2012年2月15日水曜日

文芸講演会


このところ催しがめじろ押しだ。公民館まつりが開かれる。ミニミニリレー講演会で知人が話す。若い人から映画会の誘いがくる。地域学會の市民講座と役員会がある。年度末、いや3・11に近づいているからだろう。なんとなくあわただしい日々を送っているところへ、文芸講演会の案内がきた。

いわき市立草野心平記念文学館で日曜日(2月12日)、詩人・映画監督の福間健二さんが「詩を書くことと生きること」と題して講演した。福間さんは1949年生まれの団塊世代だ。同じ時代の空気を吸った人間の話を聴いているうちに、オレにもセイシュンというものがあったっけ、なんて感傷的な気分になった。

福間さんは現代詩との出合いや、専門のイギリス現代詩のこと、1960年代から現在までのことを、さまざまな詩人に言及しながら語った。

1960年代は音楽・映画・文学などに新しい動きがみられた。生きること、考えることとつながったビートルズやローリングストーンズのような音楽があらわれる。それまでの映画の語り方とは違った映画も生まれる。そしてそのころ、現代詩に出合うことは思想に出合うことでもあった――という話に、1960年代の極私的な記憶がよみがえった。

理解しえたかどうかはさておき、20歳前後に手にした詩集・思想書・評論集は少なくない。映画もよく見た。楽器もいじった。福間さんが挙げた詩人の作品はあらかた目を通した。吉本隆明、ロラン・バルトも歯が立たなかったが、かじった。

そこへいく前、17歳のころにフィリップ・ソレルス、ナタリー・サロート、ロブ・グリエといったフランスのアンチロマン(反小説)をゾクゾクしながら読んだ。「現実に堪えられない思想はだめである」。三木卓の詩の1行を信条としているのも、そのころのセイシュンの結果にほかならない。

そんなセイシュンはおいといて、今は――。「詩はつらい境遇にある者を支えるためだけにあるのではない。楽しい日常の一歩先にも詩がある。他者と生きるからこそ言葉が大事になる」。3・11後の現在に重ねて、福間さんはそうしめくくった。

半世紀近く詩を読んできた、読むことを捨てずにきてよかったと、セイシュンの余韻にひたって文学館をあとにしたら、園庭に無人式固定型放射線量計(リアルタイム線量計)がセットされているのが目に入った=写真

セイシュンに酔う内部の現実のほかに、放射能を浴びる外部の現実がある。それを数値化したのが線量計だ。福島の人間はこの現実に向き合って日常を“再構築”しているのだ、という思いに立ち戻った。

0 件のコメント: