2018年11月17日土曜日

偶然の贈り物

 何度も書いているので、「またか」といわれそうだが――。夏井川で越冬するハクチョウの写真をときどき撮る。
 火曜日(11月13日)の午後2時半ごろ、街からの帰りに堤防を行くと、前方上空にハクチョウの一群が現れ、旋回を始めた。どこかの田んぼで採餌しながら休んだあと、戻ってきたのだ。

ジェット旅客機、電車、沖を行くフェリー。動くものは魅力的だ。これらは焦点を合わせやすいが、飛んでいる鳥は、私のウデでは難しい。でも、ハクチョウは体が大きい。撮りやすい。着水までの様子を撮影できる、またとないチャンスだ。急いで近づき、カシャカシャやった。

 この時期、車で街へいくときには300ミリの望遠カメラを携行する。それで10コマ近く撮ったが、飛んでいるものはほとんどピンボケだった。たまたま着水する瞬間の2コマがなんとか見られる状態だった=写真上・下。
 ハクチョウが休んでいるところは何度も撮っている。しかし、動きがない。動きのある写真がほしい。はばたきでもいい。羽繕いでもいい。離・着水はそれこそ最高の瞬間だが、朝・夕張り付いているわけにはいかない。そこへたまたま午後2時半ごろ、ハクチョウが舞い戻ってきた。

出合い頭のシャッターチャンスは「偶然の贈り物」だ。狙いどおり、なんていうのはおこがましい。たまたまその時間にいわせたからこそ、カメラを向けることができたのだ。いつかはいい写真を――という一念が神様の気まぐれを誘った。

それに、と思う。越冬地のそばに住む女性が、今は「ハクチョウおばさん」をやっている。午後3時ごろ、えさやりをするのを見たことがある。ハクチョウたちはえさをもらえる時間が近づいたので舞い戻ったのだろう。

とりあえずピントが合っている2コマを拡大したら、くちばしの黄色がくさび状に伸びていた。オオハクチョウだった。

2018年11月16日金曜日

山梨県立文学館報第106号

 山梨県甲府市の山梨県立文学館で、「歿後30年草野心平展――ケルルン クックの詩人、富士をうたう。」が11月25日まで開かれている。先日、いわき市立草野心平記念文学館へ出かけた際、山梨県立文学館報第106号を見て知った。
 福島の詩人和合亮一さんが「心平さんがいつも隣に」と題するエッセーを寄稿している。毎年何回か、中通りから在来線(郡山駅から小川郷駅まではJR磐越東線)を利用して心平記念文学館へ行くという。

「街から山の中へ、そして川沿いへ。車窓の空の表情が少しずつ変わっていく。雄大な景色とそこに浮かぶ雲が、心平さんの心の世界を見せてくれているように感じる。眺めながら駅弁などを開くと、詩人と並んで食べているような気がしてくる。歓迎されるかのように『背戸峨廊(せどがろ)』と呼ばれ親しまれている美しい渓谷の入り口のあたりを抜けていく。ここは心平さんが名付けた景勝地である」

「背戸峨廊」に、正確に「せどがろ」とルビを振っている=写真。拙ブログで何回も指摘したことだが、誤って広まった読み方「せとがろう」が跡を絶たない。「せどがろ」派が盛り返してきたのはつい最近で、福島県を代表する現役詩人が「せどがろ」派に加わったことは心強い。

 ついでにいえば、夏井川渓谷と背戸峨廊は同じではない。磐越東線から見える渓谷は夏井川渓谷、夏井川本流そのものだ。背戸峨廊は磐越東線江田駅近くで本流に注ぐ支流・江田川。山の陰にあって列車からは見えない。

 最近の私的な関心は、背戸峨廊は「河川争奪」の結果、現在のような姿になったらしいということだ。江田川とは山を挟んで流れる加路(かろ)川は、大昔、水源が江田川の上流にあった。それが河川争奪の結果、江田川に流れを奪われた。

加路川流域の住民はそれを知ってかどうかはわからないが、江田川のことを「セドガロ」(背戸の加路川=裏の加路川)と呼びならわしていた。このセドガロに心平が背戸峨廊という漢字をあて、PRした結果、全国的に知られるようになった。

2018年11月15日木曜日

撮り菌・食べ菌・キャラ菌

 Eテレの「沼にハマってきいてみた」、略して「沼ハマ」は毎週月~水曜日夜の放送だ。先週(11月7日)、新聞のテレビ欄をながめていたら、キノコの文字が目に留まった。晩酌をやりながら、初めて見た=写真下。
 若者向けの番組らしいことは、司会者が若い人なのでわかる。その一人が松井愛莉さん(22)=火・水担当=だった。字幕で知った。いわき民報などの記事で名前は記憶していた。いわき出身ではなかったか。モデル・女優・歌手だという。

沼にハマる――。底なし沼に沈むイメージがあるが、要はナニかにハマる(熱中する)若者を紹介する番組のようだ。きのう(11月14日)は「カレー沼」だった。カレーをつくって食べ続ける女性と、カレーを食べ歩く少年の2人が登場した。ハマり具合がハンパではない。

先週の「キノコ沼」も、高度な研究レベルに達した少年と、キノコグッズに囲まれて暮らす女性が登場した。鉄道ファンは「撮り鉄」「乗り鉄」などに分けられる。キノコにも同じように、「撮り菌」「食べ菌」「キャラ菌」などという分け方があるのだとか。若い世代の「キノコ愛」の一端がうかがえる名づけ(4音略称)ではある。年寄りはつい「バイ菌」を連想してしまうが。

40年余りキノコと遊んできた。長くやっていれば思わぬ発見もある。「キノコ沼」を見た翌日、夕刊のいわき民報がアカイカタケのことを記事にしてくれた=写真右。採取の経緯は拙ブログに書いた通りだが、「人知れず現れ、人知れず消える」菌類の神出鬼没ぶりと色・形の不思議さに、あらためて感じいった。

「キノコの話をしてくれ」。夕刊が届いたころ、メールで依頼がきた。キノコに関しては、一般的な「撮り菌・食べ菌・書き菌」にすぎない。研究者ではないので、キノコそのものの話はできない。その周辺、キノコと人間の関係、たとえば阿武隈のキノコ食文化や、文献にみられる阿武隈のキノコの話ならできるかもしれない。

話をするのはざっと1年後だ。ここは「読み菌」「調べ菌」になって40年簡を振り返るのもいいかなと思っている。

2018年11月14日水曜日

“戊辰落城”の跡をめぐる

日曜日(11月11日)の午前、いわき駅北側の物見ケ岡(旧城跡)でいわき地域学會の巡検が行われた=写真下。駅北口で午前9時に集合――それだけの案内だった。会員を主に10人ほどが参加した。
物見ケ岡は夏井川の支流・新川左岸に位置する段丘だ。江戸時代には磐城平城が築かれた。戊辰戦争で落城したあと、「お城山」はあらかた住宅地に変わった。それでも、城の石垣やクランク状の小道などが残っている。

