2018年7月17日火曜日

海につかる

 年齢的に耐性が低下したのか、年齢に関係なく猛暑がこたえるのか――。三連休最後のきのう(7月16日)も海で夕涼みをした。
 おとといは四倉海水浴場、きのうは薄磯海水浴場へ=写真上。津波被害に遭って内陸部に移り住み、しかし、いつかまた薄磯での営業再開を心に決めて暮らしてきた女性喫茶店主がいる。今年(2018年)の「海開きまでには」と聞いていたので、再オープンしているかもしれないと、車を走らせた。夕涼みよりも、こちらが主目的だった。

場所は聞いていなかった。「高台移転」のために元・集落の背後の山が切り崩された。区画割りがすんで家も建ち始めた。しかし、それらしい建物はない。高台から下りてふもとを巡ると、あった。2階建てで、1階は駐車場。前の建物と似ている。近くにいた人の話では、再オープンは月遅れ盆のあとになるらしい。

それよりなにより、沿岸部は高い海岸堤防と防災緑地の連続で海が見えなくなった。その陸側に新・海岸道路ともいうべき“復興道路”ができた。薄磯は防災緑地をはさんで2本。海側と陸側を走る。

きのうは夏井川河口部からその道路を利用して薄磯まで行き、さらに豊間の先の合磯(かっつぉ)まで行って、薄磯へ戻って海につかった。

四倉は防災緑地から汀までが遠い。もともと砂浜が広くて大きいから、高度経済成長期前には、中通りから浜通りへ海水浴に、となると、汽車で四倉へ行くのが定番だった(ように記憶している)。砂浜を素足で歩くとやけどしそうになる。それが、四倉。薄磯はその点、すぐ汀にたどり着ける。車でも行きやすい。震災前の平成22(2010)年には、いわき市内でトップの入り込み数を記録した。

寄せては引く波に足をぬらしたが、海の感覚を失っていた。かわいい波なのにめまいを感じた。初めて海を見た幼年期に、同じようにめまいを覚えた。循環して完結するときが近いのか。

砂浜を引き上げるとき、階段の上に親子のシルエットが見えた=写真下。このあと、親子に続いて水で足首の砂を洗い流した。自宅へ戻るとすねに残っていた砂が畳にこぼれた。海につかった部分には砂が付く、足首から下を洗うだけでは、十分ではないことを知る。
 
さて、こんな暑さが続くようだと――と思う。年寄りはとにかく早く寝て、未明の3時か4時には起きて、朝めし前に仕事をすませる。日中は横になっている。水をたくさん飲みながら。というわけで、けさは4時に起きた。

2018年7月16日月曜日

樹下を吹き抜ける涼風

 畑仕事は7時半まで――夏井川渓谷に住む友人のいうとおりだった。きのう(7月15日)早朝7時、同渓谷の隠居に着いた。すぐキュウリを摘み、生ごみを埋めた。日なたには10分もいられない。
 去年(2017年)もらって、カミサンが置き忘れていたジャガイモがある。3月になると芽が出た。台所にあるものは、4月に入るとすぐ植えた。2カ月半がたって地上部の葉が枯れたので、掘り起こして子芋を掘りとった。「みそかんぷら」にした。

もうひとつ、別のところに段ボール箱入りのジャガイモがあった。四角い箱のなかでびっしり芽を出していた=写真上。カミサンが気づいたのは5月下旬。土の栄養にしてもいいと思って、これも植えた。地上に現れた葉が枯れかかったので、きのう、掘りおこして小芋を収穫した=写真下。また「みそかんぷら」が食べられる。
キュウリもジャガイモも、朝のうちはそばの木のおかげで日陰になっている。直射日光を浴びないだけ楽に作業ができた。小芋を掘り終えると8時になっていた。

朝食をとったあとは、もうやることはない。が、かみさんは木陰を選んで草むしりを続けた。私も、庭木の下でマメダンゴ(ツチグリ幼菌)を探した。樹下を吹き抜ける風が涼しい。夏は室内で扇風機をかけているより、緑陰で風に吹かれている方が、気持ちがいい。

渓谷の森は天然のエアコン。その森が少しかすんで見える。葉という葉から盛んに水分が蒸散しているからか。

マメダンゴは、地上に頭を出しかけたものが二つ=写真下。もう大人の親指以上になっているはず、つまり中身は胞子ができて黒くなっているだろうから、写真だけ撮ってそのままにしておいた。
 あとは隠居の中で、扇風機をかけて過ごした。昼食は、隠居にあるものですませた。昼寝をしたあと、カミサンがまた木陰で草むしりを始めた。すると、間もなく「これマメダンゴ?」と持って来た。そうだった。3日前に4個見つけ、内部が黒くなっているはずと判断して埋め戻した。さらに、写真を撮ってそのままにしておいたものも掘り取った。

しようがない、今度はみそ汁の具にするか――。4個を二つに割くと、3個は胞子が形成されて“黒あん”だった。黒あんは土に戻して、殻だけ“白あん”とともに持ち帰ることにした。そのとき、ヒグラシの鳴き声が谷間に響いた。

2018年7月15日日曜日

海開き・梅雨明け・夕涼み

 きのう(7月14日)も朝から気温が上昇した。扇風機をかけっぱなしにした。それでも、8時ごろには茶の間で30度を超えた。少し仕事をしたあとは横になって過ごした。
 いわきではこの日午前、四倉・薄磯・勿来の3海水浴場で海開きが行われた。タイミングよく仙台管区気象台が東北南部の梅雨明けを発表した。

 東北南部の梅雨明けは、平年が7月25日ごろ。いわきで海開きが行われるころは、まだどんよりした天気が続き、肌寒かったりする。去年(2017年)は最初、カラ梅雨気味に推移したが、終盤になってぐずついた。東北の梅雨明けは、南部・北部含めて8月2日だった。その後検討が加えられ、「梅雨明けは特定できなかった」に変わる。

それが、今年はとっくに梅雨が明けたのではないか、と思わせるような猛暑続きだ。

 いわきの気候は東海・関東型(夏は温暖多雨、冬は冷涼乾燥)に入る。関東・甲信地方は6月29日に梅雨が明けた。いわきでは7月に入って、6・7日に天気が崩れた。勝手に解釈すれば、8日からきのうまでは一時的な雨をのぞいて猛暑が続いている。8日に梅雨が明けたも同じではないのか。

 きのうの最高気温は、さすがに沿岸部の小名浜でも31.5度の真夏日になった。内陸部の山田は、今年最高の34.5度だ。

 夕方、やっと動き出す。カレー料理店に米を届けたあと、海岸道路を通って四倉海水浴場へ行ってみた。海水浴客は引き上げていたが、サーファーが何人も白波に向かっていた。日没間近の6時だというのに、駐車場には関東圏などからの車がずらりと並んでいた=写真。3連休を利用して、駐車場でこのまま過ごす車が多いのだろうか。

防災緑地が海水浴場と駐車場の間に立ちはだかっている。緑地の階段を上らないと海は見えない、行けない。砂浜は相変わらず広かった。緑地のてっぺんで夕涼みをして帰った。

7月14日――。海開き。梅雨明け。なにかもうひとつあるような……。フランスの建国記念日、パリ祭の日だった。真冬に夏井川渓谷の「木守の滝」から取って冷凍庫にしまっておいた天然氷を砕いて、水のオンザロックにした。焼酎をなめては水を流し込む。水道水の氷と違って、やわらかい感じがした。

◆追記:日曜日夕方のニュースで知ったのだが、サーファーが集まっていたのには理由があった。15・16日の2日間、第1回東日本サーフィン選手権大会が四倉海水浴場で開かれた。

2018年7月14日土曜日

2回目の宮沢賢治展

 東日本大震災から1年後の2012年4月28日から6月17日まで、いわき市立美術館で「宮沢賢治・詩と絵の宇宙――理想郷イーハトーブを夢みて」展が開かれた。そのときの拙ブログを再掲する。
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 20歳前後から賢治にとりつかれ、「雨ニモマケズ」に共感と反発を抱き続けてきた。反発しながらも、賢治を“卒業”できない。「雨ニモマケズ」は自分の生き方を考えるときに、真っ先にわきにおきたいフレーズだった。<「ジブンヲカンジョウニ入レズニ>生きられるのか。生きられない、と。

 それよりもっと反発したのは、<農民芸術概論・序論>にある「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」。いよいよダメだな、オレは賢治についていけないな。

 賢治の全集を二回買った。『校本宮沢賢治全集』がそろったときに、古い全集を友人の娘にプレゼントした。中学生になるかならないかだったか。娘は大学と大学院で賢治をテーマにした。

 で、今度は『校本宮沢賢治全集』だ。息子・娘の世代は父・母になった。つまり、その次の世代、孫たちに賢治を伝えよう。今年(注・当時)中学生になった疑似孫がいる。小学5年か6年生のときに全集の1冊をあげた。読みこなしているようだ。

 賢治について書かれた評論・エッセーなどのたぐいも手元にかなりある。“卒業”ではなく、“バトンタッチ”をしたい。少しずつ疑似孫にあげよう――と思っていたときに、東日本大震災がおきた。原発が事故を起こした。

 世界がガラリと変わった。賢治の言葉が理想ではなく、現実になった。「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」。私は時折、この言葉を思い出しながら、非常な1年を過ごした。

