朝日新聞で作家の多和田葉子さんの随筆「ベルリン通信」が始まった=写真。
東京からベルリンへ戻り、空港でタクシーに乗る。若い運転手は珍しくドイツ人だった。日本からの客だと知ると、運転手が話しかけてきた――というところから文章が始まる。
「福島の原発事故って本当は起こらなかったんですよね」「あれは事故に見せかけてイスラエルが秘密兵器の実験を行ったんですよね」。それだけではない。「広島に落ちたのも本当は原爆じゃなくて普通の爆弾だったんですよね」。多和田さんならずとも、のけぞった。インターネットに書いてあったという。
多和田さんは危機感を募らせる。「今ドイツ社会がゆらいでいるのは、難民をうけいれたからでもテロ事件が起こったからでもない。保守も革新も同意していた歴史の輪郭が次の世代に伝わりにくくなってきたからだ」
インターネットにはファクト(事実)もフェイク(虚実)も同列で存在する。ネットの海をさまよっているうちに、虚構を虚構としてではなく、ほんとうのこととして受け入れる、つまりは原発事故も原爆投下もなかったと信じ込む人間が現れた、ということなのだろう。
震災後、シャプラニール=市民による海外協力の会がいわきに交流スペース「ぶらっと」を開設した。そこで、今もつきあいのある人々と知り合った。フランス人の写真家デルフィンもその一人だ。震災2年目の暮れ、デルフィンがベルリンの多和田さんの自宅を訪ね、それが縁で多和田さんが福島を訪れた。
「2013年夏、Dさんがいわき市に住むTさんを紹介してくれて、その方の案内で(中略)たくさんの方々から貴重なお話を聞かせていただき、感謝の念でいっぱいだった」(講談社PR誌「本」2014年11月号)。福島に足を運んだ結果、「『献灯使』という自分でも意外な作品ができあがった」。
いわきで二度、多和田さんにお会いした。会食の席に呼ばれた。比喩が独特だった。以来、多和田さんの文章をじっくり読むようにしている。「ベルリン通信」では、タクシーを降りるときの、いわば「捨てぜりふ」が痛快だった。
歴史の輪郭、つまりは人類全体の記憶が溶解したような若い運転手にいう。「ところで地球が本当は四角いってご存じでしたか? インターネットに書いてありましたよ」。しかし、運転手には皮肉は通じなかったようだ。
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