた。満月に照らされながらバスで街へ飲みに出かけた。いわき駅前大通りのイルミネーションが消える夜11時前には、若い仲間とともに奥さんの運転する車で帰宅した。冬至と満月と、昼も夜も天を仰ぎ見る一日になった。

2018年12月22日土曜日

7回目の「いわき光のさくら」

2カ月にいっぺんの定期的な飲み会と、断れないおつきあいのとき以外は、夜の街へはほとんど行かない。「家飲み」で十分だ。
  とはいえ、やはり師走、二つか三つ、忘年会を兼ねた飲み会が入る。午後6時始まりだと、最寄りのバス停4時23分のいわき駅前行きを利用する。6時半とか7時始まりだと、6時ちょっと前の最終バスで行く。

先日、6時始まりの忘年会があった。会場は駅前の大通り沿い(南町)にできた新しい店。1時間ほどいわき総合図書館でひまつぶしをして、外へ出るともう暗くなっていた。ケヤキ並木に飾り付けられたイルミネーションに誘われるようにして通りを歩いた。師走の夜の街を行くのは初めてだ。景色が違って見えた。

今年(2018年)で7回目の「いわき光のさくらまつり」が行われている。双葉郡富岡町・夜ノ森の桜並木をイメージした事業で、夕方5時から夜更けの11時までLED電球に光がともる。いわき青年会議所が主催している。

 震災2年目の2012年にスタートしたときには、光は淡い紫色だった。それが、今は白色と温かなピンク色になった。忘年会が9時に終わって外へ出ると、白とピンクの光がいちだんと温かく見えた=写真。

 会費は5000円の予定だった。が、小規模5人の集まりなので、セットコースではなく、飲んで食べた分だけの支払いで――と店側が計らってくれた。1人当たりほぼ3000円で済んだ。こんな金額でいい気分になったのは久しぶりだ。それで、イルミネーションもより温かく見えたのだろう。

 きのうも縁があって夜9時から2時間、飲み会に参加した。駅前大通りから一本入った銀座通りにたまたま空車のタクシーがいた。それに乗って帰った。イルミネーションは消えていたかもしれない。

運転手と忘年会の話になる。「今夜がピークでしょうね」という。「今の時間、駅前のタクシー乗り場に行っても車はないですよ」。深夜になると、神谷(かべや)や平窪といった近場ではなく、四倉・久之浜・泉といった遠距離の客が乗るので、戻ってくるまで時間がかかる。ちょうどいいタイミングで乗ることができたわけだ。

きょうも飲み会がある。来週末にもある。この二つも、イルミネーションが温かく感じられる時間に、タクシーを待つことなく帰れるといいのだが。

2018年12月21日金曜日

いわき聖地観光講演会

あした(12月22日)は冬至。1年で一番昼が短く、夜が長い日だ。土いじりを始めて以来、太陽を中心にした自然の移り行きを意識するようになった。夏至を迎えては冬至に向かって短くなる昼を、冬至を迎えては夏至に向かって長くなる昼を思う。これから本格的にやってくる寒さも、「一陽来復」に支えられてやり過ごせる。
  その冬至に合わせたイベントが開かれる。いわき観光まちづくりビューローが主催する。きょうは午後6時から、市生涯学習プラザで「いわき聖地観光レイライン講演会」が開かれる=写真(チラシ)。あすは「冬至のご来光といわきの代表的な聖地を専門家と巡るバスツアー」が行われる。

講演会は二部構成だ。第一部は「閼伽井岳薬師と龍燈伝説」。いわき地域学會の夏井芳徳副代表幹事が話す。第二部は聖地研究家の内田一成さんが「『いわきに秘められた聖地とは。』~レイラインハンティングでその謎に迫る」と題して話す。

