2018年2月1日木曜日

戊辰戦争と姫さまの死

 戊辰戦争で磐城平城が落ち、隠居の前藩主安藤信正一行が敗走する。赤井~三和~川前と逃れ、川内村に至る。ここで幼い姫さまが命を落とす。
 いわき地域学會が手がけた『川内村史』のうち、民俗篇(1988年刊)の<民話>の項に「安藤侯のお姫さま」が載る。姫さまが亡くなり、地元の猪狩家で通夜が営まれたあと、同家の山の墓地に葬られた。戒名は「平安藤源一滴善童女」。同家に末代までの供養料として脇差が託された。

 もとの墓は、何も書かれていない小さな自然石だった。昭和30年代、寺の過去帳に姫さまの戒名が記載されていることがわかった。寺の住職(詩人草野心平を川内村に呼んだ矢内俊晃師)の尽力で、平市長諸橋久太郎揮毫(きごう)の戒名が石に刻まれ、新しい墓がたった。先端にこけしの頭が彫られている。

 その過去帳の記載について、矢内和尚が川前の友人で考古研究者の根本忠孝(1893~1961年)に手紙で伝える。『橘月庵遺文 根本忠孝遺稿集』(同遺稿集刊行会、平成17年)=写真=に収められた「続・磐城戊辰戦争の片りん」で、根本が紹介している。

「平落城に際して安藤対馬守様が当地へ遁(のが)れた時に、家来の方が子供を亡くされています。当時の過去帳をみますと、『慶応四戊辰年七月十六日、平安藤源(注:「一滴」が欠落)善童女、平城、三田氏児女なり落城の節この地にて死す』と記載がありますから、御参考までに御通知申上げます」

 江戸時代の「常識」にうとい私のような人間は、文字通りに解釈しがちだ。が、それでは大きな間違いをおかしかねない。根本は矢内和尚の手紙にならって、亡くなった幼女は「家来の三田氏の児女」と解した。一方には姫さま説が根強くある。ここは歴史の専門家に教えを請うにかぎる。いわき地域学會の先輩にメールで質問した。

 先輩から届いた“解”は、①戒名の意味は、平・安藤の一滴を源とした童女となり、当時の住職の洒脱さが思われる②おそらくは側室(三田氏?)の子ども③「平城三田氏児女」とあるのは、あからさまに記すことを憚ったものと思う、仮の名ではないか――というものだった。複雑な背景がうかがえる。

 にしても、と思う。戊辰戦争を女性の視点で描いたものは寡聞にして知らない。いわきの「女たちの戊辰戦争」を知りたい。
 
 大名には参勤交代、正室と嫡男には江戸在府の決まりがあった。亡くなった姫さまの母親は国元にいる側室、ということになるのだろう。関口すみ子『ペットからお輿入れまで 大江戸の姫さま』(角川選書、平成17年)を読んで、さらに疑問が深まった。ついでながら、戒名の区切り方は「平安・藤源・一滴・善童女」か。

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