巡検前日の土曜日、いわきPITで上廣歴史・文化フォーラム「戊辰戦争150年記念講演・講談会」が開かれた。上廣倫理財団が主催し、地域学會が共催した。講談師の神田京子さんが幕末の岡っ引き、「青龍刀権次(ごんじ)」と明治の「炎の歌人与謝野晶子」を口演し、地域学會の夏井芳徳副代表幹事が「いわきの戊辰戦争 六間門の戦い 相馬将監胤真と中村茂平」と題して講演した。

夏井副代表幹事ほかがガイド役を務め、「六間門の戦い」を現地で“体感”する巡検になった。

 いわき駅西側の平跨線橋からお城山の磐城桜が丘高校(旧磐女)へ上る坂は、江戸時代は堀だった。それを埋め立てて道にしたという。その道を境に、東が本丸側、西が六間門側だ。六間門の先、高麗橋(幽霊橋)を渡ると飯野八幡宮がある。さらに、昔は地続きだった寺町へと橋を渡り、欣浄寺にある新政府軍の戦死者の墓石群=写真右=と、良善寺にある磐城平藩の戦死者の墓域を巡った。

 まずは本丸側に残る石垣を見、塗師門跡から城坂門・黒門へと進む。石垣は7年前の東日本大震災で大きく崩れた。まだ修復はなっていない。
スマホならその場で「磐城平城下復元図」「岩城平城内外一覧圖」などと照合できる=写真上。が、私は持っていない。帰宅後、パソコンでこれらの絵図に当たった。独身時代に住んでいたアパートは「城坂門」のところにあった。今もある。「黒門」はその先。魚屋があったところは駐車場に変わったが、後ろはどうやら丹後沢の西のはずれ、「武者落とし」の崖らしい。今度歩いて初めてわかった。

「六間門の戦い」では高麗橋をはさんで、八幡宮そばに新政府軍が陣取った。銃器の性能がまるで違う。新政府軍の銃は飛距離十分だが、平藩の銃は旧式でそこまで届かない。良善寺の山門にも新政府軍の銃弾痕があった=写真左。

良善寺を最後に、坂を下る。城下の古鍛冶~紺屋町~才槌小路~田町をたどって、ラトブ前で解散した。「田町会所」跡や、今は道路になった外堀兼水路に想像をめぐらせる。

さてさて、“現場”を巡った成果か、戊辰の戦いはなんだったのか、江戸城と同じく無血開城はできなかったものか――などと、頭のなかにさざ波が立ってきた。

2018年11月13日火曜日

カエデ紅葉、サクラ落葉

きのう、月曜日(11月12日)の夏井川渓谷――。晴れたり曇ったりの天気に、紅葉目当ての車がポツリポツリとやって来る。
 カエデは紅葉の見ごろを迎えたが、ヤマザクラなどの広葉樹はかなり落葉した。赤・黄・茶と彩り鮮やかだった対岸の森からサクラやツツジの赤が消え、地味な茶系の葉が残るだけになった=写真上。裸木が目立つ。

渓谷の隠居の庭のはずれで土いじりをしていると、そばの県道を行き来する行楽客のひとりから声がかかった。「オジサン、なにつくってるの?」。オジサン? 声の主を見ると、私と同年代かもしれないオジサンだ。「秋まきネギ」「ヘェー」

あとでまた通りがかりながら、「ここに住んでるの?」と聞く。「週末だけね(といっても、きょうは月曜日か)」「ヘェー」。日曜日だろうが月曜日だろうが、そんなことは、そちらのオジサンにはどうでもよかったようだ。渓谷は人里離れたところにある。でも、動物園のサルよろしく人間がいる。先入観と現実のギャップに好奇心がわいただけ、らしい。

朝9時半に土いじりを始めた。芽ネギの根元から落ち葉と草を抜き、白菜に取りついている黒虫・青虫を10匹近く退治した。終わると正午少し前。あっというまの3時間だった。芽ネギ=写真下=も白菜もこれで少しはせいせいしたか。
ネギの苗床は、風が吹けばすぐ落ち葉に覆われる。白菜も隠れていた黒虫・青虫が現れる。また今度の週末、芽ネギと向き合い、白菜の葉をチェックする。その繰り返しだ。

行楽客の目当ては県道沿いのカエデ。ところによっては緑から黄、赤へと変わってきた。最も鮮やかに燃え上がるのは、週末でいえば今度の17、18日か。隠居の近くのカエデに例年、三脚をかついだカメラマンが殺到する。日曜日は特に、朝9時前から人間が県道を行き来する。18日にはなにも予定が入っていない。行楽客が現れる前に土いじりをすませたら、マンウオッチングをしよう。

2018年11月12日月曜日

今年初めての「サンマ刺し」

日曜日に行事が入ると、頭の切り替えができなくて困る。現役時代もそうだった。
「人間と人間の世界」にどっぷりつかってへとへとになった週末、夏井川渓谷の隠居へ行くと、V字の谷や樹木の緑に圧倒されて「自然と人間の関係」に思いが至る。そのなかで土いじりをしているうちに、元気が戻る。
ところが、この秋――。10月下旬からは、28日を除いて日曜日には隠居へ行っていない。平日、気になって、とんぼ返りで様子を見てくるだけだ。

きのう(11月11日)も、いわき地域学會の巡検があって、いわき駅裏側の物見ケ岡(磐城平城跡)を歩き回った。<きょうはオレの日曜日ではない>と自分に言い聞かせて、主催者の一人として参加した。

歩き疲れてクタクタになった。そこへ、巡検担当でもある事務局次長が「11・12月の市民講座開催、会報「潮流」原稿募集の案内チラシを印刷してしまいましょう」といってきた。予定より一日早い。急に親戚の葬式が入ったのだという。それもこなして、さらにクタクタになった。あとはもう、焼酎をグイッとやって、カツオの刺し身をつついて、寝るだけ――。

いつもの魚屋さんへ行ったら、顔を見るなり「カツオ、はずれたー」という。仕入れたのはいいが、さばいたらカネをもらえるようなものではなかった。「(ほかには)なにがあるの」「マグロ、サンマ、タコ、……」。サンマとタコの刺し身にした=写真。

サンマを食べるのは、実は今シーズン初めてだ。カミサンも、かなり前からサンマを焼いて食べたかったようだが、カツオが入荷し続ける限りは「カツ刺し一辺倒」の私に遠慮していたのだろう。

味は? 甘くてうまい。しかし、カツオと違ってボリュームがないから、どんどん数が減っていく。満足感はカツオに遠く及ばない。やはり、カツオが入荷するうちはカツオ刺しで――を再確認した。
 
