2023年10月28日土曜日

草野心平と中原中也

           
 詩人の草野心平(1903~88年)と中原中也(1907~37年)の交友期間は3年弱と短かった。

 心平は昭和10(1935)年5月に同人誌「歴程」を創刊する。その半年前の同9年11月、同人による自作詩朗読会が開かれ、中也も出席した。そのとき、心平は31歳、中也は27歳。これが2人の最初の出会いだった。

それから間もない師走(推定)、心平の仲介で、中也が高村光太郎に詩集『山羊の歌』の装丁を依頼する。

 同じころ(推定)、居酒屋で中也が太宰治に絡み、太宰と檀一雄、心平と中也に分かれて乱闘騒ぎがおきた。

 中也は同12年10月、結核性脳膜炎のため、30歳の若さで亡くなる。心平は追悼詩「空間」を発表する。

 「中原よ。/地球は冬で寒くて暗い。//ぢや。/さやうなら。」。若いとき、心平の詩集を読んで、こういう追悼詩もあるのかと驚いた。

 山口市の中原中也記念館で先ごろ、特別企画展「草野心平生誕120年 草野心平と中原中也」が開かれた。

 ありがたいことに、知り合いを介して同展の図録=写真=が手に入った。前述の交友から追悼詩発表まで、この図録の年譜を参考にした。

 さて、10代後半のこと。生きている心平より彼岸にいる中也の詩に引かれた。なかでも「骨」は心に沁みた。

 始まりは「ホラホラ、これが僕の骨だ、/生きてゐた時の苦労にみちた/あのけがらはしい肉を破つて、/しらじらと雨に洗はれ/ヌツクと出た、骨の尖(さき)/……」。

 そして、「故郷(ふるさと)の小川のへりに、/半ばは枯れた草に立つて、/見てゐるのは、――僕?/恰度(ちやうど)立札ほどの高さに、/骨はしらじらととんがつてゐる。」で終わる。

 小川のヘリに立つ「棒杭(ぼっくい)」?を「骨」に見立てた感性に引かれて、そのへんにある柵などを見ると、「ホラホラ、これが――」と口ずさんだものだ

 石原裕次郎がこの「骨」を歌ったはず。記憶を手がかりに探ると、裕次郎が主演したアクション映画「太陽への脱出」(1963年)の主題歌だった。伊部晴美が作曲した。

 図録から知った中也の心平評。「草野君の感覚を僕は好きだ。そのピントは実に正確だ。つまり彼は詩人として第一に大事な点に於ては決してころがりつこない」

 同じく心平の中也評。「中原中也の場合、活路は唄うことにしかない(略)。そのどれの底にも少年が脈打っているのだ。『少年』が常に彼の日常や思考の奥底で夕焼小焼を唄っているのだ」

中也の詩の本質を「唄」と喝破した心平の慧眼に、あらためて舌を巻く。さらに、もうひとつ。拙ブログに寄せられたコメントで知ったこと。

心平は一時、国立市に住んでいた。そこから見える富士山を詩に書いた。それを同い年の親友、棟方志功が「板画」にした。旧国立駅舎で2人のコラボ作品の展示が行われているそうだ。

詩のタイトルは「天地氤氳(いんうん)」。「氤氳」は雲や煙が盛んなさまをいう。心平は時に難語で人を惑わす。

1 件のコメント:

ゆうじくん さんのコメント...

旧国立駅舎で展示中の草野心平氏の天地氤氳を写真からテキストに変換してみました。
氏が選び出した言葉を読んで、もっと氏の作品を知りたくなりました。


天地氤氳

畑のむこうの。
裸の雑木林が火事のよう。
いちめんのギャランス。
黒スエターのおれはいきなりマフラをひっかけ外へ出た。 国立町富士見通りは文字通り富士見通りで。道路の真正面にまっぱだかの富士がガッと見える。
太陽はいま。
富士の横っ腹で。
火吹竹のように怒る血だるま。
街のネオンがまるで合図をうけたかのようにパッとともり。 うすっぱなその三色すずらんのいやらしさのなかをおれは富士に向って歩いてゆく。
激烈な火だるまも胴っ腹の向うに沈み。
黒眼鏡雲は。
贋のコロナを噴き。
野葡萄色の逆摺鉢も。
いまはくすんだグレイブラック。
贋のコロナも既に消え。
もう太陽はでないかのような。 もうあれが太陽の憤然とした最后でもあるかのような。
そしてしずかな天地氤氳。
沈む幾何学。