「雨ニモマケズ」は、「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」からきているのだろう。病の床に就いた賢治の、死への自覚がもたらした「雨ニモマケズ」の根源に、圧倒的な死をもたらした大災害を経験してやっと触れ得た、という思いがする。
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 この思いは展覧会から6年たった今も変わらない。先日、いわき市立草野心平記念文学館の事業懇談会に出席した。ちょうど夏の企画「宮沢賢治展―賢治の宇宙 心平の天」=写真(チラシとパンフレット)=のオープニングセレモニーが終わったところに着いた。人でごった返す企画展示室をのぞいた。

 同文学館では平成11(1999)年夏、開館1周年を記念して特別企画展「宮沢賢治―賢治と心平」を開催した。それに続く開館20周年記念企画だ。
 
 この間に東日本大震災がおきた。個人的には2年前の8月、学生時代の仲間と樺太(サハリン)を訪ね、賢治が「銀河鉄道の夜」の発想を得たとされる白鳥湖や栄浜駅跡に立った。帰って、「銀河鉄道の夜」を読み返した。カニ・トナカイ・ラッコ……。サハリンで目にし、耳にしたモノたちが出てくる。「銀河鉄道の夜」は北の街の物語であることを実感した。
 
 粟津則雄館長がパンフレットのあいさつのなかで書いている。「東日本大震災の時、賢治の『雨ニモマケズ』が悲しみに打ちひしがれた人々に寄り添ったことは、まぎれもない実りのひとつの形だったと言えるでしょう」。賢治は「明治三陸大津波」の年に生まれ、「昭和三陸大津波」の年に亡くなっている。それを踏まえた展覧会になったか。
 
 前回は賢治を、賢治と心平の関係を、かなり力を入れて紹介していたことが、図録からわかる。とりわけ、「イーハトブの詩地図」が新鮮だった。そういう発見を今回も期待したが……。既視感で終わった。
 
 安斉重夫さんの鉄の彫刻、「賢治ファンタジー」が企画展示室となりのアートパフォーミングスペースで同時開催されている。まとまった作品を見るのは初めてだ。こちらはおもしろかった。

2018年7月13日金曜日

キュウリは正直だ

 夏井川渓谷の隠居で栽培しているキュウリが花を咲かせ、実をつけはじめた=写真下。植えた苗は2本。その苗から、夫婦で食べるには十分の実が生(な)る。
 この時期、日曜日ごとに通っていては肥大しすぎる。キュウリを栽培した年には、週半ばの水曜か木曜日にも出かけた。それにならって、先週から4~5日おきに、摘みに行くようにしている。

 露地栽培のわずかな経験だが、7センチほどの未熟果の先に花が咲いているものは、3~4日後には20センチ近くになる。それからさらに収穫が遅れると、ヘチマのようになる。

 先週の金曜日(7月6日)は早朝6時半、隠居に着いた。キュウリを1本採って、7時には隠居を離れた。夏井川の上流、川前方面へ向かう車が十台前後あった。時間帯からすると、小・中学校の先生や市役所支所職員などの車か。

 きのう(7月12日)の木曜日は、朝9時過ぎに出かけた。収穫したキュウリは3本。4、5日単位でキュウリの親づる2本が生産する量は、今はそんなものだ。渓谷に「除草作業中」の看板が立っていた=写真下。7、8人が出て道端の草を刈っていた。平野部ではダンプカーが動き回っていた。乗用車に混じって「働く車」が増える、平日ならではの光景だ。
 きのうはさらに早朝6時すぎ、近所の知り合いが“朝もぎ”のキュウリ3本と、つくりたてのおかずを持って来た。キュウリの1本を味噌で食べるために四つに切ったあと、切断面をくっつけてみた。「あさイチ」でキュウリを特集した際、須賀川のキュウリが登場した。新鮮なキュウリは切断してもその面をくっつけるとつながる――それを思い出した。いやあ、その通りになった。水平にしても垂直にしても離れない。

 逆を言えば、新鮮かどうかは切ってつながるかどうかで判断できる。水分が飛んで、中身が綿のように白くなったキュウリは、むろんつながらない。漬けてもうまくない。このごろは直売所やスーパーにもそんなキュウリがまぎれこんでいる(大根は反対に、水分が少し飛んだ方がやわらかく漬かる)。

 キュウリは正直だ。朝採り(朝もぎ)をすぐ調理するか、糠床に入れる。それでも余るようだと、古漬け用の甕に塩をまぶして加える。とにかく、すぐ食べるか漬けるかすることだ、と知る。

わざわざガソリン代をかけて渓谷へキュウリ1本を採りに行く――自分でも「高いキュウリ」だとはわかっている。が、人間が自然に学ぶ「授業料」と思えば安いものだ。

2018年7月12日木曜日

「いわきの映画館史」展

 いわき市生涯学習プラザでは、エレベーターホールとロビー壁面を利用して、「写真に見るいわきの映画館――娯楽の王様映画の記憶」展を開いている。同プラザ開館15周年記念の特別展だ。同プラザが入居するティーワンビルは、映画館「聚楽館(しゅうらくかん)」があったところだ。 
 これとは別に、開館10周年を迎えたいわき芸術文化交流館「アリオス」では、東口ウォークギャラリーで公募展示企画「いわきニュー・シネマパラダイス」が開かれている=写真上。こちらは「いわきの映画館史」展だ。映画制作集団BUNZUが展示物を制作した。

 去年(2017年)秋、いわきロケ映画祭実行委員会がイワキノスタルジックシアター第一弾として、いわきPITで吉野せい原作の映画「洟をたらした神」を上映した。そのとき知り合ったBUNZUの若い仲間から、「いわきの映画館で見た映画の思い出を」と声がかかった。昭和41(1966)年1月、東宝民劇で上映された加山雄三主演の映画「エレキの若大将」と、主題歌「君といつまでも」について書いた。
 
 以下は昭和初期の映画と映画館にからむ“古新聞シリーズ”3――。吉野せいの短編「赭(あか)い畑」に、友人の女性教師が「子供を全部混沌(注・せいの夫)に押しつけて私を誘い、夜道を往復二里、町まで歩いて『西部戦線異状なし』を見て来た」というくだりがある。
 
「赭い畑」は「昭和十年秋」の出来事を描いている。同年(1935年)秋からアメリカで映画がつくられた1930年へと、戦前いわきで発行されていた地域紙・常磐毎日新聞をさかのぼって調べたら、同6(1931)年9月10日付で上映を告げる「平館」の広告に辿りついた。それで、せいが「西部戦線異状なし」を見た年月日が推測できた。

 その過程でもう一つ、ソ連映画「アジアの嵐」が同6年3月9~11日、平館で上映されたのを知る。予告記事が同8日付に載っていた=写真左。

 活字になったせいの日記に「梨花鎮魂」がある。次女梨花の死の1カ月後、昭和6年1月30日に書き起こされ、4月28日まで書き続けられた、せいの赤裸々な内面の記録だ。
 
 3月10日の項に「渡辺さんへ顔出しして墓参に行って来た。梅の花真盛りであった。混沌ぶどう剪定。夕方から『アジアの嵐』を見に出平したが、見ないで帰って来た(略)」とある。日記だから「出平」したのはせいのことだ、とはどうもいえない。混沌のことでも主語抜きで書いていることがある。
 
 せいは前々日、義兄方の祝儀で小名浜へ泊まり込みで出かけた。家を留守にしたばかりでまた夕方、映画を見に出かけるなんてことが、幼い子を抱えた母親にできただろうか。混沌が出かけたのか、せいが出かけたのか。混沌だったのではないか。

 この2カ月以上、昭和初期の平の映画館の新聞広告と記事をつぶさにチェックしていたために、頭が映画でいっぱいになっている。
 
 合間の6月10日には、いわき市立美術館で「追悼特別展 高倉健」を見た(7月16日まで)。同15日には、小名浜に大型商業施設「イオンモールいわき小名浜店」がオープンした。4階に最新鋭機器を備えた「ポレポレシネマズいわき小名浜」が入った。

平の映画館の始まりを旅していた人間には、映画を見る場所が小名浜・主、平・従に替わったというだけで“大事件”のように思われる。
 
 さて、イワキノスタルジックシアターは今年、第二弾として8月5日、同じPITで本木雅弘主演の「遊びの時間は終わらない」を上映する。先日、その主催仲間たちと飲んだ。チケットを1枚買った。あとで上映曜日と時間を見たら、日曜日の午後1時半からだ。1人で見に行くわけにはいかない。茶の間でブーイングがおきる。主催者に連絡して、もう1枚買うことにした。

2018年7月11日水曜日

日本固有のトリュフ、いわきにも

 きのう(7月10日)の夕方、いわき民報を手にして仰天した。1面トップで「県内初トリュフ “ホンセイヨウショウロ”発見」の見出しが躍っていた=写真。記事の前文に「会報で発表した」ともある。
 ざっと2カ月前、いわきキノコ同好会の会報23号が届いた。座卓のわきに、トーチカのように資料を積み重ねている。カミサンには不評だ。その上に載せておいたら、いつのまにか中段あたりにもぐっていた。あわてて引っぱり出してパラパラやると、会長の冨田武子さんの報文が載っていた。うかつだった。新聞に抜かれた。

 トリュフは、日本にはないと思われていた。が、福島県内でも海岸の松林からウスチャセイヨウショウロが、阿武隈の山中からはトリュフの仲間が――と、発見例が相次ぐようになった。山の中のトリュフの場合は、イノシシが掘った穴に残っていた。