3年前の秋、同ビューローから声がかかって、内田さんとお会いした。「レイライン」という切り口でいわきの観光を読み解く新しい視点を学んだ。

講演会は聴いてみてのお楽しみ――ということにして、あしたのバスツアーのポイントはこれだろう。過去の拙ブログ(2015年12月23日付「冬至の夕日」)から抜粋・紹介してみる。
                ☆
 いわき観光まちづくりビューローの、2015年12月22日のフェイスブックから(文章は一部割愛、改行・連結などをした)――。
                
【レイラインプロジェクト始動】いわき市内に数多くある神社・仏閣、遺跡、神話や民話を新しい角度から見直し、それらを繋ぐ「ひとつのライン」で浮かび上がらせる新しいプロジェクトが始動しております。いわき市内にはどのようなかたちで結ばれたラインがあるのでしょうか? 今後、Facebookでご報告していきます! さて本日の調査報告について。

<調査:太陽の恵みをもたらす聖地>12月22日(火)は冬至。「冬至の日に昇る太陽の方向が各神社の参道を明るく照らし、太陽の恵みをもたらす聖地であるのか」を調査いたしました。

結果、本殿・鳥居・日の出の太陽を一直線に繋ぐ場所が、小名浜鹿島神社と子鍬倉神社の境内にある八坂神社で確認されました。他の調査した神社も若干のずれはあるものの、冬至の太陽の恵みをもたらす聖地として確認できるものと考えられます――。

「証拠写真」が何枚かアップされていた。未明、ビューローのスタッフが手分けして各地に飛び、カメラを構えて日の出を待ったのだろう。

 レイラインは英語の古語で「光の道」という意味だとか。夏至や冬至、春分・秋分といった1年の節目の日の太陽の光によって聖地が結ばれる現象・配置をさす。これに着目し、新たな観光につなげようという動きがいわきでも始まった。
                 ☆
 あすのバスツアーでは、早朝6時、市石炭・化石館第2駐車場に集合し、小名浜鹿島神社~住吉神社~金刀比羅神社~温泉神社を巡る。小名浜鹿島神社では、鳥居の真ん中から昇ってくる朝日=「冬至のご来光」を拝む。天気予報は「晴れのち時々曇り」。参加者は「光の道」を体感して感動に打ち震えるにちがいない。

2018年12月20日木曜日

谷間のイイギリの木

 夏井川渓谷の木々は、カエデも含めてすっかり葉を落とした。常緑のモミや赤松、アセビを除いて、灰色の冬の装いが整いつつある。
そのなかで、籠場の滝の近く、県道小野四倉線沿いに真っ赤な実を垂らした木がある=写真。イイギリだ。20年以上この木のそばを通っているが、赤い実に気づいたのは初めてだ。

近くにマンサクがある。早春、黄色い花をつける。同じように、ハンノキも枝から赤紫色の花穂を垂らす。これらの木は路上を覆うように枝を広げている。運転していれば自然に目に入るので、渓谷の隠居へ通いはじめたころから知っていた。イイギリはややわきにあって、背が高い。それで気づかなかったのだろう。

燃え上がる赤の絢爛から白骨のような殺風景へ――。一本一本の木の肌や枝ぶりがよくわかる。なによりいっさいを振り落として深い眠りに入り、冬をやりすごす。この時期になると、田村隆一の「木」という短詩を思い出す。
 
 木は黙っているから好きだ
 木は歩いたり走ったりしないから好きだ
 木は愛とか正義とかわめかないから好きだ
 
 ほんとうにそうか
 ほんとうにそうなのか
 
 見る人が見たら
 木は囁いているのだ ゆったりと静かな声で
 木は歩いているのだ 空にむかって
 木は稲妻のごとく走っているのだ 地の下へ
 木はたしかにわめかないが
 木は愛そのものだ それでなかったら小鳥が飛んできて
 枝にとまるはずがない
 正義そのものだ それでなかったら地下水を根から吸いあげて
 空にかえすはずがない
 
