14市町村が合併して「いわき市」が誕生する10年前の昭和31(1956)年4月、旧平市で主に市制施行20周年を記念する式典が開かれた。そのとき、「平市歌」が披露された。
それから64年。「平市歌」を後世に伝えようと奮闘している若い仲間がいる。M君という。カミサンが「小学生のころ、学校でこの歌を習った。歌詞もメロディーも覚えている」というと、M君が家に来てカミサンの歌を録音した。
M君はそのあと、カミサンの音源を基に、知り合いの音楽グループに採譜を頼んだ。楽譜ができると、今度は合唱サークルに所属している若い女性に連絡して、わが家の向かいにある故義伯父の家で歌を吹き込んだ=写真上。その様子を福島民報の記者が取材した。きのう(10月4日)、記事が載った=写真下。
そのなかでわいてきた疑問。今ならあり得ないことだが、審査員が自分の作品を選んでいる、そういわれてもしかたがない結果になった。
いわき民報の記事を参考に、経緯をたどる。昭和31年1月8日に審査会が開かれる。市長ら8人の審査員のなかに、読売新聞平通信部の福田清記者がいた。ほかにマスコミは入っていない。
応募のあった歌詞は150編余。1次、2次、3次選考を経て、最後に5編まで絞り込んだものの、審査は一日で終わらなかった。翌々日、再び審査会が開かれる。1月13日付の1面トップにその結果が載る。「一等に福田氏/讀賣新聞記者で民謡作家」。福田記者はどうやら「北郷雪夫」のペンネームで歌詞を書き、応募していたようだ。
1番だけ紹介する。「明けて夏井の水きよく/いらか伸びゆく街のいろ/人和すところ肩あげて/ゆかりの郷に呼びかわす/ああ平和の光りさす都/わが平市に誇りあり」
民謡作家北郷雪夫と新聞記者福田清は別人格――とまあ、分けて考えることはできる。が、この場合は応募者と審査員だ。少なくとも、自分の作品が俎上(そじょう)にのったときには、選考からはずれたと思いたい。
私がいわき民報記者になった昭和46(1971)年当時、社内外に大先輩が何人かいた。社内のその人は朝日OBで、戦前はいわきの地域紙記者だった。福島民友や河北で記者をしていた社外の人にはよく酒をごちそうになった。福田記者も「伝説」の記者の一人だったようだ。ときどき名前を聞いた。読売の現役なのに、いわき民報に文章を寄稿し、「くらし随筆」さえ書いている。このおおらかさは何だったのか。
平市制施行20周年記念式典の話に戻る。カミサンは「式典では歌っていない、行列をした覚えがある」という。いわき民報の記事には、「平市歌」は式典で「テープ(レ)コーダー吹込み(一小小松七郎教諭独唱)による放送」がされた、「一万六千の小中学生が旗行列を実施」した、とある。
カミサンはこの行列に参加したのだろう。が、1万6千人もの子どもの行列はほんとうか。平市の小中学生はそのくらいいただろう。それが全員、平市の中心市街に集まって旗行列をした、とは考えにくいのだが……。
地方の新聞記者も新聞社も、ライバルというよりは同盟とでもいいたくなるような、牧歌的な時代の名残が「平市歌」関連の記事からは感じとれる。
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