 今度もイノシシが第一の“発見者”のようだ。新聞記事と会報を併せて読むと、去年(2017年)秋、同好会の女性会員が平の里山で開かれた観察会に、前日、小川町の林道側溝わきで採取したキノコを持参した。そばにイノシシがミミズを探して荒らしたらしい跡があった。そこに転がっていたのだという。

 冨田会長はこれをあずかり、『地下生菌 識別図鑑』(誠文堂新光社、2016年)の著者の一人、森林総合研究所の木下晃彦さんに鑑定を依頼した。結果は、2種ある日本固有のトリュフの一つ、ホンセイヨウショウロとわかった。冨田さんらは後日、裏付けのために現地調査をした。すると、前よりは少し小さい個体を発見した。これも木下さんによってホンセイヨウショウロと同定された。

 木下さんによると、①ホンセイヨウショウロの特徴は1子嚢(しのう)内で通常2個の球形胞子を持つ点でほかのトリュフと区別される②胞子の色は初め白色で、成熟するにつれて黄色に変化する③ナッツ様の香りがする④これまで宮城・栃木・茨城・大阪など6府県で確認されており、福島県内では初めての記録――だそうだ。

 キノコの世界はまだまだ知られていないことが多い。市民が新種・珍種・貴種に出合う確率は花や鳥より大きい。“キノコ目”で山野を巡り続けていれば、だれかがまた別のトリュフを発見する可能性がある。そんな期待が膨らむ超ビッグニュースだった。

2018年7月10日火曜日

昔野菜会報「ルート」第3号

 いわき昔野菜保存会の会報は、名前が「Root(ルート)」。命あるものすべての根源にある「根っこ」という意味と、複数形になることで「結びつき」や「ふるさと」を表す「ルーツ」という意味もこめた(会報第3号=写真下=の編集後記から)。
 原発震災前の平成22(2010)年、いわき市が伝統農産物アーカイブ事業を始める。いわきリエゾン企業組合が調査・フェスティバル開催・報告書作成などを受託した。6年で事業が打ち切りになったあとは、同組合を中心に、短期雇用でかかわった調査員や、昔野菜の生産者、興味を持つ市民などで構成するいわき昔野菜保存会が事業を継続している。会報発行もそのひとつだ。

 会報は、保存会の若いメンバーが取材・編集・デザインを担当している。「読ませる」だけでなく、「見せる」ことを意識したグラフィックなつくりが新鮮だ。年1回の発行で、先ごろ出た3号は、巻頭に「いわき昔野菜が、本になりました。」という記事を載せた。新聞の見出しなら「、」も「。」もない。広告デザインの世界で仕事をしてきたメンバーが担当しているからこそのタイトルだろう。

 元地方新聞記者の寺尾朱織(かおり)さんが4月下旬、会津若松市の歴史春秋社から単行本『今、なぜ種が問題なのか 食卓の野菜が!?』を出した(1500円+税)=写真左。

 本を紹介する会報の記事前文に、「F1品種と呼ばれる現在主流の野菜(種)と在来作物の違いを切り口に、いわき昔野菜に関わってきた『人』に焦点を当てた1冊」「『いわき昔野菜フェスティバル』をはじめ、何度もいわきを訪問、調査スタッフ、料理人、生産者に取材することで、『昔野菜のこれまでの軌跡』をあますところなく伝えて』いる、とある。そのライター寺尾さんへの特別インタビューだ。

 本は4章構成で、1章では『タネが危ない』(日本経済新聞出版社、2011年)で知られる野口勲さんに、F1品種と在来作物の違いや問題点などを聞いた。以下、2章・種を守る運動、3章・いわきの種の守り方、4章・種を受け継ぐ人たちと、いわきの在来作物に焦点を当てた内容になっている。いわき昔野菜の本、といわれるゆえんだ。
 
 わが家に毎月、書店の外商さんがお勧めの本とともに、岩波書店のPR誌「図書」を持ってくる。5月は『今、なぜ種が問題なのか 食卓の野菜が!?』だった。すぐ買って読んだ。

 会報のインタビューでは、ひんぱんにいわきへ足を運んだ理由が語られる。アーカイブ事業に携わった人間が種の魅力に引き込まれる、その心の動きに引かれたという。出会った生産者が魅力的だったともいう。なるほど、「種」がつなぐ「人」の物語をめざしたのか。
 
 いわきの元地域紙記者としては、いわきに関してアカを入れたくなる個所がいくつかある。が、テーマとしては今の時代にふさわしいものだろう。会報自体も、「種」と「人」を結ぶ、今までいわきになかったメディアといっていい。

2018年7月9日月曜日

ヤマユリ、降りてくる匂い

 西日本の各地で記録的な豪雨被害が発生している。河川のはんらん、土砂崩れなどで死者・行方不明者の数が増えつつある。テレビをつけるたびに胸が痛む。東日本のいわき地方は、今回はたまたまお湿り程度ですんだ。でも、西日本同様、数十年に一度という大雨に見舞われたら――。
 いわき市は3年前の平成27(2015)年、防災マップ改訂版を出した。夏井川渓谷では新たに、人家のある4カ所の沢が「土石流危険渓流」「同危険区域」として書き込まれた。渓谷の隠居が土石流に巻き込まれる可能性があることを初めて知った。

 落石は、夏井川渓谷では常態だ。崖に沿う道路にロックシェッドがもうけられ、ワイヤネットが張られているところがある。東日本大震災ではあちこちで落石・土砂崩れが発生した。
 
 そういう渓谷へ週末、20年以上も通い続けているワケは――。行くたびに新しい発見・変化があるからだ、というほかない。
 
 1週間前にはなかった花が咲いている。目が喜ぶ。南から渡ってきた夏鳥のツツドリが鳴いている。耳が喜ぶ。隠居の庭でマメダンゴ(ツチグリ幼菌)が採れる。舌が喜ぶ。私にとっては1週間が比較の尺度だが、渓谷に住む人にとっては毎日が発見の連続だろう。「きょう、アカヤシオ(方言名イワツツジ)が咲いた」「きょう、マツタケが採れた」……。
 
 渓谷のヤマユリは例年よりやや早く開花したようだ。あの5日連続の猛暑が影響したのだろう。

 金曜日(7月6日)、隠居へ出かけてキュウリを収穫した。道沿いのヤマユリのつぼみが緑色から白色に変化していた。開花間近のサインだ。それから2日たったきのう午後、渓谷に入ると、崖の途中に白い大輪の花が咲いていた=写真。車が独特の芳香に包まれた。ヤマユリの匂いが降りてくる――目と鼻が喜んだ。

 同じ阿武隈高地でも標高の高い田村市では、ヤマユリは「夏休みを告げる花」だ。青空の入道雲と雑木林の道端に咲くヤマユリの花と香りが、梅雨が明けて真夏がきたことを告げる。今年(2018年)はしかし、夏休みの前に散ってしまわないか。西日本の犠牲者に手を合わせつつ、ヤマユリの芳香に染まった黄金の少年時代に思いが還る。

2018年7月8日日曜日

昭和3年のオオワシ

“古新聞”シリーズ2――。90年前の昭和3(1928)年12月8日付常磐毎日新聞に、オオワシの記事が載る=写真。見出しは「内郷で大鷲生(け)捕る/猟犬も立ちすくんだ大もの」。
 内郷村・白水の炭鉱作業員Sさんが12月6日午前11時ごろ、舞い降りてきたオオワシを後ろから羽交い絞めにして生け捕りにした。オオワシは羽を広げると約8尺(240センチ)もある。先月18日、猟師のKさんが湯ノ岳で射撃し、傷を負わせたが逃げられたもので、そのときはさすがの猟犬も立ちすくんでしまった――現代風に書き直すと、こんな感じの記事だ。
 
 日本で見られるワシはオジロワシ、オオワシ、イヌワシ。イヌワシは留鳥だが、オジロワシとオオワシは冬、ロシア極東のカムチャツカ半島やサハリン(樺太)島などから北海道へ渡って来る。
 
 記事に登場するワシは「大きいワシ」ではなく、文字通り「オオワシ」だろう。冬鳥として北海道へ渡ってきた個体が海岸沿いにえさの魚類を追って南下し、たまたま湯ノ岳に現れたところを撃たれて負傷した。そのときは逃げのびたものの、18日後、湯ノ岳東麓の白水でついに人間の手に落ちた。後ろから羽交い絞めにする――これはこれですごい離れ業だが、それを許すほどオオワシは衰弱していたのだろう。
 
 戸沢章(のぼる)著『いわきの鳥』(2005年)に、昭和58(1983)年~平成11(1999)年の間に戸沢さんと仲間が確認したワシの記録が載る。
 
 イヌワシは平成11年2月(内郷・白水町)の1回。オジロワシも昭和58年2月(新舞子・横川)の1回。オオワシはそれに比べると目撃回数が多い。同59年1月(鮫川河口)、同3月2回(同)、同60年3月(同)、平成5(1993)年12月(照島)、同11年11月(遠野・林道)の計6回だ。
 
 いわきでは今もワシが現れるとニュースになる。40年前の昭和53(1978)年1月11日付のいわき民報に記事が載っていた。

「〇…イワシの大漁でにぎわう小名浜漁港では、おこぼれを頂くカモメが乱舞しているが、最近、カモメと一緒に3羽のワシが飛来、ハマッ子を驚かせている。/〇…このワシ、どこから来たのか不明だが、両翼の長さは1メートル以上で、カモメより二回りも大きく、こげ茶色の翼をいっぱいに広げるとさすが“鳥の王様”威圧感がある。」