きょうは曇りだが、あとで夏井川渓谷の隠居へ出かけて土いじりをする。一日遅い“マイ日曜日”だ。カエデの紅葉が見ごろだろう。

2018年11月11日日曜日

「週刊だいどころ」とは妙

いわき市立図書館のホームページに収められている「「地域資料のページ」が11月1日、拡充された。家にいながら閲読できる明治・大正・昭和の地域新聞が、18紙から36紙に倍増した。新資料のうち東北日日新聞を真っ先に読んだ話を、先日、ブログに書いた。
 昭和4(1929)年8月、ドイツの飛行船「ツェッペリン伯号」がシベリアを横断し、日本の樺太・北海道・東北を南下して、19日、霞ケ浦(土浦市)に着陸する。いわきでは、東北日日新聞が平町(現いわき市平)の東端、神谷村の上空を小名浜方面へ向かって山沿いに飛行したことを伝えている。
 
ほかに磐城調査新報・磐城立憲新報・平新聞(福總新聞)・磐城中正新聞などがある。現在唯一の地域紙いわき民報とはライバル関係にあった戦後の常磐毎日新聞も読める。2、3日、時間をつくってはこれらの新聞をスクロールして、見出しを読んだ。

そのなかから“古新聞シリーズ”9として、「週刊だいどころ」=写真=を取り上げる。題名に引かれた。

昭和30(1955)年10月8日に創刊された。題字の下に「毎週土曜日発行」、前後に「石城地方で一番発行部数が多い」「発行所 だいどころ新聞社 平市新川町」とある。第2号に発行人の名前(金子源三)が載る。婦人層を対象に、料理・子育てなど日々の暮らしに役立つ情報を提供するのが狙いだったようだ。今でいう情報紙だろう。

写真で紹介した第15号(昭和31年2月12日付)は、しかし“台所情報”と違って、「いばらの道こえて 人生勉強」を特集している。平の経済人5人を取り上げた。ひげの世界館主鈴木寅次郎に引かれた。記事後半、人生も後半のくだり――。

「大正15(1926)年秋、17年にわたる茶屋商売の足を洗い、当時経営不振の映画館“有声座”を引(き)受けた。競争相手の平館が20銭なら、こっちは10銭。型破りの興行で客足を奪い、平日夜1回限りの上映を連日昼夜2回立てに改革、林長二郎の『雪之丞変化』、松竹不朽の名作『愛染かつら』などで馬鹿当(た)りをとった」

 終戦間際に試練が待っていた。「昭和20(1945)年7月、強制疎開で館は跡かたもなく取(り)壊され、1カ月過ぎて終戦。『よし、もう一度やるぞ』。悲運のドン底から起(た)ち上(が)り、翌21年10月7日、世界館として復活した」。今のポレポレいわきにつながるいわきの映画館史の重要なトピックだろう。これだけでも「週刊だいどころ」を読んだかいがある、というものだ。

2018年11月10日土曜日

地図に魅せられて

 このところ、気になる場所の地図を眺めては、いろいろ情報を読み取る訓練をしている。そもそも地図記号がよくわからない。にわか勉強ながら、地図の本をそばにおいて、ああでもないこうでもないとやっている。
 刺激になったのは、いわき地域学會の8月の市民講座。事務局次長の渡辺剛広幹事が「地図の見方」と題して、ネット(主にスマホ)で利用できる地理院地図のほか、地理情報システムや地図アプリなどについて解説した。地図もまた情報の宝庫だと知る。

「またかよ」と言われそうで恐縮なのだが、吉野せいの作品集『洟をたらした神』は、いわき市好間町北好間、菊竹山腹の開拓集落が主な舞台だ。

一帯の地質や土壌について、せいは次のように記している。「土は粘土まじりのごろごろです。掘り散らかされてある石も取り集めねばなりません。藪のうちは解らなかったが、平地にして見ると乾地湿地の無様な高低がはげしく目立ちます」(「春」)「親芋からにょきにょきと分かれてのび出した子芋の間へ、じっくり食い込んだ粘土質の重い土」「目の前に広い赭土(あかつち)の畑が沙漠を見るように無言で続いている」(「赭い畑)

 科学的・客観的にはどうか。福島県農地計画課が編集・発行した『土地分類基本調査 平』(1994年)の地図に当たる。すると、菊竹山一帯は①地形分類=中位砂礫段丘②表層地質=礫・砂・泥(中位段丘堆積物)③傾斜区分=傾斜15度以上20度未満④土壌=乾性褐色森林土壌(菊竹山頂周辺)/適潤性褐色森林土壌(山腹南東の西側)/黄色土壌(細粒黄色土=吉野家の周辺)⑤土地利用現況=集落と広葉樹林――とあった。

 詳しい説明は避けるが、菊竹の段丘は13万年前に隆起によってできた、菊竹山腹の表層地質には粘土が含まれている、菊竹は緩傾斜に近い、地味に乏しく、生産性が低いため、耕地には不向き、ということがわかった。吉野夫妻は長年、「やせ土」と闘ってきたのだ。作品のなかに描かれた土壌や地質は、県発行のこの地図からも裏付けられる。

では、わがふるさとの「アカジャリ(赤砂利)」はどうか。図書館から同じシリーズの『常葉』編を借りてチェックした。

アカジャリは南東の大滝根山を水源とする大滝根川が北西に流れて来て、田村市常葉町内でΩ状に曲流=写真(グーグルアース)=した下流(写真でいうと左側)の屈曲部にある。右岸は水田。左岸は、10メートル以上はあろうかという砂利の断崖だ。そこは好間・菊竹と同じ中位砂礫段丘で、土は細粒褐色森林土壌・粘質だという。「アカジャリ」といわれるワケがやっとわかった。「断層」ではなく、段丘であることも。

かつて、小学生は夏休みにこのアカジャリで水浴びをした。先日、中学校の同級会が開かれ、町内の小学校出身者が「アカジャリと(そこにあった)『坊主石』は、今どうなってる?」と町在住者に聞いていたが、答えはあいまいだった。すでに暮らしから遠い存在になっているのだろう。

さて、また別の話に移る。あした(11月11日)は「地図の見方』の実践編、地域学會の巡検がいわき駅周辺で行われる。

磐城平城が駅裏の物見ケ岡にあった。スマホを持っている人は地図アプリを利用し、持っていない人でもそれを見せてもらいながら、平城への登城ルートや戊辰戦争の様子などを現地で体感できる。あした午前9時、いわき駅北口集合で、参加費無料で実施する。興味のある方はぜひ一緒に“登城”しませんか。

2018年11月9日金曜日

石に刻む怖さ

 車でいわき市南部へ出かけた帰り、あるところで信号が赤になった。そばの石材置場にたまたま目をやると、「水徳六訓」と題する碑があった=写真。水鳥・川・海・雨だれ……。「水」写真コレクターなので、思わずパチリとやって、データをパソコンに取り込んだ。
「あらゆる生物に生命力を与えるものは水なり」「常に自己の進路を求めて止(や)まざるは水なり」などと、水の特性にからむ文章が彫られていた。

その会社の社訓だろうか? 社長の人生訓だろうか? 硬いものを扱っている商売だが、企業としては、あるいは個人としては水のように融通無碍な生き方をしたい――そんな思いが込められている? ネットで調べたら、原作者として大物右翼(故人)の名前が出てきた。

