「松田松雄没後11年展」が6月9日、アート・スペース・エリコーナ(いわき市平)=写真=と、ギャラリー創芸工房(同市鹿島町)で始まった。24日まで。
エリコーナによると、1年前の昨年6月、松田松雄展を予定していた。「没後10年展」だろう。それが、東日本大震災・原発事故で延期を余儀なくされた。二つのギャラリーによる異例の共同企画展になったのも、そのへんに理由がありそうだ。
画家の松田松雄と出会ったのは、昭和46(1971)年。画家や書家、美大卒業生、新聞記者らがたむろするギャラリー「草野美術ホール」で、だった。ともに独身。20歳になったばかりの画家阿部幸洋を加えて、毎日のように夜の町に繰り出した。結婚してからは、つきあいが家族ぐるみになった。
およそ20年前、原因不明の病に倒れた。11年前、彼岸に渡った。5月下旬に共同企画展の案内状が届いた。以来、思い出が毎日、わいてきて困った。彼の出身地は岩手・陸前高田市。3・11に壊滅的な被害を受けた。それも理由の一つだろう。
3年半前、同じエリコーナで「松田松雄展――黒の余韻 パート1」が開かれた。そのときの私のブログ(2008年11月8日付)の文章を引用する。
「彼の作品は良くも悪くも彼の内面を反映している。悲しみ、喜び、混乱……。変貌し続ける作品にはすべて(おそらく)『風景〇×』『風景(〇×)』のタイトルが入っている。『風景』とは彼の内面の風景のことでもあった」
「『私にとって表現が変わるというのは、危険をはらんだ最高のドラマと云える。/そして私は、彼岸への道に踏み出す予感に震える』。病に倒れる5年ほど前の、昭和63(1988)年6月に書かれた彼の文章である。今を壊して未来を描く悲しさに、私も恐れを抱いた」。その恐れが、やがて現実のものになった。
30年前、彼に請われて個展の図録に文章を書いたことがある。「彼の故郷、岩手県陸前高田市はリアス式海岸に特有の、急峻な山と津波の危険を孕んだ入江に臨む半農半漁の町である。平坦な道といえば、町の南端を流れる気仙川の堤防に刻まれた細い道が1本あるだけ」。彼から聞いたふるさとの風景だ。その風景が消えた。
彼の複雑な家族関係にも言及した。ひとことで言えば、母性への渇望――そうしたものを私は感じてならなかった。
彼は「技術を売り物にする画家とは異なり、精神の飢餓のようなものに突き動かされて絵を描き続けるタイプ」だ。「人間の悲しい闇の部分を提示しながらも、そこに祈りのような聖性が漂っているのはそのためで、これはきっと彼が見た地獄の深さに私達が慰撫されていることを意味する」。
「没後11年展」では、3・11がかぶさった。上掲の写真の絵を見ていたら、ドキドキしてきて息苦しくなった。30年前に、彼の「作品は変貌しても生と死の黙示劇的構造に変わりはない」と書いたが、3・11を経験して、「黙示劇」がかえって強く胸に刺さってきた。
「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」。3・11後、私の胸中には宮沢賢治の言葉が反響するようになった。同じイーハトブ生まれの画家の作品もまた、3・11後、画面から発する祈りを深めたかのように思える。
★追記:7日付「『くらし随筆』」の中で、道端に咲いている花を「キバナコスモス?」と書いたところ、「特定外来生物オオキンケイギク」と「雑草好き」さんから教えていただきました。ありがとうございます。
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