 これに続くオチは「〇…カモメは時々海に浮かんでは疲れた体を休めているが、ワシはもっぱら魚市場の屋根が休憩所。『カモメが“水兵”なら、ワシは空の将軍』といわんばかり。」

 見出しが親父ギャグっぽい。「カモメは水兵/わしはワシ」。なんで「わしはワシ」? 「カモメは水兵」なら「ワシは将軍」だろう。それに、ただのワシではなく、くちばしが黄色いからオオワシだった、というところまで踏み込んでほしかった、なんて、かつての同僚・上司にケチをつけてもしかたない。
 
 このとき、私は記者7年目の30歳。子どもを引き連れてバードウオッチングを始めたばかりだった。「鳥が鳴いている」「花が咲いている」では記事(コラム)にならない。何という鳥が鳴いているのか、何という花が咲いているのか――以来、山野を巡る旅は40年たった今も続いている。

2018年7月7日土曜日

初物の自産キュウリ

 きのう(7月6日)は早朝、夏井川渓谷の隠居(無量庵)へ行ってキュウリを3本収穫した。5日前の日曜日に花をつけていた小果がいい具合の大きさになっているはず、8日の日曜日まで待つとヘチマのように肥大していないか――気がもめて、小雨の中、車を走らせた。
 キュウリは一年中出回っている。冬でも春でもつい買ってしまう。でも、自産のキュウリは今年(2018年)初めてだ。家に戻ると、カミサンが「初物だから」と床の間に飾った=写真。

 朝食をとって、いつものように「あさイチ」を見ていたら……。いつの間にか元オウム真理教教祖らの死刑執行を伝える特番に替わった。

 阪神淡路大震災・地下鉄サリン事件、そして夏井川渓谷通い。私のなかではこの三つがセットになっている。8年前の2010年1月24日付拙ブログ「15年の歳月」の一部を再掲する。
                 ☆
 部屋の書棚に眠っている古い資料を整理していたら、あるところに書いた15年前の自分の文章が出てきた。「阪神大震災に限らず、災害を体験した人間は、その前と後とでは世界観(見方や考え方)が変わってしまう。同じ人間ではいられなくなってしまう。〈死〉と〈破壊〉の体験が癒しがたい傷を残す。……」

 昭和31(1956)年に大火事を体験した者として、あとあとまで続く被災者の経済的・心理的困難を思い、「今、将来、そのつど変化してゆく当事者の心に寄り添えるような想像力を磨いていきたい」と結んでいる。タイトルも「想像力を磨こう」とあった。

 その文章が出てきたころ、ハイチ大地震が発生した。何日か後には震災ドラマ「神戸新聞の7日間」が放送された。神戸新聞社・著、プレジデント社発行の『神戸新聞の100日――阪神大震災、地域ジャーナリズムの戦い』(1995年11月30日第一刷発行)が原作だろう。本が出版されたとき、すぐ買い求めて読んだ。

 なかでも、震災で父を失った論説委員長の三木康弘さんの“超社説”「被災者になって分かったこと」には、心が打たれた。その話も当然、ドラマには出てくる。
 
 そうか、15年か。ということは、週末を夏井川渓谷(いわき市小川町)の無量庵で過ごすようになってからも、15年が経過するのだ。その年、1995年は1月17日に阪神・淡路大震災が発生し、3月20日に地下鉄サリン事件が起きた。その年の5月末に、私の無量庵通いが始まったのだった。

 義父と一緒に隣組を回ってあいさつした。週末だけの半住民だが、すぐ駐在さんの知るところとなり、自宅に身元を確かめる電話がかかってきた。警察がオウム真理教の信者の動静に神経をとがらせていたころだ。なんとも素早いことよと、苦笑したことを覚えている。
                 ☆
 事件から23年。オウム関連13人の死刑囚のうち、7人が相次いで死刑に処せられた。しばし呆然となった。が、テレビを見続けるわけにもいかない。午後には隣接する草野・神谷・平窪地区の道路改良期成同盟会の役員会がある。
 
 夕方、帰宅して、少し早く晩酌を始めた。床の間に飾ったキュウリの1本を切ってもらい、生のまま味噌をつけて食べた。最初、ふわーっと青臭さが鼻に入ってきた。切り口は湿って光を反射している。なんともみずみずしい。歯触りもいい。なのに、胸の内ではどんどん苦さが増していった。

2018年7月6日金曜日

ジャズにも劣らぬ鉦の囃子

“古新聞”シリーズ1――。昭和4(1929)年8月16日付常磐毎日新聞のじゃんがら念仏踊りの記事がユニークだ=写真。見出しに「ジャズの曲想にも/劣らぬ鐘の囃し/(略)/揃へ(ひ)浴衣の足拍子」とある。(下の本文もそうだが、「祐天上人創設」がらみの部分は略した。引用の「ジャンガラ」「ヂャンガラ」はそのままにした)
 今は、青年会・保存会が月遅れ盆の8月13~15日に新盆家庭を巡ってじゃんがらを披露する。戦前は、これが旧暦で行われた。昭和4年は9月15~18日が旧盆の8月13~16日だった。その1カ月前の記事だ。
 
「盆が来た。若人が初秋の夜を踊り明かす盆がきたのだ。ゆるやかな太鼓の音が、闇を辷(すべ)ってきこゆる、磐城名物ジャンガラ念仏の練習太鼓だ」。じゃんがらの練習が始まったことを、記者は思い入れたっぷりに書き出す。続いてすぐ記事の核心に入る。

「特別な地方色を帯(び)た磐城ヂャンガラ念仏はあの変転極まりない太鼓の調子、ジャズの曲想にも劣らないあの鐘そして其の中に一抹のゆるやかさを漂はせる『ナンマイダー』の囃し、(中略)このヂャンガラは歴史的に見ても研究的価値がある」

 ジャズが日本へ入ってきたのはいつか。大正末期にはジャズブームがおきたと、ネットにはある。昭和4年10月、アメリカで株価が暴落し、世界恐慌が起こる。その直前、「昭和モダン」を象徴する舶来のジャズを引用して、じゃんがらを語る記者がいた。

 それから80年余りたった平成21(2009)年、いわきの有志が5つの青年会・保存会の「じゃんがら」を録音してCDを出した。ミュージシャンや研究者が「じゃんがら賛歌」の文章を寄せた。音楽好きの若者は「じゃんがら」にジャズやロックの親近性・親和性を感じ取った。

 そのとき、「じゃんがらはオフビート」だという話を聞いた。ジャズは2拍目と4拍目にアクセントがおかれる。つまり「弱・強・弱・中強」。これをオフビート(アフタービート)というのだそうだ。そういえば、CD化に先立つイベントとして、じゃんがらとジャズを融合させた「じゃんがらジャズフエスティバル」がいわき明星大を会場に開かれたっけ。
 
 昭和4年の記事は、じゃんがらとジャズとの近縁性・親和性に初めて言及した最初の文章だった、ということになるか。
 
 その同じ紙面に「ジャンガラの/稽古で喧嘩/太鼓の打(ち)方から」というべた記事も載っている。稽古を見ていた45歳男性が、太鼓の打ち方が間違っていると言ったところ、29歳男性が口惜(くや)しがって殴りつけて3週間のけがを負わせた。先輩(おそらく)といえども、言葉に愛情がなかったので、カチンときたのだろう。

 見る方も演じる方も興奮するのは、今も変わらない。今年(2018年)も月遅れ盆に披露されるじゃんがら念仏踊りの練習が始まり、鉦(かね)と太鼓の音が川向こうから聞こえてくる季節になった。

2018年7月5日木曜日

「カラス学」の教え

 生ごみのカラス対策として“有効”と聞いてからは、わが区内のごみ集積所ではあらかた黄色いごみネットに代わった。しかし、黄色いごみ袋も含めて、それは“誤解”だったようだ。色に関係なくカラスは生ごみの入ったごみ袋に群がる=写真。
 カラス研究の第一人者、杉田昭栄・宇都宮大学名誉教授が『カラス学のすすめ』(緑書房、2018年)という本を出した。図書館の新刊コーナーにあったので、さっそく借りて読んだ。「今でもカラスは黄色が嫌いだと思っている方もいるようですが、(略)カラスに嫌な色はありません。あくまでも紫外線遮断効果がないと効果はないことを、この場でお伝えしておきます」

 色ではなく、紫外線カットができるかどうか、なのだという。「カラスは赤、青、緑、紫外線の四原色色覚をもっている」。これらの一つでもカットできれば、利口なカラスといえども色は識別できない。

 紫外線を透過させないごみ袋、つまり人間には中身が見えてもカラスには見えないごみ袋を企業と共同で開発した。ごみ袋の素材であるビニールにある原料を充填した結果、ごみ袋が黄色になった。実用化されて効果をあげたために、「黄色であれば何でもカラスが寄ってこないと勘違いされた」りしたともいう。この黄色いごみ袋はしかし、単価が高い。思うほどには普及していない。

 ではどうしたらいいのか。結局は、ごみを出す人間の側に問題があって、カラスを引き寄せているのだ、ということになる。カラスはそれだけではない。1羽がネットをくちばしで持ち上げる、別の1羽がごみ袋を引っ張り出してつつく――といった連係プレーまでやる。カラスの脳は体積比でニワトリの10倍もあるそうだから、あなどれない。