 若木
 老樹
 
 ひとつとして同じ木がない
 ひとつとして同じ星の光りのなかで
 目ざめている木はない
 
 木
 ぼくはきみのことが大好きだ

 黙っている? 歩かない、走らない? 愛とか正義とかわめかない? 木に対する“常識”に、詩人は疑問を投げかける。詩人は「非まじめ」だ。「まじめ」も「不まじめ」も超えた「非まじめ」とは、この場合、前例にとらわれず、新たな発想で自由に表現する、ということだ。「見る人が見たら」以下のことばがそれを示す。今まで考えもしなかった木の本質・役割を提示した。なるほどな、とつい納得する。

 さて渓谷に入って隠居へ行くまでに、もう1本、イイギリの木がある。10年前の真冬に隠居から街へ帰る途中、渓谷を抜けるあたり(小川町・高崎)でブドウのように真っ赤な房状の実をいっぱいつけている大木が目に入った。それが、イイギリと知った最初だ。ほかにも生えているのだろうが、県道を車で走っていて目につくのはこの2本だけだ。

モノクロの山の強烈な赤い点々。イイギリの実は、味がイマイチらしい。で、あえて冬まで赤みを保ち、鳥に種を運んでもらう戦略をとった? それが、イイギリの愛?

2018年12月19日水曜日

DASH島のエリマキツチグリ

 日曜日(12月16日)、夜。「笑点」「西郷どん」(BSプレミアム)に続いて、「ザ!鉄腕!DASH‼」を見ると、冒頭から<DASH島>の野生キノコを取り上げていた。島の森でアラゲキクラゲとウスヒラタケを採り、塩味のスープにして片栗粉でとろみをつけた。TOKIOの城島・国分クンが恐るおそる、その「中華風キノコ汁」を口にする――。
うまい!となるのは、わかっている。アラゲキクラゲもウスヒラタケも食菌だから。私も原発震災前はこのキノコをよく採った。

 ほかに、スエヒロタケとエリマキツチグリ=写真上=が登場した。図鑑を頼りに食毒をチェックする。食材としては、スエヒロタケは不適、どころか人間の肺に寄生して悪いことをする。エリマキツチグリも不明だから、食材にはしなかった。

11月下旬、たまたま拙ブログにこの番組の制作会社から連絡が入った。メールで二度やりとりをした。

用件はこうだった。放送で使うエリマキツチグリ(幼菌)の断面写真をネットで探していたところ、私のブログ(2017年9月14日「マメダンゴ観察記」)に載っている写真を発見した。写真の元データを提供してもらえないか。使用できる場合は、写真の加工は可能か、クレジットはどう表記すればいいか、料金は……。

「福島DASH村」は阿武隈高地のわがふるさとの近くにある。残念ながら原発事故の影響を受けて、そこでの番組づくりは中断している。番組が始まったころ、私も夏井川渓谷の隠居で野菜づくりを始めたばかりだった。向こうとこちらと手探りで土いじりをする、という親近感があった。大好きな番組だ。

で、おおむねこう返信する。①私の写真はツチグリであって、エリマキツチグリではない②それでも使うとすれば、エリマキツチグリとは別種のツチグリであることを表記する③データの加工はかまわない④使用料は要らない、番組を続けていることへの一福島県民としてのお礼の意味で――。

それからしばらく音沙汰がなかった。放送直前の金曜日(12月13日)、メールが入る。ツチグリはエリマキツチグリとは別物なので使用を見送る、とあった。最初から別物だと言っておいたのだから、まあ妥当な結論だ。

で、あとは実際の番組を見る。制作会社のスタッフの執念だろう、エリマキツチグリの幼菌断面写真が使われていた=写真下。「提供:糟谷大河」とあった。ネットで検索したら、植物寄生菌学を専攻した千葉科学大講師の若い菌類学者だった。おー、こういう人がいるのか。若い人の名前をしっかり頭に刻んだ。
 同時に、「ザ!鉄腕!DASH‼」の番組づくりの一端を垣間見ることができて、より親近感が増した。