文章のなかに1カ所、直したい文字(助詞)があった。といっても石だ、消しゴムで消して書き直せるようなものではない。

 石に文章を刻む怖さを、先日、知った。頼まれて撰文原案を直し、「あとはそちらでどうぞ」と言って渡した。それが甘かった。文法的な間違いはない。誤字があるわけでもない。あとで付け加えられた部分だけ、文章のリズムが違っていた。

私は舌頭で音読しながら文章のリズムをととのえる。それが崩れた。たとえれば、同じペースで歩いていたのが、そこだけ急につかえて足踏みさせられたような感じ。碑文を読んだ人は、そこまでは気づかないかもしれない。が、文章づくりにかかわった人間としては、詰めの甘さに落ち込んだ。

 記者をやっていたので、誤字・誤植があると穴の中に入りたくなる。テレビ・ラジオと違って、紙媒体は紙がある限り、誤字・誤植も残る。石に刻まれたものは紙より恐ろしい。100年、200年と人の目にさらされ続ける。文章のリズムもそうだろう。

石に刻む文章を扱っている、という自覚が足りなかった。撰文を引き受けた以上は最後の最後まで責任を負うべきだった。同じリズムで通すべきだった。そうすれば、より完成度が上がり、後味もよかったのに。写真に撮った碑文を読むたびに脂汗がにじむ。

2018年11月8日木曜日

芽ネギと11月の蚊

 夏井川渓谷にある隠居の菜園に苗床をつくり、三春ネギの種をまいた。それでも半分以上余ったので、育苗トレーに埋めたのを自宅の軒下に置いた。ほぼ1カ月たった今、芽が7センチほどに伸びた。
 週に1回、隠居へ行って見るだけだったのが、今年(2018年)は毎日観察できる。それでわかったのだが、芽は“白い線虫”状になってあらわれる=写真上。それがすぐ、日光を浴びて緑色に変わる。

 二十数年見てきた芽生えの記録――。種は地中2、3ミリのところで眠っている。黒い殻を破った芽(根と茎の部分がある)はいったん上向きに伸び、やがて根の部分が屈曲して下へ、下へと向かっていく。茎は屈曲した状態で上へ伸び、ヘアピン状のまま地上に現れる(“白い線虫”はこの最初期の段階)。

 不思議なのは、土のふとんをかぶった黒い種がまた、茎に引っ張られて地表に出てくることだ。初期の芽ネギは、ポヤポヤの“緑毛”の先端に黒い殻をのせている=写真下=ために、「7」あるいは「?」のように見える。次の段階には黒い殻が脱落し、茎も根もピンと一直線になる。
 さて、と。ここからは11月の蚊の話――。朝9時前後、自宅で歯を磨きながら、かがんで芽ネギの様子をチェックする。と、飛び交う虫がいる。11月2日に手の甲をチクリとやられた。蚊だった。11月に入って蚊に刺されたのは初めてだ。

 30年余に及ぶ“定点観測”の結果として、わが家では毎年、5月20日前後に蚊が現れて人間を刺し始める。姿を消すのは10月20日過ぎ。ところが、4、5年前から11月に入っても、耳もとでブンブンやっている。11月に刺されたら、わが家では“歴史的な大ニュース”だ。その大ニュースになった。

 おととい(11月6日)は夜、茶の間でカミサンが手の甲をピシャッとやったら、赤い血が広がった。やはり蚊だった。(日中活動するのはヤブカ、夜はイエカだという)

 テレビでは、今年の夏は記録的な猛暑だったため、蚊もげんなりして活動が鈍った、それで蚊取り線香の売り上げが減った、というニュースを伝えていた。酷暑はともかく、地球温暖化が進んで、産卵~孵化(ボウフラ)~蛹~羽化(成虫のメスは吸血)のサイクル期間が延び、11月に入っても飛び交うようになったか(けさも現れた)。暦の上ではきのう、立冬だった、というのに。

2018年11月7日水曜日

足をけがしたコハクチョウ

 最近は普通のカメラのほかに、300ミリ望遠レンズ付きのカメラを車に持ち込んで移動する。夏井川にハクチョウが飛来した。あれだけの大きさだ。人間嫌いなのに、人間とつかず離れず生きているスズメよりは撮りやすい。それだけの理由で街からの行き帰り、夏井川の堤防を通って、ハクチョウがいればカメラを向ける。
 会津の猪苗代湖、あるいは中通り・福島市の阿武隈川にハクチョウが飛来すると、1週間~10日後には阿武隈の山々を越えて浜通り南部のいわきへやって来る。

今年(2018年)は10月9日、猪苗代湖に初飛来した。それから10日後、いわき市の夏井川に3カ所ある越冬地の最上流、小川町・三島で翼を休めているハクチョウを見た。野鳥の会に入っている知人は、日曜日(10月14日)に平で空飛ぶハクチョウの群れを目撃した。それが初飛来ということになる。

わが生活圏の平・塩~中神谷では、少し遅れて10月22日に飛来を確認した。11月に入ると落ち着いたのだろう、12羽のコハクチョウが姿を見せるようになった。つがいと子ども合わせて4~5羽が一単位のようだから、3家族の群れだろうか。そのグループに誘われるように、おととい(11月5日)午後3時過ぎには、50羽前後が川の中州や浅瀬にちらばっていた。

きのうは午前11時ごろ、12羽が休んでいた。座りこんだ1羽と幼鳥2羽を除けば、9羽が一本足で昼寝の最中だった。

へたりこんでいた1羽が立ち上がる。と、歩くたびに体が左に傾く。ほかの仲間が片足を翼に隠しているのに、彼(あるいは彼女)は両足のままだ=写真。左足をけがしていて、上げられないのか。どこでけがをしたのだろう。シベリアは生まれ故郷、白夜のツンドラで? 渡りの途中のサハリン(樺太)で? 北海道のクッチャロ湖で?

送電線に触れて翼を折り、「ハクチョウおじさん」に何年もえさをもらって過ごし、最後はどこかへ姿を消したハクチョウがいる。それ以来の傷病ハクチョウだ。足のけがは何が原因か。翼は大丈夫なようだから飛べるだろうが、離・着水はどうか。彼(あるいは彼女)から目が離せなくなった。

2018年11月6日火曜日

「父親に会いに来た」のだ

 いわき市立草野心平記念文学館で、同市好間町川中子(かわなご)出身の詩人猪狩満直(1898~1938年)の生誕120年記念企画展が開かれている=写真(チラシ)。おととい(11月4日)、同文学館で吉野せい賞表彰式が行われたのに合わせ、再観覧した。
満直は若いとき、妻子を連れて北海道へ渡り、開拓農民として苦闘の日々を送った。常設展示室と企画展示室の奥、アートパフォーミングスペース入り口で、今年6月、学芸員が撮影した釧路国阿寒郡舌辛村二十五度線(現釧路市阿寒町紀ノ丘地内)の「猪狩満直開墾地跡」の動画がエンドレスで流れている。

