2017年5月25日木曜日

青天目澄子は「食べる人」

 朝ドラの「ひよっこ」を昼(再放送)も見る。朝、よくわからなかったセリフ、特に「小名浜中」卒の青天目(なばため)澄子の、重くくぐもった言葉が、1回聞いただけではわからないときがある。
 今は――向島電機で繰り広げられる、昭和40(1965)年夏の乙女たちの青春編、といったところか。同じ年に17歳だった身には、小道具や挿入歌のひとつひとつが生々しい。しかも、「きのう」どころか「さっき」のことのように、当時の情景がよみがえる。昭和40年代を知らない若い視聴者と、当時ハイティーンだった団塊世代の「二兎(にと)を追う」作戦のようだ。

 真夏、工場の生産ラインで乙女たちが首にタオルを巻いてトランジスタラジオをつくっている。同じように、超高層ビルなどの建設現場のアルバイトには、タオルが欠かせなかった(今もそうだろうが)。
 
 歌謡曲が最後に燃え上がった時代でもある。美声の春日八郎や三橋美智也らとは別に、美少年歌手の人気が沸騰した。橋幸夫と吉永小百合の「いつでも夢を」(昭和37年)、三田明の「美しい十代」(昭和38年)、舟木一夫の「高校三年生」(昭和38年)、少し遅れて西郷輝彦の「星のフラメンコ」(昭和41年)に酔いしれ、なりきって歌った。
 
 きのう(5月24日)のラストシーンでは、夕日に照らされたなぎさで“茨城巡査”の綿引クンが♪アイ・ラブ・ユー……と歌い出す。そこに、原曲の加山雄三のラブソング「恋は紅いバラ」(昭和40年の映画「海の若大将」主題歌)の♪アイ・ラブ・ユー……が重なる。きたきた、次は「君といつまでも」(昭和40年)だな――。
 
 美少年歌手がアイドル化する一方で、グループサウンズがはやり、フォークソングの波が押し寄せてきつつあった。自分で歌をつくる人間が増えていた。加山雄三は、その代表的な存在だ。「君といつまでも」は、やはり昭和40年、映画館で見て覚えた。ほかにも、当時のヒット曲が次々に登場する予感が広がる。
 
 澄子の話に戻る。よく食べる。カレーライス(当時は「ライスカレー」と言っていた)から始まって、バナナ=写真=を食べ、きのうはつまみ食いをして、おむすびまで手に持っていた。
 
 そのころ、叔父が小名浜に住んでいた。義叔母の名前はスミ子。娘が3人いた。いとこたちだ。長女は私より2歳上、次女は1歳下、三女は4歳下だったか。年齢的には、澄子は次女の同級生、ということになる。胸の底で化石化していたはずの“青春”がうごめきだして、コントロールがきかない。

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