2018年12月18日火曜日

「梨花」の月

開拓農家、のちの作家吉野せいの次女梨花が死んだのは、今から88年前の昭和5(1030)年12月30日。わずか9カ月余のいのちだった。梨花が死んだとき、空には月齢10.1日の弓張月(半月)がかかっていた。
梨花はその日のうちに小さな棺におさめられ、日が変わったばかりの大みそか未明、父親の実家の菩提寺の墓に葬られた。「この山の上で生まれ育ち病み死んだお前は、(略)あまねき月光と黒い菊竹山の松風とに送られて、とぼとぼと平窪の菩提寺さして遠のいて行った」

月夜の野辺送りである。「梨花」の月光的な悲哀を理解するには、カレンダーではなく、月齢に近い12月の月を実証的に追わないと。そのうえで、みそかにまた作品を読み返してみる――と決めて、師走を待った。

今年(2018年)の師走の月で月齢が一番近いのは、きのう(12月17日)の9.8日だ。小名浜では、昼下がりの12時51分に月が出た。月の入は翌18日、きょうの0時26分だった。

きのうは午後、車で歳暮のもちを配った。午後3時前、小川の高台で東方に昇った半月をパチリとやる=写真。それから少したった時間に、梨花は息を引き取る。「あらしは過ぎてぴったりと静止したかたち、右手を私に左手を父親につかまって、お前は眠るように死んで行った。午後三時半。口を少しあけた昼間の月のような顔!」。ちょうどその時間、私は家に戻って「梨花」を読み返していた。

空には、次から次に白雲が現れては流れて行く。風も時折、吹く。そして、夕暮れ。半月は真南よりやや東にあった。88年前の同時刻ごろにも、風が強く吹いていた。「この日暮れ、お前を失ったこの山の小屋の悲しみにあふれた風景。夕月は冷たく光り、いつもの烏(からす)が群れて飛んでゆく」

カラスたちは今も夕暮れになると、東から西へと帰って行く。88年前にせいが見たカラスたちは、今のカラスたちの先祖だろう。湯ノ岳方面にねぐらがあるのだ。それはたぶん、当時も今も変わっていない。

 夜9時、月は雲に隠れていた。30分後には月明かりが復活する。かなり西に移動していた。11時前、なんと月はいちだんと輝き、冴え渡っているように感じられた。これが「あまねき月光」というやつか

「しあわせにも月が明るく、風もややしずまったが、刃物のような外気だ。道の両側のくぼみを残雪がとけずにふちどっている。お前のみちを照らすものはこんばんと書いた提灯一つだけ」

日が変わった真夜中の情景だが、11時を過ぎると睡魔が降りてきた。オリオンが真上に輝いているのを確かめて家に入り、玄関の鍵をしめた。

2018年12月17日月曜日

「釜じい」をした

 カミサンの実家(米屋の本店)の、師走恒例の作業――。
 一年にいっぺんはもちをつくるために「釜じい」をする。ドラム缶を利用したかまどにマキをくべ、火を絶やさないようにする=写真上。

義弟がもちづくりの采配を振る。かまどに湯釜をかけ、火を起こして、もち米の入った蒸籠(せいろ)を三段重ねにする。頃合いを見計らって、下から順に蒸籠を運ぶ。釜のお湯が減れば、義弟が水道の蛇口をひねり、私が釜のそばにあるホースを握って、「いきます」「オーケー」と連携して水を補給する。

 今年(2018年)のもちつき(といっても、機械でだが)が、きのう(12月16日)行われた。もちは、お得意さんへの「歳暮」だ、いつもだと、午後3時前後にはお役御免になる。が、今年は4時にずれこんだ。お得意さんのほかに配る数が増えたらしい。

かまどに突っ込むマキは、義弟が集めた剪定枝や廃材だ。それを燃料に湯をわかし、蒸気でもち米を蒸す。不思議なことに(いや、不思議ではないのかもしれない)、「釜じい」をするたびに沸騰水型の原子炉を思い出す。ありふれた民の家でさえ「空焚き」にならないよう、絶えず湯釜をチェックする。それでも、ヒヤッとするというのに、1Fでは最悪の事態への備えを怠った。

