両親が夢に出てきたのだという。「お姉ちゃんと○○××さんに『ありがとう』というんだよ」。「お姉ちゃん」とはカミサン、「○○××」とは私のことだ。
わが家の隣に住む義弟がけがをして入院した。面会時間に合わせて見舞いに行くと、カミサンに礼をいい、私にも同じように「ありがとうございます」という。「いうことをきかないときにはしかってほしい」。そんなことも口にした。
家で転んで背中を強打した。背骨の圧迫骨折がわかったため、コルセットで固定しながらリハビリを続けることになった。
つらい痛みのなかで眠りに落ちたとき、両親が枕元にやって来たのだろう。
わかる。死んだ両親やきょうだい、連絡がとれなくなった友人や知人に、夢でもいいから会いたい、会って話をしたい――。そんな喪失感を若いとき、何度か経験したことがある。
実際、夢の中に親が、友人が現れたときには、たとえ目が覚めて幻だとわかっても、「会った事実」が残り、意外と生きるバネになった。
夢の力である。義弟は夢の中で両親と会い、生前そうだったように甘え、しかられ、励まされた。それでさっそく親の忠告通り、私らに感謝と謝罪を口にした。
義弟は週に3回、デイケア施設に通っていた。退院すれば、また通うようになる。夢を見たあとは少し余裕が出たのだろうか。施設のスタッフや利用者の話もするようになった。
たまたま施設に用があって、カミサンと出かけた。そのとき、「××○○さん(義弟のこと)は若いから」とスタッフがいった。
「若い?」。思わず苦笑しながらつぶやくと、すぐ返された。「若いですよ」。そうだった。利用者の中では、70代前半は確かに若い方なのだろう。
後日、義弟を見舞ったとき、カミサンがデイケア施設の話をした。表情をやわらげながら、うなずくようにして聞いていた。
1年以上前から、わが家の庭に居ついた「さくら猫」がいる。最初は野鳥のえさ(残飯)が目当てだったらしい。
カミサンが鳥とは別に、猫にもえさをやるようになった。私には警戒しながら距離をとる。が、猫かわいがりをする義弟にはすり寄っていく。
ときどき、庭木を利用して縁側の屋根に上る。先日は朝、義弟の家の屋根に上っていた=写真。
カミサンが逆光のなかでパチリとやったのを見て、萩原朔太郎の「猫」の詩を思い出した。
「『おわあ、こんばんは』/『おわあ、こんばんは』/『おぎやあ、おぎやあ、おぎやあ』/『おわああ、ここの家の主人は病気です』」
何日か前、見舞に行くと、義弟が猫の様子を尋ねた。屋根の上の猫の写真を思い出して、不思議な気持ちになった。
「この家の主人は、けがで入院中です。リハビリをがんばる気持ちになっています」なんて、胸の中でひっそりと猫に代わってつぶやいてみた。
0 件のコメント:
コメントを投稿