2年前(2013年)の9月20日、元草野美術ホールオーナー草野健さんが亡くなった。享年95。3回忌に合わせて『ホラ吹き10年 草野健遺稿集』が刊行された=写真。息子のカズマロ君がおととい(10月5日)、わが家へ持参した。なかに本人の“生前弔辞”が載っている。〈あとがきに代えて(本物の弔辞)〉には、私を含む3人の弔辞が収められた。
“生前弔辞”の一部。「あなたは運のよい人でした。/戦争中は、生死の間を彷徨(さまよ)うような危険にいくたびか遭遇しながらも、その都度生きて帰り、仲間を驚かせました。/(略)子育てと商売下手なあなたは五十才のとき、六十五年も続いたコンニャク屋を廃業してしまいました。(略)あなたは、新たに建てたビルの三階に、美術展の会場を作りました」
そこから草野さん、いや「おっちゃん」と若い美術家たちとの交流が始まり、現代美術を主として収集するいわき市立美術館の設立へとつながる。駆け出し記者だった私もその渦の中で鍛えられた。下仲人までしてもらった。
“生前弔辞”の続き。「この会場はいつのまにか、老若男女のたまり場となり、あなたはホールの『おっちゃん』とよばれましたね。/これも当地に美術館ができたので、役目が終えたとばかりに、あっさりとホールを閉鎖してしまいました」
ホール時代、いや若いときから創意・工夫の人だったらしい。後ろではなく前から作品を出し入れする額縁や、段差でも安定している車いすを発明して特許を取った。絵を描き、尺八を習い、杖道に汗を流し、パソコンをいじり、文章を書いた。社交ダンスや英会話に挑戦した。八十何歳かで通信制の高校にも入学した。
「あと何年生きるかよりも、生きている間何を為したかの問いに応えむ」をモットーにしていた人らしく、知的好奇心に裏打ちされた生涯学習の後半生だった。遺稿集にはその軌跡がつづられている。家族、とりわけ少し早く亡くなった妻への感謝の気持ちも。
昭和54(1979)年、草野美術ホールの仲間の一人だった画家の故松田松雄(1937~2001年)が、いわき民報に私小説的美術論「四角との対話」を連載した。それを、娘の文さんが36年ぶりに書籍化した。頼まれて私があとがきを書いた。ほぼ時を同じくして2人の本が世に出た。
カズマロ君にそのことを話すと、驚いていた。文さんから『四角との対話』が2冊届いたので、1冊をおっちゃんの霊前にと進呈した。『ホラ吹き十年
草野健遺稿集』は、直接、松田家に届けるということだった。
松田松雄の、生まれ故郷での回顧展が10月3日から11月29日まで、岩手県立美術館(盛岡市)で開かれている。きょう(10月7日)は、郡山―盛岡間の東北新幹線の切符を買いに行くとするか。
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