 以前は草刈りをしてくれる人がいたらしい。生えている木々は少なく若い。画面やや右奥にシラカバが1本、左手にはカシワの木が何本か。ササが覆う林床にはエゾブキが繁殖している。

 満直の最初の妻は、過酷な暮らしのなかで病死する。2人の間には3人の子があった(1人は1歳ちょっとで亡くなる)。二番目の妻は心身が強かったのだろう、6人の子をなした(1人は7カ月で彼岸へ渡る)。彼が40歳でこの世を去るとき、4男3女が残された。

 三女S子さん(89)と四女で末っ子のM代さん(82)を知っている。いわき地域学會の初代代表幹事、故里見庫男さんが中心になって満直の顕彰活動を続け、全集1巻の発刊、北海道といわきでの詩碑建立などを実現した。“里見旋風”に巻き込まれて冊子づくりなどに関係した。その過程で二人と親しく言葉を交わすようになった。

 おととい、企画展会場でS子さんとM代さんに会った。連絡し合ってきたのかと思ったら、そうではなかった。小名浜に住むS子さんは友達と、平にいるM代さんは息子の嫁さんと孫の3人でやって来た。M代さんとは動画=写真下=を見ながら話した。
 M代さんは満直の北海道時代を知らない。父親が亡くなったとき、M代さんは1歳5カ月だった。父親の記憶もないに等しい。父親の症状が悪化し、身体の衰弱が進んでいたころ、M代さん自身、「死んでもおかしくない状態で生まれてきた」。遺品も「文学館に寄贈されたからない」という。

 そのとき、脳内に電気が走った。<そうか、そうだったのか。S子さんも、M代さんも、「父親と父親の形見に会いに来た」のだ>。私らは詩人猪狩満直と遺品を見に来たのだが、彼女たちは違っていた。

それから、「猪狩満直開墾地跡」の動画に映っている草木の話になった。「ここにシラカバらしいものが1本ある。これはカシワの葉ではないか。シラカバが生えるような厳しい環境のところで暮らしたんだねぇ」と私。すると、M代さんがヤチダモの話をした。

 あとで、『猪狩満直全集』に当たる。詩集『移住民』のなかに、伐り出した材木を馬橇(ばそり)で運ぶ詩がある。「ヤチダモの十尺/十尺の二〇/この材は何に使ふんだろ/そんなことは考へなくったっていい/ただ橇にのっけて引っぱればいい」。ヤチダモを20本も運ばないといけない、そんな気持ちを詠んだ詩だろう。ヤチダモは家具や装飾材に使われた。バットにも。利用価値の高い木材だった。

「開墾仲間」と題した短編小説にこんなくだりがある。「七月の太陽は、北国の奥地をも酷熱の光で焼くことを忘れなかった。/白樺はそのみどりを、白雲の流れるコバルトの空へ噴水のやうに撒(ま)き散らした。畑の中では大豆小豆が青々と繁り、そのこわきの楢の大木では、りーじじじじじと、蝦夷蝉が鳴いた」

動画のなかで盛んに鳴いている蝉がいた。「エゾゼミではないか」。そうM代さんに告げたが、「開墾仲間」を読んで確信した。チラシの裏面にその開墾地跡の写真が使われている。ヤチダモらしい木も写っていた。湿っぽい土地でもあったらしい。開墾に血と汗を流さざるをえない環境だったことがうかがえる。

2018年11月5日月曜日

吉野せい賞受賞者と話す

 きのう(11月4日)、いわき市立草野心平記念文学館で第41回吉野せい賞表彰式が行われた。5人の選考委員を代表して選評と総評を述べた。
今年(2018年)は、正賞(せい賞)、準賞の該当作品はなかった。それらに次ぐ奨励賞に3編が選ばれ、中学生以下の青少年特別賞には2編が入った。

表彰式に先立ち、受賞者5人と昼食を摂りながら懇談した。そのときのやりとり、あるいは表彰式での受賞者あいさつ=写真、記者発表時での受賞者コメントから、作者の志向や動機などを知ることができた。

 受賞作品と作者を記しておく。奨励賞=①「森と海の端(はし)で」渡部茂樹(51)・公務員(好間)②「チーズは無理にさかないようにする」宮一宇(28)・塾講師(平)③「蕨堂」高木奴馬(24)・慶応大3年生(川崎=内郷出身)。青少年特別賞=①「過去と未来の交差点」新妻野乃香(15)・草野中3年生(平)②「セザンヌ」吉田快斗(15)平一中3年生(好間)。宮一宇と高木奴馬はペンネーム、「過去と未来の交差点」が戯曲のほかはすべて小説だ。

 自分のブログを読んで思い出したのだが、平成19(2007)年=第30回までは、3人による一次選考を経て、5人全員で二次選考を行うという形式だった。私が選考委員に加わった翌20年から、5人がそれぞれ全作品を読んで一次選考通過作品をしぼり、二次選考で合議するかたちに変わった。

今年の応募作品は41編と例年より少なめだったが、一次選考通過作品は17編と多かった。飛び抜けた作品がなかったため、選考委員の判断が分かれた。

 青少年特別賞にしぼって書く。新妻さんの受賞者コメントに「私は昔からドラマや演劇が好きで、今年の文化祭劇の台本を任されたこともあり、本コンクールに応募しようと思いました」とある。受賞者あいさつでも「将来は演劇関係の仕事に就きたい」と語った。浜通りでは新たな演劇文化が花開く予感がある。ぜひその一角を担ってほしい。

 吉田君は「今年の2月、登校中に作品の発想を得た」という。「この作品は僕にとって日々の思いのはけ口でした。その日ふと心に浮かんだことをメモし、それをもとに紡ぎました」と、受賞者コメントに記している。「銀の匙」の中勘助を「心の師匠」というあたり、並ではない。

 詩人鮎川信夫が晩年の日記に記していた文章がある。「人生(ライフ)は単純なものである。人がおそれるのは、畢竟(ひっきょう)、一切が徒労に帰するのではないかということであるが、人生(ライフ)においては。あらゆる出来事が偶発的(インシデンタル)な贈与(ギフト)にすぎない。そのおかえしに書くのである。正確に、心をこめて、書く。――それがための言葉の修練である」

奨励賞の3人も含めて、5人は「平成」最後の吉野せい賞受賞者だ。将来性という点では記憶に残る年になった。とにかく、正確に、心を込めて、書く――これに徹するしかない。

2018年11月4日日曜日

「歩こう会」と「せい賞表彰式」

きょう(11月4日)は日曜日で、作家吉野せいの命日。いわき市立草野心平記念文学館で吉野せい賞表彰式が行われる。総評と選評を述べないといけない。
 その前に、朝9時から神谷(かべや)市民歩こう会が開かれる。歩こう会のコースは神谷公民館~夏井川堤防~六十枚橋~ざわみき公園(河口部)までの往復9.5キロだ。河川敷と堤防を、ごみを拾いながら歩き、ざわみき公園で昼食・自由時間のあと、公民館へ戻って景品が当たる抽選会を開いて解散となる。