 今年(2018年)の燃料は、主にカミサンの実家の庭にそびえるケヤキの剪定枝を利用した。なかに1本、桜の樹皮に似た細い枝に点々と穴が開いていた。断面も穴だらけだった=写真下。数えると30前後はある。キクイムシだという。すさまじい食害痕だ。自然界ではこうして人知れず、いきものたちの攻防が展開されている。
 水を足したときには一気に過熱するために杉の角材を使った。杉はパチパチはぜて火の粉を散らす。煙突からも火の粉が出る。茅葺き屋根が普通だった時代、かまどや風呂の煙突からの火の粉がもとで火事になることがあった。ふるさとが大火事に見舞われた原因もそれだった。西風の吹く日、杉の木を燃料にしたか。

 一日中かまどにマキをくべ、揺らぐ炎を見続けた。煙で目がシブシブし、膝あたりが熱せられて、何度も右・左と足を動かした。顔が“火焼け”した。右手親指の先が痛い。見ると、やけどをして水ぶくれができていた。上着にはうっすらと、木酢液と同じにおいがついた。

「釜じい」の仕事を終えると、いよいよ年の瀬。一日はたらいたという思いと、「平成最後のもちつき」という感慨が交錯した。

2018年12月16日日曜日

師走のキノコ

 キノコが発生するのは、秋だけではない。梅雨どきにも出る。春も冬も出る。“原発震災”前は、夏井川渓谷の隠居へ行くと、土いじりの合間に、対岸の遊歩道を巡ってキノコを観察したものだ。初冬にはヒラタケが採れた。厳寒期の2月には、エノキタケを採った。
 原発事故から8年近くたった今も、いわきでは、野生キノコは「食べるな」「出荷するな」という制限がかかっている。自然災害だけだったら、とっくに復旧・復興の道筋がついている。原発事故は何年たっても見通しが立たない。いつになったら野生キノコを採ることができるのか、食べられるのか。「自然享受権」を奪われた市民の怒りは、年を経るごとにマグマ化しつつある。

 それはさておき、キノコが目に入ったら撮る、調べる――と決めて、この8年近くを過ごしてきた。

 師走に入って最初の日曜日(12月2日)、キノコが生える隠居の庭の立ち枯れの木(名前がわからないのが悔しいのだが)をチェックしたら、幹の上部でヒラタケがしおれていた。新たに生えたキノコもあった=写真上。傘に枯れ葉がへばりついている。ヒラタケに似るが、下から見える傘裏は“ひだ”ではなく“管孔”っぽい。どうやら初めて見るキノコだ。

 その週の金曜日(12月7日)、まだしおれずにいたので、幹のまたに足をかけ、柄の長い小鎌で柄を切り落とした。傘の表面は茶黒いうろこのようなもので覆われていた=写真下。
 図鑑に当たったら、アミヒラタケらしい。名前にヒラタケと付いているが、ヒラタケの仲間ではない。ヒラタケはヒラタケ科、アミヒラタケはサルノコシカケ科(あるいはタコウキン=多孔菌科)だ。やわらかい幼菌のうちは食べられるが、すぐ硬くなる、とネットにあった。確かに、発生に気づいてから5日たっても姿は変わらない。触ると硬かった。サルノコシカケの仲間だということが実感できた。

 この木からは毎年、ヒラタケとアラゲキクラゲが発生する。半分立ち枯れ状態だ。菌類にとっては最高のベッドなのかもしれない。内部でそれぞれが菌糸を伸ばし、時期がくると樹皮を破って子実体(植物でいう花)を広げる。それぞれの菌糸はぶつかって縄張り争いをしないのだろうか――などと、しろうとは立ち枯れの木の内部で繰り広げられるミクロのドラマに妄想を膨らませる。

