2023年10月24日火曜日

95歳の元学徒動員兵

                     
 いわき地域学會の第378回市民講座が土曜日(10月21日)、いわき市文化センター視聴覚室で開かれた=写真上1。

 会員の野木和夫さんが「暗号<セケ200>を受信した学徒動員兵」と題して、同じ企業(常磐炭礦)の先輩だった小山田昭三郎さん(95歳)の戦争体験記を紹介した。

 小山田さんは旧制磐城中学校4年生、つまり16歳のとき、特別幹部候補生として陸軍航空通信学校に入学し、翌昭和20年3月、朝鮮半島~中国沿岸経由で台湾へ配属された。潜水艦の魚雷攻撃を避けるために、直行ではなく大回りコースがとられたという。

 台湾では、台北松山飛行場の対爆壕の中で、主に本土(大本営)、沖縄、中国(南京)、マニラ、シンガポールなどとの交信を担当した。

 そのなかで同20年6月18日(と小山田さんは記憶している)、沖縄からの最後の電文「セケ200」を受信する。

「セケ200」とは、「敵(アメリカ)の戦車が200メートルに」迫っている、という意味の暗号だそうだ。この電文を最後に、沖縄からの通信は途絶える。

台湾で敗戦を迎えた小山田さんは同21年3月、最後の復員船で鹿児島に帰還する。広島駅から見た原爆の跡、列車内に乗り込んできた無軌道な集団……。故郷の内郷までの汽車の旅もショッキングなものだった。

同3月10日未明、小山田さんは上野からの夜行列車で綴駅(現内郷駅)に到着。懐かしいにおいを体中に浴び、母親の驚く顔を思い浮かべながら、家へ向かって歩き出した――。

小山田さんはその後、常磐炭礦に入社し、常磐ハワイアンセンターが開業すると温泉供給担当になる。

閉山後も残務整理に携わり、昭和62年3月に最後の仕事である常磐炭礦峰根浄水場を市に移管したあと、会社を退職した。

小山田さんは近々、野木さんの協力を得て本を出す。『炭坑(ヤマ)の滴(しずく)――消えた石炭産業 炭坑のラスト・サムライ奮闘記』=写真上2(イラスト部分が本の表紙)=で、台湾での従軍記録を付録として収める。

市民講座では、「私と戦争」と題する従軍記録を野木さんが先行して抜粋・紹介した。その一つ。

ハワイ・ホノルル発の短波放送を勤務の合間に受信していた。内地の空襲では前日、都市名を挙げ、「目標は軍需工場ですが、爆弾には目がないので、近くの方は危険ですから疎開してください」と予告していたという。京都や炭鉱などの「爆弾の除外」も放送で知った。

「敵前で『セケ200』を打ち続けていた戦友の『ト・ト・ト・ツー・ト・』終わりのない電文は私の脳裏から消えることはないでしょう」。95歳の今も、戦争は現在進行形のままだ。

2 件のコメント:

ゆうじくん さんのコメント...

先日草野心平氏のコメントをしたものです。野木さんの話題ありがとうございます。お元気そうで何よりです。野木さんには、ほるる、いわき伝承郷などで行われた、わたしの叔父の炭鉱絵画展示会等で大変お世話になりました。

タカじい さんのコメント...

菊地正男さんの絵画展「炭鉱(やま)への想い」、見ましたよ。