 吉野せい賞の表彰式は命日の4日に近い日曜日と決まっている。去年(2017年)はどういうわけか第二土曜日(11月11日)にずれ込んだので、歩こう会に参加できた。今年はまた日程が重なった。

歩こう会は、いわき市青少年育成市民会議神谷支部の地域部会が主催する。神谷地区の区長8人が分担する充て職のひとつで、支部長を務めている。出発前にあいさつし、一行を見送ってから小川の山上にある文学館へ向かう。

夏井川の様子を見ずにしゃべるのも気が引ける。きのう午後、車でコースの“下見”をした。夏井川の堤防に出るとすぐ、川中島にハクチョウが12羽、飛来していた。そこからちょっと下流にサケのやな場がある。右岸のいけすでサケが尾びれを見せながら水しぶきを上げている=写真上1。

六十枚橋から下流側、アグリパークいわき(観光いちご園)の一画に、追尾型の太陽光発電基地がある。それを間近に見ながら行くと、堤防の天端が急に幅広くなる。東日本大震災で堤防や河川敷に亀裂が走り、津波が夏井川を逆流した。堤防をかさ上げし、補強した結果、最下流部だけ車が楽にすれ違えるようになった。

 河口部では、釣り人が何人か糸を垂れていた。先日、河口部まで車を走らせたとき、夏井川に合流する横川(仁井田川)に地質調査のための足場が組まれていた。調査が終わったらしく、足場は解体されてなかった。
河口の磐城舞子橋を渡り、対岸の堤防をさかのぼって、平市街のはずれにかかる平大橋から再び左岸堤防にのり、川中島のハクチョウを見て帰った=写真上2。ざっと30分の間に、ハクチョウは3羽増えて15羽になっていた。

 きょうのあいさつでは、きのう見たハクチョウとサケのバシャバシャを紹介しながら、「足元のごみを拾うだけでなく、回りを、川を眺めて楽しんで」と言おう。「毎年同じことをしゃべっている」。そう受け取られても、自然にはマンネリはない、そのつど違った表情を見せるのだから、と開き直って。

2018年11月3日土曜日

ふるさとの米

 阿武隈高地のふるさと・田村市常葉町の話――。中学校の同級会が郡山市の磐梯熱海温泉で開かれた。常葉発着で旅館のバスが運行された。実家に用があったので、いわきから車で出かけ、このバスを利用した。帰りに一人、同級生を家まで送った。お礼に彼がつくった新米(玄米)=写真下1=をもらった、ということを前に書いた。
 カミサンが米屋の支店をまかされている。本店には精米設備がある。もらった玄米を義弟に頼んで精米してもらった。「品種はわからないけど、粒はしっかりしている」という。

その新米をきのう(11月2日)朝、カミサンが炊いた=写真下2。白い。米は白いのが当たり前だが、新米はこんなに白いのか、という白さだ。かみごたえもある。「粒がしっかりしている」というのがそれだろう。かんでいるうちに、ほのかなうまみが口中に広がった。
同級生が管理している田んぼは一筋町の西南、阿武隈川の支流・大滝根川に向かってのびた尾根と尾根の間に、段々になって連なる。自宅は田んぼの奥、手のひらでいえば“指また”に当たる小集落にある。山田作という――と書いて、急にいろいろ思い出した。

 まだプールがなかった時代、子どもたちは夏になると、大滝根川で水浴び(水泳ぎではない)をした。水に慣れ、水に浮くことを覚えると(小学校の高学年、あるいは中学生になりたてだったか)、自転車で町はずれの「山田作の沼」へ出かけて泳いだ。遊泳禁止のため池だった。親や先生の耳に入ると怒られる。そこで深く広い沼に浮かぶ快感と怖さを知り、必死になって泳ぐことを覚えた。

 沼への道しか知らなかった。車で送り届けた同級生の家は沼の奥にあるものだとずっと思っていた。が、そうではなかった。となりの沢(田んぼ)の奥だった。沼の道からも少し遠回りだが行ける。

もうひとつ思い出したことがある。「山田作の沼から水死体が揚がった」というので、仲間で自転車を飛ばし、見に行ったのは小学校の4年生のころだったか。沼のへりに消防団員らが輪になっていた。足元から人の左手らしいものが見えた。小さなグローブのように膨らんでいた。あとで見知ったおばさんが入水したのだと知った。

沼とも少年期とも関係ないが、後年、「天才・たけしの元気が出るテレビ!!」に、「エンペラー吉田」が出演した。「えらぐ(偉く)なくともただしくいぎる(正しく生きる)」と叫び、話の途中に入れ歯がのぞいて茶の間の笑いをとった。エンペラー吉田の自宅は山田作にあった。

山田作の米をかみしめながら、少年期のあれこれを思い出したのは、きっとそれがかけがえのないなにかだったからだ。そう、常葉のマチ場の子どもたちにとって、沼は、沼までの道筋も含めて冒険の世界、映画「スタンド・バイ・ミー」そのものだった。

2018年11月2日金曜日

「地域資料のページ」拡充

 いわき市立図書館のホームページをたびたび利用している。目当ては「地域資料のページ」だ。明治、大正、昭和と、いわき地方で発行されていた地域新聞18紙がデジタル化されて収められている(いや、いた)。同欄が11月1日に拡充されるというので、期待して待った。昭和初期の東北日日新聞が入っていれば、真っ先に読みたい。
 昭和4(1929)年8月、ドイツの飛行船「ツェッペリン伯号」がシベリアから東北の太平洋岸に沿って南下し、霞ケ浦に着陸した。いわきでは当時・平町の東端、神谷村の上空を小名浜方面へ向かって山沿いに飛行した――と同紙にある、という。

 いわきの作家吉野せいの作品集『洟をたらした神』の注釈づくりをしている。作品の一つ「ダムのかげ」は炭鉱の仕組みや暮らしを理解しないと注解ができない。炭鉱のことを知りたくて、逐次刊行物の「常磐炭田史研究」を読んでいたら、第5号で旧知の故・郷武夫さんの論考「いわきの空を飛行船が飛んだころ――昭和4(1929年)8月――」に出合った。図書館のホームページにはない東北日日新聞の記事を引用していた。

 炭鉱とは直接、関係はない。が、注釈づくりをしていて面白いのは、どんどん横道にそれて、まったく思いもよらなかったところへ行きつくことだ。飛行船を初めて見たいわきの人間の驚き、喜びを想像するだけでも、その時代の『洟をたらし神』の世界のエキスにはなる。

ホームページだから、11月1日午前零時にリニューアルされるのではないか。そう思っていたが、違った。朝起きてチェックするものの、トップページは前のまま。午前10時、図書館の開館時間に合わせてリニューアルされた=写真上。東北日日新聞もあった。すぐ飛行船の記事(昭和4年8月20日付=19日夕刊)=写真下=をプリントアウトした。起きてからの4時間が長かった。これを“古新聞シリーズ”8としておこう。
 新しくデジタル化された地域新聞は東北日日をはじめ、磐城調査新報・磐城立憲新報・平新聞(福總新聞)・磐城中正新聞など18紙で、現在唯一の地域紙いわき民報とはライバル関係にあった戦後の常磐毎日新聞も読めるようになった。