2018年12月15日土曜日

ネギジャガの味噌汁

 品種の違うネギが手に入ったときには、ジャガイモとネギの味噌汁にする。阿武隈高地で生まれ育った。「三春ネギ」とジャガイモの味噌汁の味が味蕾に刷り込まれた。で、その味の記憶がネギの品質を判断する“基本”になった。
いわきの街で売られているネギは白くて太いのが主流。見た目は立派だが、けっこう硬い。味もあまりない。

40歳を過ぎて、夏井川渓谷の隠居へ通いはじめ、親しくなった家で朝食をごちそうになったとき、自家栽培のネギとジャガイモの味噌汁に飛びあがった。これだ、この味噌汁だ、小さいときに食べたのは! 聞けば、「三春ネギ」だという。いわきの街で買って食べていたネギと、渓谷のネギは品種が違っていた。

以来、知人から種と苗をもらい、失敗を繰り返しながらも種の冷蔵保存を覚えて、自家採種で三春ネギの栽培を続けている。

冬ネギが出回る季節を迎えた。わが菜園の三春ネギはすでに11月から収穫を続け、残りは採種用のものを除いて20本程度になった。

自家栽培のネギだけでは間に合わない。「三和ふれあい市場」へ行ったときには三和町の地ネギを買い、道の駅よつくら港でも同じように地元産のネギを買う。それらもまた、ネギジャガの味噌汁にして味や硬軟を確かめる。

水曜日(12月12日)の朝、前夜の残りのけんちん汁(トン汁)に輪切りのネギがちらしてあった。加熱されていなかったからか、リンゴの皮のように硬い。白くて太かったという。めったにないことだが、ネギを取り除いて食べた。

翌日、内郷へ行った帰り、郡山市に本社のあるスーパーへ寄って買い物をした。師走に入ると、郡山の「阿久津曲がりネギ」が野菜コーナーに並ぶ。あった。3束を買った=写真。

きのう(12月14日)朝、カミサンに頼んでネギジャガの味噌汁にした。台所に行くと、ネギの香りがする。味噌汁をすする。ネギが甘くてやわらかい。1年ぶりの味に舌が喜んだ。

2018年12月14日金曜日

ヤマベ沢のガードパイプ破損

夏井川渓谷を縫う県道小野四倉線の最狭部は、支流・ヤマベ沢にかかる橋。長さは5メートル前後か。名勝・籠場の滝のすぐ下流にある。
山側がコンクリート吹きつけの崖、谷側が展望スペースの出っ張りを含めてガードパイプで遮られている。出っ張りのガードパイプがヤマベ沢の橋の欄干で、下に滝があるとはだれも気づかない。すぐ上に磐越東線のトンネルがある。沢の水はその下をくぐりぬけてくる。

もう20年ほど前になるだろうか。橋を架け替えるためにしばらく通行止めになったことがある。隠居へは下流側で車を止め、1キロほどを歩いて行き来した。道路に留め置くために、書類に車のナンバーを書いて出した記憶がある。

先週の金曜日(12月7日)朝、隠居へ出かけたら、出っ張りのすぐ上流側の支柱が傾き、ガードパイプがゆがんでいた=写真。谷側には応急のガードパイプが組まれていた。行楽客とドライバーに注意を喚起するため、チョコレート色のパイプに黄色いテープが巻かれている。一見、“トラテープ”だ。よく目立つ。

四半世紀近く、ほぼ毎週、夏井川渓谷へ通っている。そのため、道端の杉林が伐採された、どこそこのガードレール(パイプ)がへこんだ、花が咲いた・散った――などは“週単位”でわかる。ヤマベ沢のガードパイプ破損も、12月2日(日曜日)にはなかったから、その日の夜以降6日までのことだろう。

