2023年10月13日金曜日

中山義秀展

                           
 作家中山義秀は明治33(1900)年、福島県・中通りの岩瀬郡大屋村(現白河市大信)に生まれた。昭和13(1938)年、「厚物咲」で芥川賞を受賞し、戦後は時代小説の分野で活躍した。

 中山義秀展がいわき市立草野心平記念文学館で開かれている(12月24日まで)。チラシや新聞記事=写真=に刺激されて、日曜日(10月8日)に出かけた。

 担当学芸員の説明を聞きながら、展示資料を見た。裏地に、水辺に浮かぶ小舟を描いた羽織があった。芥川賞の正賞である懐中時計も展示されていた。賞金は副賞だという。この二つが印象に残った。

 義秀は、私のなかでは歴史上の作家だ。「師友」と仰いだ横光利一(1898~1947年)の作品は、10代のころに読んだことがある。同じ「新感覚派」で横光の盟友・川端康成の作品も読んだが、義秀に関してはいわき関係のエピソード止まりだった。

 子どものころ、両親・兄と平で暮らしたことがある。そのときの苦い思い出が自伝的小説「台上の月」に描かれている。それを収めた『中山義秀全集』第7巻を図書館から借りて読んだ。

 「炭坑で名高い平市は、私達一家四人が故郷の村をさり、はじめて町へ移ってきたゆかりの土地だ。私はこの地の小学一年に転入して、半年ほどいた」(旧漢字・仮名は現代表記に変えた)

村育ちの兄弟は学友からいじめられる。2人はお城山に上り、眼下の汽車を眺めては望郷の念に駆られる。そして、谷間の「古沼」で、手ぬぐいで雑魚をすくったり、ヒシの実を採ったりして遊ぶ。

 古沼は丹後沢。兄弟はここで朽ち舟に乗ってヒシの実を採っているうちに竹棹がへし折れ、藻に乗り上げたまま身動きがとれなくなる。日がとっぷりと暮れたころ、2人を探し回っていた父親が義秀の泣き声などを聞いて救出する――。

 去年(2022年)、ひょんなことから義秀が生まれ育った白河市大信地区をグーグルマップでチェックしたことがある。

 義秀が生まれ育った大屋村は、昭和30(1955)年、東隣の信夫村と合併して「大信村」になった。両村は阿武隈川の支流・隈戸川の上流・下流の関係にある。

 同川は水源が西部の奥羽山脈で、そこから人間の手の指のように支脈が東方へ伸びる。合間を川が流れる。

未知の土地の生業や暮らし、交通などは川を軸にして見るとわかりやすい。義秀の父親は水車業を営んでいたが、水利権の問題で土地の人々ともめ、村を去るしかなかった。そうして移った先が平の町だった。

いわきに関してはもう一つ、後年、四倉で海水浴をし、中耳炎になった記憶がつづられる。

それよりなにより、隈戸川が流れる故郷の風物は、義秀にとっては忘れがたい思い出だった。

「私は山うるわしく水清い僻村に、生れそだったことを悔いてはいない。/貧しい家に人となって、自然の恩寵にあふれた青空のもとに私の幼い魂をはぐくんだことは私の倖せであった」(「花園の思索)。これこそが68歳で生涯を閉じた義秀の文学の原点といえるだろう。

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