いわき総合図書館が収蔵する地域新聞はかなりの数にのぼる。いわきの近代史を調べるうえでは欠かせない情報の宝庫だ。諸橋元三郎の私設図書館「三猿文庫」の資料が市に寄託されたことが大きい。これだけの地域新聞をデジタル化した図書館は、ほかにないのではないか――8年近く「地域資料のページ」を利用し、恩恵にあずかっている身としては、いろんな感慨がよぎる。

 ここしばらくは当てもなく、電子新聞の森に分け入り、これまで「未読」だったエリアを巡り続けようと思う。

2018年11月1日木曜日

補修・交換・安静

 台所のガス温水器の寿命が尽きた。取り付けて21年。お湯の温度が上がらないと思っているうちに、お湯さえ出なくなった。プロパンガス屋さんに頼んで、きのう(10月31日)、新品と交換した。
「冬でなくてよかった」とカミサン。この時期、晩酌の焼酎はお湯割りだ。お湯の温度が上がらないから、やかんに入れてガスで沸かし直す。手間がかかる。数日、それを繰り返した。

 不具合は温水器だけではなかった。車の左サイドミラーが急に「ククク」とうなり始めた。運転席のパワーウインドウも、閉めようとすると途中で止まる。何回かやっているうちに、ようやく閉まる。雨が降ったり、街の駐車場に入れたりしたとき、少しあせる。

 長いつきあいのディーラーに電話で“症状”を伝えたら、すぐ来てくれた。サイドミラーはモーターが空回りしている。固定した状態でも支障はない。配線を切断してもらった。パワーウインドウは窓枠のゴムの溝にごみが詰まっていたらしい。それを取り除いたらスムーズに開け閉めができるようになった。途中で止まるのは“はさまれ防止”機能が作動するからだとか。

 夏井川渓谷にある隠居でも、台所と茶の間を行き来すると、きしみ音がする。濡れ縁も2カ所で腐っている。

 10年前、自宅の近所に住む中学校の同級生(大工)に頼んで、台所を広くし、出窓や押し入れを改修した。幅30センチほどだった縁側も、1.5メートルほどの濡れ縁にした。それで、布団が干せるようになった。だれかが来たときには語らいの場になった。夜にはテンなどもやって来る。糞でわかる。
 きしむのは、茶の間の側だった。同級生が畳をあげて見ると、敷居の下にすき間ができていた=写真上1。そこに木片をはさむと、きしみが解消された。後日、濡れ縁も腐った板を交換し、防腐剤を塗られてよみがえった=写真上2。

 自宅の温水器も、車も、隠居も、たまたま同時期に不具合があらわれた。メンテナンスに無頓着だからこそ、そうなった。

同じころ、隠居でミニ同級会を開き、酔って転んでろっ骨を折ったのも、足のメンテナンスを怠っていたからだろう。ほぼ50日、ドクターの指示に従って安静にしていた。晩酌も3週間ほど休んだ。5年ほど中断している散歩を復活しなければ――。きのう、近所を一回りしているうちに焼酎を切らしたのを思い出して、マルトに立ち寄った。帰ると、そういうことは忘れないのだから、という顔をされた。

2018年10月31日水曜日

横川で地質調査、あれか

 いわき市平・平窪の夏井川にハクチョウが飛来したのは、10月14日の日曜日。私はそれから5日後の19日、小川町・三島に分散してきた5羽を確認した。それが今シーズンの初見だった。
 さらに1週間後の金曜日(10月26日)、望遠カメラを持ち出して、トレーニングを兼ねて夏井川の河口へ出かけた。ハクチョウはいなかった。冬鳥のマガモが点々と羽を休めていた。

河口部で夏井川と合流する横川(仁井田川)に、パイプで足場が組まれていた=写真上1。一角に「地質調査中」の看板が立っている。ん、あれか!

7月に夏井川水系河川改良促進期成同盟会の総会が開かれた。小川町から下流平坦部の区長らが出席した。毎年、総会後に福島県いわき建設事務所が管内の夏井川の改修工事について説明する。そのとき聞いた横川の治水対策のひとつに、夏井川合流部の水門設置があった。ほかに、横川の築堤・護岸、夏井川左岸河口部の築堤・護岸が計画されている。

根っこにあるのは夏井川河口の閉塞問題だ。大正2(1913)年に脱稿、同11年に刊行された『石城郡誌』には、既にこの問題が記されている。夏井川は干天になると水の勢いが弱くなり、河口が閉塞する――。

閉塞すれば横川に逆流して、仁井田川が水の吐き出し口になる。昭和8(1933)年6月9日付常磐毎日新聞にも、「折角の工事/河口が埋る/夏井川逆流し/地元民が陳情」とある。

前に書いた文章だが、昭和7年度に時局匡救(きょうきゅう)事業として、夏井川河口部で改修工事が行われ、右岸・夏井村下大越(おおごえ)、左岸・草野村沢帯(ざわみき)に防波堤が設置された。

ところが、左岸河口で合流する横川の改修工事が手つかずのため、荒天のたびに河口が土砂で埋まり、河流が沢帯地内に逆流するようになった。思わぬ被害の発生に、地元区長ら代表数人が平土木監督所を訪れ、横川の改修促進を陳情した。

それからざっと85年後の現在、仁井田川が台風によって河口が開け、東日本大震災による地盤沈下などの影響も受けて、夏井川河口の閉塞と横川への逆流が常態化した。

 10年ほど前には、今、地質調査の足場が組まれているところに夏井川の水の逆流を遮る“石のダム”ができた。これはあえなく失敗した。いよいよ今度はコンクリートで積年の問題を解消しよう、というわけだ。夏井川河口ではこうして、いつもバードウオッチングが閉塞と逆流のリバーウオッチングになってしまう。
 そのあと、防波堤に立って太平洋を望んだ。波が激しくブロックを噛んでいた=写真上2。風が強い。しぶきが飛んで来る。早々に退散した。

2018年10月30日火曜日

辛み大根を収穫

夏井川渓谷の小集落・牛小川は自然のどまんなかにある。人間が自然から少し土地を借りて家を建て、自然の恵みを受けながら暮らしている。人間は自然の間借り人にすぎない――そんなことを、あらためて実感する“事件”だった。
おととい(10月28日)、朝から渓谷の隠居で土いじりをし、昼食をとったあと、濡れ縁に揺りいすを出して、中折れ帽をかぶったまま昼寝をしていたら――。

なんと、野鳥が1羽、帽子のつばに止まって「チチチ」とささやくではないか。目を開けると、鼻の先に尾羽が垂れている。長い。色は茶系で先端が丸みを帯びている。重さはまったく感じなかった。人間と認識していれば、野鳥は最初から近づかない。動かぬモノ、たとえば岩かただの布と判断したから、止まって何秒か羽を休めていたのだ。町場のわが家では考えられない出来事だ。