そこは、ダンプやバスがかろうじて通れるくらいに狭い。軽自動車であっても交差はできない。とすると、考えられるのは、スピードを出し過ぎた車の自損事故……。

渓谷の道路にはセンターラインがない。昼間は、シルバーマークの車が目立つ。例外なく道路の真ん中を走ってくる。カーブで何度もひやりとした。

ところが、夜は車のライトで対向車両がわかる。慣れたドライバーはアクセルブレーキだけでカーブを曲がる。なかには、なにかで神経がゆるんでしまったドライバーがいるかもしれない。砂時計のくびれのように急に狭くなったヤマベ沢の橋でハンドルを制御できずにガードパイプに激突した?――元ブンヤはそんな状況を想像する。

ガードパイプを越えて谷に転落したらオオゴトだった。新聞やテレビではニュースになっていないから、意外と軽傷で済んだか。

2018年12月13日木曜日

蒸しかまどと近代考古学

今年(2018年)7月19日付の拙ブログに「『平町特産』の蒸しかまど」のことを書いた。きょう(12月13日)はその続編、“古新聞シリーズ”10だ。
 戦前、いわき地方で発行された日刊紙のひとつに「磐城新聞」がある。いわき市立図書館がほかの新聞と併せて電子データ化したので、必要なときには図書館のホームページを開いて読む。しかし、いつかは現物を手にしたいものだ、と思っていたら――。

 日曜日(12月9日)午後遅く、若い仲間から連絡が入って、某所に「瀬戸物がいっぱいある」という。古物商でもあるカミサンが反応した。しかたない、アッシー君になって出かけた。瀬戸物組とは別に、ほこりの舞う倉庫で書籍類を眺めているうちに、昭和13(1938)年の磐城新聞が目に留まった。今の朝刊と同じブランケット版で、ペラ1枚2ページ(タブロイド判でいうと4ページ分)だ=写真上。
1月26日付~2月3日付の8部(1月31日付は休刊日のために、ない)を借りてきた。なかに「石山式 石綿ムシカマド」の広告(1月27日付)があった。当時、いわきを代表する問屋、釜屋商店が写真付きで蒸しかまどを宣伝していた=写真中。

ちょうど1カ月前、いわき地域学會の仲間から、「考古学ジャーナル」という雑誌(今年10月号)の抜き刷り=写真下=をもらった。「地域史のなかの近代考古学――いわき市の事例から」というタイトルで、「暮らしの諸相」のなかで蒸しかまどを取り上げていた。末尾の参考文献のひとつに拙ブログの「『平町特産』の蒸しかまど」が載っている。ブログを文献として扱ってくれたことがありがたかった。
 蒸しかまどは昭和初期の新しい炊事具。「東北地方南部では土ガマも利用された。通称『蒸しガマ』『蒸しかまど』と呼ばれるもので、筒形の土製容器の中に焜炉(こんろ)を装着してアルミ鍋で米を炊いた。燃料は煙の出にくい木炭を使用したが、籾殻(もみがら)を利用する場合もあった」

 そのあとにこう続く。「石城郡平町(いわき市平)で昭和前期に生産されたものである。簡単に移動できること、煙が出ないこと、飯が美味しく炊けることなどから、かまどを持たない住宅や市街地の料理屋などで重宝され昭和30年代頃まで使用された」

 阿武隈高地のわが実家でも、高度経済成長期に入って電気炊飯器が登場するまでは蒸し釜でご飯を炊いた。子どもが火の番をした。容器はアルミ鍋ではなくて羽釜だった。10年余り前、カミサンの実家にある物置を解体したときにも、以前使っていたという蒸し釜が出てきた。今、それは夏井川渓谷の隠居にある。使おうと思えば使える。

古新聞から「近代考古学」に話が飛んだ。近代考古学は、一般にはあまりなじみがない。が、考古学に近代が付くくらいに生活の様式・道具などが劇的に変化した、それらがうずもれ、忘れ去られつつある、ということなのだろう。ちょっと前までの事象・事物でさえ、民俗学から考古学の対象になる――という解釈でいいのか、仲間に会ったら聴いてみよう。