 わが区では独自に回覧チラシをつくり、これまでに二度、隣組に配った。「生ごみは新聞にくるんだり、レジ袋に入れたりして外から見えないようにしましょう」「ごみネットと地面の間にすき間があると、カラスが袋を引っ張り出します。重しを置くなどしてネットを開けられないようにしましょう」

 それでも、ごみ出しのマナーがなっていない人がいる。カラスにつけ込まれる。で、注意喚起の紙を電柱にくくりつける――ということが、ときどきおこる。「敵」はカラスか、人間か。「カラス学」の教えに従って、人間向けに戦術を練り直さないといけない。

2018年7月4日水曜日

伝承郷の池のトンボ

 外出から帰って庭に車を止めると、土ぼこりが舞った。きのう(7月3日)も、おとといも。こんなことは記憶にない。地面がかなり乾いているのだ。
 太平洋高気圧がいすわって、いわきの空は6月29日から「全部、青い」日が5日も続いた。けさは梅雨前線が南下してきた。曇天、夕方には雨の予報だ。やっとお湿りがくる。

 この5日間、早朝のうちに土いじりや家事の手伝いをしたあとは、茶の間で扇風機をかけて座業をしている。合間に横になって本を読みながら眠りに落ちる。それでも汗がにじむ。「朝寝・朝酒・朝湯」のうち、朝酒はやらないが、あとの二つはこんな酷暑のときには、まちがいなく年寄りの特権になる。

 日曜日(7月1日)早朝、夏井川渓谷の隠居で土いじりをし、山越えをして三和町の直売所「ふれあい市場」で買い出しをしたあと――。

 カミサンがいわき市暮らしの伝承郷に用があるというので、アッシー君を務めた。ついでに、65歳以上無料の特典を生かして民家ゾーンを歩いた。木陰、林間の道と直射日光を避けながら巡り、最後はスイレンの咲く池のそばの樹下で一休みした。

 池の浮草の上を全長3センチほどのイトトンボが飛び回っていた。あとでパソコンに写真を取り込み、ネットで調べたら、クロイトトンボの雄だった=写真上。
 
 この池は一種のビオトープだ。スイレンのほかにハンゲショウが咲いていた=写真下。もう少したったらミソハギも咲くだろう。トンボも何種類かいるが、門外漢にはよくわからない。
 
 家に帰って思い出したことがある。いわき昔野菜保存会と伝承郷が民家ゾーンの畑を利用して、協働で昔野菜を栽培している。「レンコン復活プロジェクト」も展開中だ。
 
 いわき市渡辺町でほそぼそと栽培されてきたレンコンがある。なんとか保存会の手で絶滅を食い止めたい――。伝承郷の池で復活作戦が進められている。それを忘れていた。葉が水面に浮いて、花が咲いていてもおかしくない時期だが、すっかりトンボに心を奪われてしまった。

2018年7月3日火曜日

突然のアスファルト舗装

 いわき市平の北東部、神谷(かべや)と草野が接するところに、国道6号常磐バイパス(現国道6号)の終点がある。夏井川橋が架かる。そのたもと、左岸堤防と国道の間に“砂利道”がある。そこが1カ月余り前、突然、アスファルトで舗装された=写真。
 堤防から住宅地につながる道路は狭い道でも舗装されている。ところが、バイパスをはさんだ2カ所(上流側は神谷、下流側は草野)だけが“砂利道”のままだった。

“砂利道”ができた過程を想像すると――。堤防のそばの農地が道路になり、工場や事務所、アパートが立った。さらには、バイパスの橋が架かって、その両側だけ空きスペースができた。そこを通って堤防に出る、あるいは堤防から下りる車が増えた。道は前からあったかもしれないが、車が往来する“砂利道”がそうしてできたのではないか。

“原発震災”後は、さらに周辺の田畑が宅地化された。堤防そばの畑もだいぶ宅地に変わった。新住民が増えた。その人たちも堤防と“砂利道”を利用する。雨上がりには水たまりがいくつもできる。ピカピカの車はたまったものじゃない。

 神谷は、もともとは1000世帯を超えるような大きな区だった。それが、十数年前に三つに分かれた。「本家」があって、「分家」が二つできた、と考えた方がわかりやい。一帯の土地の所有者は「本家」に住んでいる。

“砂利道”のあるところは「分家」の一つ、わが区のエリアに入る。が、住民の暮らしには影響のない端っこだ。舗装化の要望をしたことはない。ときどきバラス(砂利)が敷かれて、凸凹がならされる。もともとの地主が住む「本家」で対応してくれているのだと、利用者の一人である私はおおいに感謝している。

 今度の舗装も「本家」のはたらきかけがあったからか。あるいは……。もとの国道6号は4月1日、神谷分から東京寄りが国道399号に替わった。県が管理する。夏井川は2級河川で、もともと県が管理している。この一元化・一体化が影響して、アスファルト舗装が実現したのか。

 道路の長さとしては30メートル余り、スペースとしては保育園の園庭くらい。突然なったアスファルト舗装に、新住民はホッとしていることだろう。私もそうだ。地域の懸案がひとつ消えたのだから。

2018年7月2日月曜日

朝めし前の土いじり

 朝6時半には家を出た。街から車で30分の夏井川渓谷に隠居がある。庭で1時間ほど土いじりをした。朝日が顔を出した瞬間から空気が熱を帯びる。熱中症にならないためには、精を出さないことだ。プロではないのだから、それで十分。
 土いじりの合間に、菜園とは反対側の庭木の下でマメダンゴ(ツチグリ幼菌)を探した。1個が少し露出していた。もう1個を靴底で感じた。それを手がかりに指で掘ったら、コロコロ出てきた=写真。16個あった。いい気分転換になった。

 6月29、30日に続いて、きのう(7月1日)も快晴になった。「天日燦(さん)として焼くがごとし、いでて働かざる可(べ)からず」(ヨシノヨシヤ=三野混沌)といいたいところだが、これは今や、私にとっては“反面教材”だ。

 土いじりを始めたばかりのころは、この詩句に、土に生きる精神の貴さを感じた。が、炎天下、土いじりを頑張りすぎて気分が悪くなって以来、「天日燦として焼くがごとくなる前に、いでて働かざる可からず」か、「天日燦として焼くがごとし、家で寝ていよ」のどっちかに切り替えた。

 で、きのうは、朝8時半には家に戻って朝めしを――のはずだった。が、カミサンが急に、山越えをして三和の直売所「ふれあい市場」で買い物をしよう、という。

 2週間前の日曜日、自宅~ふれあい市場~差塩(さいそ)・「一本山毛欅石(いっぽんぶないし)」~川前のルートで夏井川渓谷の隠居へ行った。今度は逆のコースだ。「一本山毛欅石」へは寄らなかった。

「ふれあい市場」で野菜と漬物、朝食用の弁当を買った。車を駐車場の山際に移動し、日陰のなかで弁当をつついた。そのあと、直帰した。10時ごろには別の用事が待っている。午後にも用がある。「買い出し」のバッグを置いて、また出かけた。暑くて、車まで焼けそうだった。

 この3日間(だけではないのだが)、テレビが伝えるいわき小名浜の最高気温に、同じいわきでも内陸部はもっと暑いと、ぶつぶついいたくなりそうだった。

 小名浜は沿岸部にある。日中は海風が吹くのでしのぎやすい。この3日間の最高気温は27.4度、25.6度、25.4度だ。ところが、人口が集中している内陸部の平は、データがない。代わって、同じ内陸部の山田を参考にすると、33.9度、32.2度、きのうも32.5度と真夏日になった。いわきの気温は、小名浜と山田の併記が必要ではないか。けさも空が青い。

2018年7月1日日曜日

映画「西部戦線異状なし」

 きょうは7月1日。2018年の前半が終わり、折り返しの後半初日を迎えた。わが家は2日続けての“猛暑日”。寝苦しくて未明の4時前には目が覚めた。新聞を取りに外へ出ると、きれいな朝焼けだ。2階から東の空を眺めた=写真下1。こんな景色を見ると、なにかを祈るような気持ちになる。
 さてさて――。古新聞をネタに書くことが増えた、書きたい材料が次々に現れる、“古新聞シリーズ”とでも開き直るか、と書いたのは4日前。内容としては、5月13日付の拙ブログ「『いわきの映画館』展」の続編だ。
 
 昭和初期、平町(現いわき市平)の映画館で「西部戦線異状なし」が上映された。その年月日を特定するために、この2カ月余り、わが家で図書館のホームページを開き、電子化された古新聞と向き合ってきた。その過程で面白いネタに遭遇した。ブログの材料には事欠かない。“古新聞シリーズ”になるほど多い、というのが根拠だが、“探索”もきのうで一区切りがついた。“証拠物件”にたどり着いたのだ。
 
 吉野せいの短編集『洟をたらした神』に「赭(あか)い畑」がある。なかに、「(中央公論を読んでいるだけで引っぱられた)女教師は私たちの友人でもあり、ある夜などは子供を全部混沌に押しつけて私を誘い、夜道を往復二里、町まで歩いて『西部戦線異状なし』を見て来たり、教育について平易に書かれたソビエトの本をそっと貸してくれたりする仲で、今は東京でしずかに働いているらしい」というくだりがある。
 
