2010年1月24日日曜日
15年の歳月
部屋の書棚に眠っている古い資料を整理していたら、あるところに書いた15年前の自分の文章が出てきた。「阪神大震災に限らず、災害を体験した人間は、その前と後とでは世界観(見方や考え方)が変わってしまう。同じ人間ではいられなくなってしまう。〈死〉と〈破壊〉の体験が癒しがたい傷を残す。……」
昭和31(1956)年に大火事を体験した者として、あとあとまで続く被災者の経済的・心理的困難を思い、「今、将来、そのつど変化してゆく当事者の心に寄り添えるような想像力を磨いていきたい」と結んでいる。タイトルも「想像力を磨こう」とあった。
その文章が出てきたころ、ハイチ大地震が発生した。何日か後には震災ドラマ「神戸新聞の7日間」が放送された。神戸新聞社・著、プレジデント社発行の『神戸新聞の100日――阪神大震災、地域ジャーナリズムの戦い』(1995年11月30日第一刷発行)が原作だろう。本が出版されたとき、すぐ買い求めて読んだ。
なかでも、震災で父を失った論説委員長の三木康弘さんの“超社説”「被災者になって分かったこと」には、心が打たれた。その話も当然、ドラマには出てくる=写真。
そうか、15年か。ということは、週末を夏井川渓谷(いわき市小川町)の無量庵で過ごすようになってからも、15年が経過するのだ。その年、1995年は1月17日に阪神・淡路大震災が発生し、3月20日に地下鉄サリン事件が起きた。その年の5月末に、私の無量庵通いが始まったのだった。
義父と一緒に隣組を回ってあいさつした。週末だけの半住民だが、すぐ駐在さんの知るところとなり、自宅に身元を確かめる電話がかかってきた。警察がオウム真理教の信者の動静に神経をとがらせていたころだ。なんとも素早いことよと、苦笑したことを覚えている。
神戸新聞の“超社説”はこう結ばれている。「これまで被災者の気持ちが本当に分かっていなかった自分に気づく。“災害元禄”などといわれた神戸に住む者の、一種の不遜さ、甘さを思い知る。/この街が被災者の不安やつらさに、どれだけこたえ、ねぎらう用意があったかを、改めて思う」。いわきに住む人間にも当てはまる自戒だろう。
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