それと同じくらいに不思議なことがある。庭のはずれの菜園に一度、辛み大根の種をまいた。以来、越冬して花を咲かせ、実の入った莢(さや)がこぼれて、勝手に発芽するようになった。今年(2018年)も草にまぎれて10株くらい生長した。

そのうちの1本が大きく葉を広げ、根元をのぞかせている。引っこ抜くと、太くて長い。これまで育ったなかで最高の出来だ。一生懸命世話を焼けばひ弱な細い大根になり、放っておけば勝手に立派な大根になる。辛み大根は野性が強いのだろう。

三春ネギはその逆で、手をかけないと太くならない。そのうえ、今年は秋雨が続いて、根腐れ気味だった。辛み大根と併せてネギを数本引っこ抜いたが、根を残して折れるものが相次いだ=写真。

辛み大根はきのうの朝、少しおろして醤油をたらし、味見をした。辛さがあとからきた。

この大根はしかし、おろしにしかならない。漬物や汁の実にしても硬いだけ。とはいえ、勝手に生長してくれた食材だ。おろし以外にも食べられる方法を考えないと。

ついでながら、帽子に止まった野鳥の種類は何だったか。ホオジロか、アオジか、スズメか……。野鳥図鑑を眺めては、ああでもないこうでもないとやっている。せっかく信用して頭の上で羽を休めてくれたのだから、特定しないとおさまらない。

けさは下半身が痛い。土いじりといっても大半は草むしりで、椅子カートを使ってスクワットをしているようなものだ。筋肉痛は翌々日にピークを迎えるらしい。

2018年10月29日月曜日

日曜日の土いじり

 10月は、週末に用事が続いた。平日、雑用の合間に夏井川渓谷の隠居へ出かけ、ささっと土いじりをしては帰って来る、ということをしても、菜園の草むしりはやっぱり間に合わない。
 体育の日(10月8日)に三春ネギの種まきをした。タイミングを逃したら、翌年、自産のネギを食べられない。まずは自分の“農事暦”の一つをこなしてホッとする。

 それからざっと3週間。きのう(10月28日)朝、隠居へ出かけて菜園の草むしりをした。

 白菜苗の畝をハコベが覆っている。苗のまわりのハコベを取り除き、三粒の点まきにしたままだった苗を一本立ちにした。間引いた苗は、汁の実にしてもたいした量ではない。別のところに植え直した。活着したらもうけものだ。

白菜は8月下旬に種をまいた。発芽しなかったり、発芽しても消えたりしたのが半分もあった。種まき直前に菜種の油粕をまいて土にすき込んだため、それから発生したガスで発芽障害がおきたのだろう。

余った種を育苗トレーにまき、自宅の軒下に置いて水やりを続けたら、本葉が出てきた。これを隠居へ持って行って補植した。間引いて植え直した苗も含めると、大・中・小合わせて50株になった=写真上。そのまま育てば、漬物だけでなく、春には菜の花の味が楽しめる。

 三春ネギの苗床の草むしりもした。ネギは芽生えたばかりで、丈は5~7センチ。発芽率はざっと7割か。今のところ、思った通りに緑の隊列ができている=写真下。ハコベかなにかの草の芽も生えてきた。これらはネギ苗に必要な日光を遮る。全部は取り切れない。が、隊列にまぎれている草の芽はあらかた除去した。取ってもとってもあとから生えてくる。そのつど手をかけるしかない。
 昼食と昼休みをはさんで、土いじりはざっと5時間に及んだ。三春ネギの種まきを終えたときには、ホッとしてどこかへ遊びに行きたい気分になった。そのあと、十分手をかけてやれなかった。きのうはたっぷり白菜とネギにつきあった。食害する黒虫も取り除いた。やれることはやった、あとはカツオの刺し身でグイッとやるだけ――久しぶりにそんな気分になった。

まちの暮らしはそれなりに楽しい。キョウヨウ(きょう用事がある)とキョウイク(きょう行くところがある)で忙しい。それでもどこかフワフワ漂っているような感覚がつきまとう。それを、日曜日の土いじりが解消してくれる。地に足が付いた感覚が戻ってくる。

一番の手ごたえは、太陽や雨風と一緒にモノをつくっている、という“創作感”に包まれることだろう。精神衛生上、土いじりが欠かせなくなった。

2018年10月28日日曜日

日本語スピーチコンテスト

 いわき地球市民フェスティバルがきのう(10月27日)、いわき駅前再開発ビル「ラトブ」6階、いわき産業創造館で開かれた。外国にルーツを持つ市民によるスピーチコンテストと、出場者と市民の交流会の二本立てで、ユネスコやシャプラニール=市民による海外協力の会などのブースも設けられた。
 いわき市民間国際交流・協力団体連絡会が主催し、市が共催した。シャプラニールいわき連絡会も主催団体に加わっているので、去年(2017年)に引き続き、5人の審査員のひとりに引っ張り出された。

 一般の部には英語指導助手(ALT)や主婦、技能実習生、小学生など7人、高等教育機関の部には中国・モンゴル・ネパールからの留学生5人が出場した。テーマは「こうなったらいいな 明日のいわき」。外国人から見たいわきのいいところ、改善してほしいところなどを、トツトツと、あるいは流暢に話した。

 大賞を受賞したのは、一般が小6の押川マリアさん(12)。ふるさとのフィリピンと日本は、「豊臣秀吉の時代には仲良くしていた。第二次世界大戦では日本が占領した。今は仲良くしている。私にできることは、みんなと仲良くし、協力し合い、ごみを拾うこと。そうすれば、笑顔ときれいな自然でいっぱいのまちになる。戦争がおきたら家族はバラバラになる。平和だといいなと思う」と訴えた。

 高等教育機関の部では、福島高専に留学しているモンゴル出身のオトゴンバートル・ムンフゲレルさん(20)が原発震災を取り上げ、ハキハキとした口調で「自分の目で確かめようと思っていわきへ来た。びっくりした。みんな普通に生活している。間違った情報のままでいるモンゴルの人に、世界の人に、ネットで正しい情報を発信したい」と語り、会場の共感を呼んだ。

 大賞以外にも、出場者全員に「ダジャレがうまいで賞」「ハスのように美しいで賞」「公園を増やしま賞」などと、聴衆と審査員の“合評”でスピーチ内容に見合った賞が贈られた。

「素晴らしい提案で賞」には、いわきに住む外国人の思いの一端が現れていた。「外国人ができる仕事を増やしてほしい。学校でもっと英語などを教えてほしい。運転免許を取るための知識をわかりやすく教えてほしい。外国の食料品が買える店があってほしい。多くの外国語の案内があってほしい」

「ふだんのいわき」とは違った「もうひとつのいわき」にいるような時間を過ごしたあと、出場者・スタッフ・市民が一緒になって記念写真に納まった=写真。