「混沌」は詩人三野混沌、せいの夫の開拓農民吉野義也のことだ。「赭い畑」の末尾には「昭和10年秋のこと」とある。「ある夜」がいつなのかわかれば、せいのそのころの心理・思想、さらには無実の混沌を連行していった特高、ひいては公権力をせいがどんな思いで見ていたか、がより明瞭になる。というわけで、日々の雑務をこなしながら電子化された古新聞をスクロールしてきたのだった。

 1929(昭和4)年、第一次世界大戦の敗戦国ドイツの作家、エーリヒ・マリア・レマルク(1898~1970年)が反戦小説「西部戦線異状なし」を発表し、世界的なベストセラーとなった。翌年、アメリカで映画化され、第3回米国アカデミー賞最優秀作品賞、最優秀監督賞を受賞する。日本では同年秋に公開された。
 
「赭い畑」に描かれた「昭和10年秋」のできごとに引っぱられて、「いわき地方には5年後に映画が巡って来た?」と考えていたが、甘かった。同10年、9年、8年、7年と、常磐毎日新聞に絞ってすべてのページを見る。どこにもそれらしいものはない。だが、いつかはたどり着くと楽観して見続けたら、きのう夕方、昭和6(1931)年9月10日付の「平館」の広告に出合った=写真下2。
 当時のいわき地方の新聞は、欄外にある発行年月日の前日夕方、家庭に届いた。要は夕刊だ。10日付は9日に配達された。広告には、上映は10日から4日間限り、料金は20銭とある。「エリック・マルア・ルマルケ 世界的名作の映画化」とあって、人名表記が今と違うところがいかにも戦前の広告らしい。

 昭和6年の9月は次女梨花を亡くしてから8カ月余りたった時期だ。せいはまだ32歳で、新聞や雑誌の懸賞小説にも応募している。自分の創作のために、よりよい刺激を求めて友人の女教師と平・南町の平館へ出かけたのだ。帰りはまた同じ道を、映画の感想を語り合いながら、菊竹山へ戻ったのだ。10~13日のなかで土曜日は12日だ。おそらくこの日の晩、2人は映画を見に出かけたのだろう。

 作品集の題名にもなった「洟をたらした神」のノボルはヨーヨーを買いたくて、母親のせいに2銭を無心する。せいはやんわりあきらめさせる。それが昭和5年夏のこと。ところが1年後には20銭を出して「西部戦線異状なし」を見る。幼い子の、その中の一人を失った母親である以上に、自分の文学的興味・関心から突き動かされて街へ出かけたせいの内面が見えるようだ。

2018年6月30日土曜日

「尻から俳句」とか

 おととい(6月28日)の「あさイチ」で、俳人の夏井いつきさんが、出演者に俳句づくりを指導した。ポイントは「尻から俳句」だという。
 俳句は上五・中七・下五の五七五音からなる。素人は下五から入るといいそうだ。一番下に季語ではない五音を持ってくる。真ん中の七音は、下五を描写したものにする。一番上に全体の気分に合った季語を据える。

 キャスターの一人、博多華丸さんが“モデルケース”になった。下五、「ボールペン」。中七、「半分黒い」。上五、「青嵐」。「青嵐 半分黒い ボールペン」。なるほど。

 テレビを見ながら、同時進行でつくってみた。身の回りを眺めて五音の名詞をさがすと、新聞があった。下五、「新聞紙」。新聞をパラパラやったら、「廃炉」の言葉が目に留まった。中七、「廃炉伝える」。上五は「梅雨曇り」。

 事故を起こした1Fだけでなく、2Fについても、東電はやっと廃炉の意志を示した。廃炉には何十年という時間がかかる。「廃炉」と口にするだけで重苦しくなる。それを「梅雨曇り」に重ねた。「梅雨曇り 廃炉伝える 新聞紙」。確かに尻から積み重ねていけば、かたちにはしやすい。

 きのうは「梅雨曇り」どころか、晴れて猛烈な暑さになった。戸を全開し、扇風機をかけても、茶の間の空気はよどんだまま。朝から室温が上昇し、午後1時すぎには32.5度になった。庭のプラムが熟しかけてきたので、先日、籠にいっぱい採った。残りをと思って、朝食後、庭へ出たが、熱風にやる気が失せた。(けさ6時過ぎ、カミサンに尻を叩かれ、幹にはしごをかけて残りを採った。朝日に照らされ、汗がにじんだ)

 日中は外へ出る気になれない。室内にいても熱中症が心配だ。こまめに水分を補給しながら、座業を続けた。

 カミサンに「リクエストしていた本が入った」と、図書館から連絡がきた。夕方出かけて、エアコンの効いた世界でほてりを冷ました。これを「尻から俳句」でどう表現するか。<6月29日室温32・5度>の前書を添えたら、よりつくりやすくなったが、人に見せるレベルではない。

 まだ6月なのに、関東甲信地方が梅雨明けした。東北南部のいわきは、気候的には「東海・関東型」だから、梅雨が明けたも同じだが、来週後半には天気が崩れる。そんな日々の自然と人事に対応し、記録するには、「尻から俳句」が適しているかもしれない。ひまつぶしにもなるので、ちょっと続けてみようかな。

2018年6月29日金曜日

ヒヨドリの巣

 ヒヨドリにはすまないことをした、と思う。
 いわき市の春の「清掃デー」(6月3日)に、カミサンが家の周りの生け垣を剪定したら、造りかけで「逆とっくり」型のコガタスズメバチの巣があった。危ないので、夕方には除去した。
 
 そのとき、ハチの巣から3メートルほど離れた同じ生け垣に、ヒヨドリも営巣していた。卵が四つあった。ヒヨドリは結局、巣を放棄した。卵もいつの間にか消えた。カラスが失敬したか。あとで、カミサンが剪定を再開し、巣を枝ごと切って=写真、テレビのわきに飾った。

 私が目撃した例では、ヒヨドリはわりと人家のそばで営巣する。夏井川渓谷にある隠居の庭のクワの木に巣があった。同じ庭木のカエデで抱卵中のヒヨドリを見たこともある。

 わが家の近く、義伯父の家の玄関前のナンテンにも巣をかけた。カミサンが剪定してわかった。計測したら、長径13センチ、短径9センチ、深さは4センチほどだった。外側基部にはビニールテープやレジ袋のきれはし、枯れ草を使い、産座にはシュロが敷き詰められていた。
 
 今度切り取った巣も、外側にはビニールがびっしり敷かれている。長径・短径もナンテンの巣とほぼ同じだった。
 
 生け垣と家の距離は1メートルもない。コガタスズメバチの巣は風呂場の前に、ヒヨドリの巣は店から続く「かべや文庫」の窓越しにできた。春~梅雨期は、めったなことでは窓を開けない。人間が軒下に近づくこともほとんどない。ヒヨドリはヒヨドリなりに観察して営巣場所を選んだのだろう。

家の周りをきれいにする「清掃デー」が設定されなかったら雛はかえっただろうが、人間の暮らしの場に近すぎた。思えば、朝、そちらの方でよくヒヨドリが鳴いているときがあった。巣材運びに忙しかったか。

 義伯父の家のクスノキにカラスが営巣したことがある。業者に木全体の剪定を頼んだとき、古巣を壊さないように切ってもらった。巣は直径40センチほどあった。ハンガーが6~7個、組み込まれていたのには驚いた。すっかり都会生活になじんでいる。

 わが家の庭木も「緑の鬱蒼」になりつつある。カラスその他が巣をかけてもおかしくない。そろそろ業者に剪定を頼まないといけないか。

2018年6月28日木曜日

「みそかんぷら」ほか

 春に種をまいたり、苗を植えたりした野菜が収穫期に入った。
 わが家、といっても夏井川渓谷にある隠居の菜園のことだが、少し前にジャガイモを収穫した。4月に入るとすぐ、家の台所に置き忘れて芽が出たのを植えた。2カ月半がたって地上部の葉が枯れたので、掘り起こしたら子芋がいっぱい取れた。“みそかんぷら”にした=写真。カミサン流なので、油が多く、少しギトギトしていたが、子どものころの「おふくろの味」を思い出した。

 わが菜園では、常時栽培している三春ネギのほかには、春に植えたのがこのジャガイモとキュウリ苗2本だ。キュウリ苗は地元・平の種屋から買った。芽かきを終えた。あとは花が咲き、実が生(な)って収穫するのを待つばかり。
 
 秋の播種のためにネギ坊主から三春ネギの種を採ったが、これは直接口に入れるものではない。代わりに、お福分けが途切れることなく続いている。

 大葉(青ジソ)が届いた。カミサンが、別のところからもらったニンニクも使って、「あぶらみそ」にした。暑い時期にご飯にのせると食が進む。

 もらった青梅を甕に漬けた話は前に書いた。あした(6月29日)あたり、白梅酢があがっているかもしれない。赤ジソをもんで発色をよくするための大事な調味料でもある。赤ジソは菜園にある自然発生の“ふっつぇシソ“を利用しようか、買おうか迷っている。“ふっつぇシソ”はどうしても発色が悪い。

 キュウリにはブルームとブルームレスがある。ブルームとは、実から自然に出てくる白い粉のようなロウのことだ。ブルームキュウリは皮が薄くてやわらかい。糠床に入れるとすぐ漬かる。

 カミサンがコープに注文したキュウリが届いた。ブルームだった。スーパーから買ってきたブルームレスのキュウリもあったので、両方を同時に糠漬けにして食べた。ブルームレスの硬さがはっきりわかる。ブルームがあればそれを育てる。それを買う。

