ブログで「昭和13年の仕入帳」を書くために、図書館から『島崎藤村全集1』(筑摩書房、1981年)と、池井優『藤山一郎とその時代』(新潮社、1997年)=写真、古賀政男の自伝『我が心の歌』(展望社、1965年)を借りて読んだ。
仕入帳の余白に義母が歌謡曲「青い背広で」の詞の一節を書き留めていた。この歌が生まれた背景、時代を知りたかった。
昭和5(1930)年、コロンビアから高橋掬太郎・詞/古賀政男・曲/藤山一郎・歌で「酒は涙か溜息か」のレコードが発売される。100万枚を超えるミリオンセラーになった。「丘を越えて」も古賀・藤山コンビでレコード化され、大ヒットした。藤山は当時まだ音楽学校生で、覆面歌手として「藤山一郎」を名乗っていた。やがて学校の知るところとなり、停学処分を受ける。
その後、古賀はテイチクに移籍し、藤山も卒業と同時にビクターの専属歌手になる。3年の契約が切れると、古賀の引きでテイチクに入社し、古賀とのコンビで出した「東京ラプソディー」がまたまた大ヒットする。
その延長で制作されたのが、佐藤惣之助・詞の「青い背広で」だった。「ある日、藤山が新調のグリーンの背広を着て出社すると、詩人の佐藤惣之助が目をつける。『おや、ピンちゃん、いい服着てるな。よし、そのセンスでやってみよう』」(『藤山一郎とその時代』)。「ピンちゃん」は「一郎」からきたあだ名。青い背広は、ほんとうは緑の背広だったことがわかる。
放送中の朝ドラ「エール」では、藤山一郎は「山藤太郎」で出てくる。戦後の昭和24(1949)年、主人公の古山裕一(モデルは古関裕而)と山藤が再会し、コンビで「長崎の鐘」を世に送る。戦時下もそうだった、平和の世にも、希望を持って頑張る人にエールを送ってほしい――。先週(10月19~23日)は、「長崎の鐘」が誕生するまでを描き、いよいよ大団円が近いことを感じさせた。
一つだけ「あれッ」と思ったことがある。「長崎の鐘」の作詞者・サトウハチローがどこにも出てこなかった。ま、それは脚本上のアヤだからしかたがない。
ハチローは「長崎の鐘」のほかに、「リンゴの唄」「悲しくてやりきれない」、童謡の「うれしいひなまつり」「ちいさい秋みつけた」などを書いている。随所に小さなもの、弱いものに対するまなざしが感じとれる。とりわけ「悲しくてやりきれない」は、わが青春の思い出の歌でもある。
ハチローは「泣き虫の不良」で、「エゴイズムと無邪気な感情が背中合わせになっている人間だった」(佐藤愛子『血脈』あとがき)。父親の作家佐藤紅録の血を引き、嵐のように実人生を走りぬけた。この矛盾の深さがむしろ、ハチロー作品を魅力のあるものにしている。ハチローの弟・節はたまたま広島へ行って、被爆して死んだ。「長崎の鐘」は弟の鎮魂の意味もあったのだろう。
平成20(2008)年1月、常磐に野口雨情記念湯本温泉童謡館がオープンした。「最初は金子みすゞを、あとは自由」。初代館長でいわき地域学會代表幹事の里見庫男さんにいわれて、同年後半から月に1回、主に童謡詩人についておしゃべりをした。
みすゞのほかに、西條八十、八十の弟子のサトウハチロー、あるいは工藤直子、竹久夢二、そして雨情、山村暮鳥ゆかりの人々を調べて話した。それで、ハチローにも愛着がある(「エール」に出てくる脚本家「池田二郎」は菊田一夫がモデル。菊田はハチローの弟子だった)。
ついでにいえば、ハチローは大正15(1926)年9月、第1回「銅鑼の会」に出席している。「銅鑼」は草野心平が始めた同人雑誌だ。心平とハチローは同い年。誕生日も、心平は明治36(1903)年5月12日、ハチローは同23日と近かった。
さらにもうひとつ、核兵器禁止条約の批准数が発効に必要な50カ国・地域に達した。24日に国連が明らかにした、というニュースが世界を駆け巡った。「泣き虫の不良」も天国で大泣きしているのではないか。
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