2016年10月21日金曜日

表紙を替えても

 いわき駅前再開発ビル「ラトブ」が10月25日、オープン9年を迎える。開業前日、新聞社をやめた。以来9年間、いわき地方の新聞の歴史を調べることを、暮らしの軸においてきた。
 明治、大正、昭和前期と、いわきの活字メディアは興隆する。が、日中戦争が泥沼化し、さらに対米戦争へと坂道を転がる過程で総動員体制が敷かれ、5紙あったいわき地方の日刊紙は1紙に統合される。
 
 太平洋戦争が始まると、さらに統制が強まる。統合されたいわきの夕刊は「1県1紙」政策のなかで福島民報に組み込まれ、「磐城夕刊」になる。それもつかの間。物資不足のあおりで休刊される。戦争は身近な地域メディアの存在を許さなかった。

「時代の空気」のなかで「個人の内面」にふれる――そんなことを意識して、アカデミズムとは異なるブンヤ流で図書館通いを続けている。ラトブにある総合図書館は、9年前のオープン以来、「私の書庫」だ(リタイア後はカネがないから、本はめったに買わない)。

 カミサンが読書推進関係のメディアに原稿を書いて、謝礼に1万円の図書カードをもらった。それがこちらに回ってきた。
 
 いそいそと本屋へ出かけた。大黒岳彦『情報社会の<哲学>』(勁草書房)、加藤陽子『戦争まで』(朝日出版社)、森正人『戦争と広告』(角川選書)――8000円近い買い物をした。最初の本はともかく、銃後を生きた市民の心にふれるには、戦争を、戦争を引き起こした時代を知る必要がある。そのための資料でもある。
 
『戦争と広告』は、半年前にも買った。表紙が違うから続編だな、これは――早とちりして、つい手が出た。並べると違いがわかる=写真。家に帰って、念のために同じページを比較した。んっ、同じじゃないか。なぜ表紙だけ替えた? 帯に「メディアはいかに嘘をつくのか?」とある。「嘘をついてるのはあんただろ」なんていうのはウソだが、いい気分はしなかった。

 次の日、ワケを言って返品し、返金分より100円高い別の本を、消費税をプラスして買った。
 
 なぜこのごろ「戦争」本なのかと考える。東日本大震災を契機に、過去におきたことは未来にもおきる、自然災害であれ人災であれ戦争であれ――という思いが強くなった。戦前の地域紙も、やがてつぶされる運命にあるのに、戦意高揚色の強い紙面に変わっていく。銃後のプロパガンダの一翼を担った。
 
 前に、中東でフリージャーナリストら2人が殺されたとき、某紙のコラムニストが「仇をとってやらねばならぬ、というのは当たり前の話である」と書いたのにのけぞった、と書いた。メディアが勇ましいことをいいはじめたら要注意だぞ、コラムは雄々しくある必要はない、女々しくていいんだぞ、と私は現役の記者たちに叫びたくなった。

少子高齢化であれ、なんであれ、兆候は地域の隅っこに現れる。そこは「末端」ではなく「最先端」。「戦争が廊下の奥に立ってゐた」(渡辺白泉)なんてことが、夢にも現れないようにと念じながら、戦争の本を読み続けている。

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