 ファストフードが主流の時代だが、現役を退いた世代にはスローフードを取り戻してほしい。といっても、相手は野菜だ。時期を逃すと来年まで手に入らない、秋まで栽培ができない、なんてことになる。スローライフを実践しようと思えば、けっこう忙しい。
 
 ただし、「そのとき」にちゃんと手当てをしてやれば、あとは自然がじっくり味を育ててくれる。漬物、中でも梅干しの土用干しはその典型だろう。私は好みで干さずに梅漬けにするが。

2018年6月27日水曜日

47年前のテレビ番組「老人の山」

「<昨日>の新聞はすこしも面白くないが/三十年前の新聞なら読物になる」(田村隆一)。この詩句を痛感する日々だ。古新聞をネタに書くことが増えた。書きたい材料が次々に現れる。“古新聞シリーズ”とでも開き直るか――。 
 いわきの作家、故吉野せいの短編に「凍(し)ばれる」がある。せいの夫・吉野義也(三野混沌)の詩友、猪狩満直が北海道へ移住したあと、ハガキをよこす。その便りの中に「凍ばれる」という言葉があった。
 
 初出は、昭和46(1971)年3月13日付のいわき民報だ。夫・混沌が亡くなって7カ月後の同45年11月16日、不定期で「菊竹山記」と題したせいの連載が始まる。その5回目に載った。――ある朝起きると、「しばれる」寒さだった。それで、一昨夜見て「しばれた」テレビ番組<現代の映像「老人の山」>を思い出し、老人が住むあばら家と老人たちを事細かに紹介しながら感想をつづる。
 
 単行本化された作品集『洟をたらした神』所収の「凍ばれる」は、しかし新聞掲載時の骨格は残しながらも、かなり文章が練り直される。「けさ」と「一昨夜」は同じ日の朝と夜になった。新聞と違って、雑誌、あるいは本にするとき、せいは「身辺雑記」を越えた「作品」、つまり小説表現を意識したということだろう。
 
 いわき市立図書館のホームページを開き、電子化されたいわき民報を閲覧して、「老人の山」の放送年月日を確かめる。昭和46年3月5日だった。テレビ・ラジオ欄に番組案内記事が載っていた=写真。新聞の文章と、「老人の山」の放送年月日を重ねると、「凍ばれる」の最初の原稿が書かれたのは、同年3月7日ということになる。

「日本の山村には、その昔、老いた親を、息子が背負い、山にはいったと言う『姥捨(うばすて)』の伝説が残されている。そして、現代――働き手が都会に出稼ぎに行くにしたがって、一人残された老人たちは、誰にも見とられることなく、病死していく。『姥捨』の伝説は、いま中国山地に見ることができる。(以下略)」(番組案内記事の冒頭部分)

 山中の孤独な生、孤独な死――番組を見て、せいは心が「しばれる」。その生々しい感覚が、新聞の文章から立ちのぼってくる。が、単行本ではそれがやわらげられ、「生誕の時の光りに反してこの終りの暗さは、これが一生というものなのか」という詠嘆にまで昇華される。

 こうして、作品集『洟をたらした神』の細部にまで分け入っていくと、作品の構造、せいの心理、時代状況といったものが、少しずつだが見えてくる。
 
 高度経済成長末期の47年前、日本の山村ではすでに「限界集落」化が始まっていた。この「姥捨」状況は、半世紀近くたった今、どうなっているだろう。少子・高齢化が進行した結果、孤独な老人は「山」にも「町」にもあふれている。さらに深刻さが増しているのではないか。
 
 というわけで、古新聞も使いようだな、「昔」を訪ねて「今」を、「未来」を考える材料にはなるのだから――と、元ブンヤは胃に重いものを感じながらつぶやく。

2018年6月26日火曜日

グミとオカトラノオ

 きのう(6月25日)の続き――。夏井川渓谷の森の中に住む友人は、仕事のほかに趣味の芸能活動と土いじりにも忙しい。 
 家の前の斜面に黒々とした土の畑が広がる。今あるのは大根・ニンジン・アスパラガス・キャベツなど。秋にはまた、白菜その他の冬野菜がそろう。小流れにはワサビ。林と隣接する畑の一角にはクリ、梅などの果樹。ほかにグミ、ブルーベリー、キウイなども。

 車で林間の狭い坂道を駆け上がって家の前まで行く。近くでグミが真っ赤に熟していた=写真上。つい歩み寄って、もぎって食べた。グミはグミだった。今風に言えば、「シブアマ」(渋くて甘い)。でも、その渋さが少年時代の記憶をよみがえらせる・
 
 グミを食べた最初の記憶は小学校の低学年。近所の家にスモモ(プラム)があった。それを食べたのも同じころ。スモモもグミも家にはなかった。ガキ大将がチビどもを引き連れて、もぎりに行った。怒られなかったから“公認”だったのだろう。
 
 友人の家のすぐ下はロックガーデン。今は緑に覆われ、オカトラノオが咲いている=写真下。梅雨の渓谷を彩る、清楚な白い花だ。「摘んでもいいよ」というので、カミサンが2本手折った。
 友人の案内で畑を歩く。自分の畑だけでなく、近くの休耕畑も借りてジャガイモや落花生を栽培している。この熱心さはどこからくるのだろう。
 
 耳に飛び込んでくるのはウグイスの「ホーホケベキョ」。ウグイスも土地によってさえずり方が異なる。渓谷のウグイスは「ホーホケキョ」と「ホーホケベキョ」の2パターンがある。

 さてさて、青梅をいっぱいもらったので梅漬けをつくることにした、ということを、きのう書いた。夕方、雑誌「きょうの料理」を参考にしながら、約2キロの梅を水で洗い、布巾で水分をふき取り、甲類35度の焼酎を街から買ってきて、塩をまぶして甕に漬け込んだ。
 
 そばかすや茶色い傷がある青梅は除外した。それが3分の2.こちらは梅酒にでもするか――と考えていたら、近所の知り合いが欲しいというので、半分をあげた。前は庭のプラムが佐藤錦に化けた。巡りめぐって、今度は何になるか。期待しないで待っていると、きっといいことがある。

2018年6月25日月曜日

青梅をもらう

 いわき市小川町の夏井川渓谷には、10戸前後の小集落が三つ点在する。最上流の牛小川集落にわが隠居がある。その隣、椚平(くぬぎだいら)集落の森の中に住む友人から、平のわが家に電話がかかってきた。
「梅をあげる。あした(6月24日)朝9時半までに来なよ」。用があって、9時半には出かけるという。日曜日にはマチから離れて隠居で土いじりをする。10時に行くのも8時に行くのも同じだ。9時前、友人の家に着いた。梅漬けにするには十分の量の青梅をもらった=写真。ニンニクもお福分けにあずかった。

 梅干しは完熟して黄色くなった梅を漬けて干す。梅漬けは、カリカリが持ち味。青梅を漬ける。干さない。梅干し同様、あとで赤ジソを加えて鮮やかな赤紫色にする。少年時代は梅干しと梅漬けの区別がつかなかった。が、結婚してからは家の数だけ食文化があることを知った。

 口にふくめばとろける梅干しより、カリッとした梅漬け(実が大きめだから、会津の高田梅だったか)が好きなのは、小さいころからなじんだ「おふくろの味」だからだろう。
 
 で、梅漬けをつくるために、隠居の庭に高田梅の苗木2本を植えた。今は1本に減った。初めて実を収穫したとき、実がそばかすだらけだった。そばかすは一種の傷。そこから硬化したり腐敗したりする。結局、梅漬けをあきらめて梅ジャムにした。

 もらった梅は高田梅より小さいが、小梅よりは大きい。普通の青梅だ。畑を覆うように枝を広げていた。今年(2018年)は生(な)り年で、整枝を兼ねて青梅を収穫したという。

 スーパーから黄色い梅を買って来て、梅干しをつくったことがある。そのときの参考書、NHK「きょうの料理」2006年6月号を引っ張り出した。それを見たカミサンがけげんそうな顔でいう。「どこにあったの?」。料理の本は台所にある。それとは別に、漬物特集の「きょうの料理」を自分の本棚に差し込んでおいた。たぶんポケットマネーで買ったのだ。

今までの失敗を参考に、梅漬けに挑戦してみる。まずは手順を思い出さねば――。

2018年6月24日日曜日

アレッポの石けんが効いた

 洗髪・洗顔・ボディ、すべてにシリアの「アレッポの石けん」=写真=を使っている。
 理由は簡単だ。シャンプーで頭を洗うとすぐかゆくなる。フケがこぼれる。アレッポの石けんに切り替えたら、フケもかゆみも止まった。それだけではない。2年前からは足の裏も洗うようにしている。その効果が出て、水虫による症状が消えつつある。

 オリーブオイルとローレル(月桂樹)オイルのほかは、水と苛性ソーダを加えただけで3昼夜釜たきし、1年以上かけて熟成させた石けんだ。添加剤や合成香料は一切入っていない。これが肌に合った。汚れを落としながら脂肪酸を補うので、皮膚に潤いが残る。

 この石けんの使用歴はもう二十数年になるだろうか。顔も体も洗いながら、足の裏だけはほったらかしにしておいた。ところが、足の裏も洗うときれいになることを、NHKの「あさイチ」で知った。
 
 左の足裏は問題ないが、右の足裏はどういうわけか、若いころからかかとが角質化してひび割れができたり、皮膚がボロボロはがれたりしていた。小指と薬指の間がジュクジュクして裂け、痛がゆかった。
 
