10日ほど前のことだ。近くの出羽神社で例大祭が行われた。案内がきたので出席した。宮司あいさつで、境内にある内藤露沾(1655~1733年)の句・歌碑=写真左=が、来年(2017年)、建立からちょうど300年を迎えることを知った。
江戸時代前期、内藤氏が磐城平藩を支配した。露沾はその内藤氏の跡継ぎに決まっていたが、ワケあって隠退させられ、六本木の邸(やしき)で和歌や俳諧に親しむ日々を送った。松尾芭蕉のパトロンでもあった。
元禄8(1695)年、41歳で江戸から磐城平の高月台(現磐城高校)に移り住んだ。そのころ、本名を義英から政栄に改めている。碑には、和歌「羽黒山
御影も清き みそぎこそ 茅(ち)の輪をこゆる 代々の川波」が彫られ、句「清祓 千代をむすばん 駒清水」が併刻された。神社は小丘の頂上にある。それで「羽黒山」なのだろう。
同神社は平成21(2009)年7月20日、しばらく中断していた「茅(ち)の輪くぐり」を復活させた。露沾の和歌が後押しをしたのだろうか。神事復活と同時に「羽黒露沾会」が組織され、和歌・俳句・川柳の募集も始めた。毎年、この日に表彰式が行われている。
故佐藤孝徳さんの「内藤露沾について」(「いわき地方史研究」第42号、2005年)を読むと、歌碑は享保2(1717)年6月18日、神主佐藤出羽守信胤が建立した。3世紀の星霜を経て古さび、文字も読みにくくなっている。「いしぶみ」としての価値は確かに文化財級だ。
露沾は、磐城では社寺を訪ね、多くの人間と交わった。なかでも(と、我田引水になるが)、神谷はお気に入りの里だったようだ。享保3年には同神社に猿田彦面を、同11年には出目洞白作の能面(市指定文化財)を奉納し、近くの一山寺へはたびたび花見に訪れている。住善寺でも歌と句を詠んだ。
露沾の詠んだ作品の背景を一カ所、一カ所確認しながら歩くことで彼の偉大さがわかるような気がすると、佐藤さんは記した。“遺言”にしたがって神谷だけでも歩いてみるか。
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