 足の裏とふち、指の間を石けんで洗い続けること2年、じんわりと殺菌・潤い効果が出てきた。足を洗うのが楽しくなった。指の間のジュクジュクもほぼ消えつつある。ツルツルになった、といえるまでもうちょっとだ。
 
 シリアでは内戦、日本では東日本大震災がほぼ同時に起きた。酒井啓子著『移ろう中東、変わる日本 2012-2015』(みすず書房)によると、シリアから「国外に逃れられた人々はまだいい方で、国内で居場所を奪われた国内難民は、760万人にも上る。国外、国内を合わせると、シリアで難民化している人たちは、人口の半数を超える」

 シリアの人口は2200万人。その半分が難民化した。「第二次世界大戦以来の危機的状況」と言われるゆえんだ。
 
 日本の輸入会社が取引している製造業者は内戦下のアレッポを脱出して、ラタキアというところへ移った。アレッポの南西に位置する港町だ。そこで石けん製造を再開した。1000年の歴史を誇る石けんはかろうじて命脈を保った。とはいえ、ほかの製造業者は廃業や、トルコなどへの移転を余儀なくされた。
 
 カミサンが、店でこのせっけんを扱っている。一時販売を中断していたが、震災後、輸入会社から連絡が入り、再開した。おかげで心配なくアレッポの石けんを使い、その薬効を実感することができる。この一点だけで、ニュースに触れるたびにチラリと思う。戦争は、人命・財産だけでなく、文化を、歴史を、生業を、生活を破壊する。平和あってこその石けんだ――と。

2018年6月23日土曜日

「ぶな石」の白い線

 前にも書いたが、日曜日(6月17日)朝、いわき市三和町の直売所「ふれあい市場」で買い物をしたあと、山をはさんだ夏井川渓谷の隠居へ行くのに差塩(さいそ)の山道を利用した。
 差塩で寄り道をした。標高667メートルの一本山毛欅(いっぽんぶな)に「市乾草供給センター」がある。車で行ける。目当ては山頂部の巨岩「ぶな石」。「宇宙石」だの「パワースポット」だのといわれているが、それはなぜ? とにかく見ないことには始まらない。

「ふれあい市場」からの流れで、「差塩良々堂(ややどう)三十三観音参道入口」の先から左折して山道に入った。間もなく山頂というところで、北方の山の稜線に風車群が見えた。大滝根山に近い「滝根小白井ウインドファーム」の風車だろうか。ほかにも阿武隈の山々が遠望できた。
 
 山頂のなだらかな傾斜を利用した牧草地に、でんと巨大な岩の塊がある=写真上。「ぶな石」だとすぐにわかった。地元では「一本山毛欅石」、略して「ぶな石」と呼び習わしているそうだ。さすがに存在感がある。 

 広い牧草地と巨岩の組み合わせに、アメリカの画家アンドリュー・ワイエスの「クリスティーナの世界」を連想した。もとはしかし、うっそうとした森林だったろう。

「ぶな石」の上に立つ。幅2~3センチの白い線が一本走っている=写真下。その線の先には水石山が見える。地続きの別の岩には、並行する二本の白い線を斜めに横切るかたち(字でいうと片仮名の「キ」に近い)で白い線が走っている。
 白い一本の線の方だと思うが、線の先から春分・秋分の日だか夏至・冬至の日だかに朝日が昇ってくる――なんて話があるようだ。実際の方角はどうなのか。

「ぶな石」―水石山のラインを地理院地図とグーグルアースで確かめる。南東―北西だ。春分・秋分の日、夏至の日の朝日と「ぶな石」の白い線は無関係だろう。冬至の朝日がそれに近いところから現れるかもしれないとしても、それは偶然で、神様が意図したわけではない。

 鉱物に詳しい知人に聞いた。「ぶな石」は花崗岩で、白い線(岩脈)はペグマタイト(大きな結晶岩からなる火成岩の一種)だという。石英・長石などからできている。地下深部で固まる過程でひびが入り、そこへ石英などが入りこんだ――単純化していえばそういうことらしい。花崗岩にはよくあるのだとか。

 阿武隈高地は大昔、地層が隆起し、長年の浸食作用の結果、老年期の山々になった。人は年をとれば丸くなる。それと同じで、山も年をとればなだらかになる。一本山毛欅もそうした「残丘」のひとつで、周囲より硬かったために岩が残った、

 そうそう、差塩で遺跡発掘調査をした渡辺一雄さんの文章がある。

「差塩の遺蹟は場所柄、花崗岩の巨大な石がごろごろしており、その間から縄文時代の住居跡や祭りの遺構などが、検出されることが多い。平地の遺構にくらべると、規模はずっと小さい。小規模な遺構が川沿いに点在するのである。恐らくは、狩りのためのキャンプ地として利用した所であろう」(いわき地域学會『あぶくま紀行』1994年)

「宇宙石」うんぬんより、こちらの方に心が躍る。

2018年6月22日金曜日

街の根上がりケヤキ

 いわき駅前大通りの街路樹はケヤキ。しょっちゅう車で駅前再開発ビル「ラトブ」へ行くものの、ビルの外へ出て歩くことはそうない。目の隅で南北にのびるケヤキの緑を感じるだけだ。
 この街路樹はムクドリの集団ねぐらになっている。夕方になると小群が次々に現れ、絶えず形を変えながら旋回したあと、ケヤキの枝葉の中に消える。たまに飲み会があって、バスの終点のいわき駅とラトブの2階を結ぶぺディストリアンデッキを歩いているときに、ねぐら入りするムクドリたちを目撃する。

 いわき駅の南方、旧国道6号のひとつ先の通りに、大通りと直角に交差する「新川緑地」がある。江戸時代、平城の外堀の外堀として新川が開削された。今は下水管を暗渠にして、地表にケヤキなどが植えられている。
 
 この緑地を歩いていると、足をとられて転びそうになる。いつからか、ケヤキの根上がりによる通行障害に注意を促す赤い円錐形のロードコーンが置かれるようになった。緑地の南側に立つ市文化センターの広場のケヤキも一部、根上がりがおきて、ロードコーンが置かれている。
 
 樹木は年輪を重ねて幹と枝が太く大きくなる。地上部を支える根も広く深く張る。それが阻害されるとき、根上がりがおきるようだ。
 
 先日(6月10日)、平・本町通りの中心地の三町目で「三町目ジャンボリー」が開かれた。ラトブに車を止めてひと巡りしたとき、大通りのケヤキの根元を見て驚いた。若木を植えたときに設けられた鉄製の保護板が持ち上げられて浮いている=写真。そばの歩道のレンガも少し盛り上がっている。周りには注意を促すロードコーンとスライドバーの囲いがあった。
 
 孫悟空の金輪・キンコジ、囚人の足かせ……。このまま放っておくと、鉄板が根元に食い込むのではないか。そうなる前に鉄板をばらせないものか。

2018年6月21日木曜日

いわきの芸妓史

 芸妓(げいぎ)はみずから輝き、日本の宴会や遊びを支え、社会の動きに寄り添ってきたにもかかわらず、決して表舞台に出ないという稀有な存在だった――。レジュメの前文の一部だ。
 土曜日(6月16日)、いわき市文化センターでいわき地域学會の市民講座が開かれた。小宅幸一幹事が「花街の盛衰②―華やかな夜を彩る芸妓の時代①」と題して話した=写真。芸妓の形態、社会的位置づけ、日常などを取り上げながら、いわき地方の芸妓の歴史を紹介した。以下はA3コピー12枚(A4で23ページ)のぶ厚いレジュメから。

 いわきでは明治時代以降、ヤマ(炭鉱)とハマ(漁業)が繁栄して、芸妓が増加した。明治40(1907)年現在の統計書によると、石城郡内の芸妓屋と芸妓の数は平町22軒・57人、湯本村11軒・23人、小名浜町5軒・11人など、計44軒・111人に及んだ。

 芸妓が一人前になるには時間とカネがかかる。それを支えたのは政財界の重鎮。パトロン(旦那)としても芸妓の成長を支えた。そういう“寛容さ”が社会にはあったという。

 ところが、大正後期から昭和初期には関東大震災、世界恐慌の影響もあって、芸妓よりカフェーの女給が手っ取り早い享楽の相手になる。戦時色が濃くなると、歌舞音曲に浮かれるときではない、となって、芸妓まで軍需工場に動員される。

 戦後は――。高度経済成長期に活況を呈するが、やがて新人の補給に窮するようになる。それを補うようにホステス(社交員)が登場し、ますます芸妓は減っていった。

 吉野せいの作品集『洟をたらした神』の注釈づくりをしている。小宅さんの話を聴きながら、ふと思った。大正~昭和初期に限定して、芸者のいるマチと開拓農民のムラを比較したら、なにが見えてくるか。芸者を支える旦那衆から底辺で生きる庶民まで、同時代の人間の息づかいが聞こえるような注釈づくりができたらおもしろい。

 小宅さんは元市職員。現役のころは自分を「B級職員」と評していた。地域の歴史に関しても、歴史専攻の「A級研究者」とは別に、花街や平七夕まつり、鉱山鉄道など、どちらかといえばマイナーな世界に分け入り、独自の論考を積み重ねている。「B級職員」になぞらえれば、これはほめ言葉でもあるのだが、「B級研究者」の本領発揮といったところだ。