2020年10月21日水曜日

昭和46年の心平と志功

        
 昭和46(1971)年4月に、いわき民報社に入社した。履歴書を持って編集長の面接を受けた。青森県生まれの社長からいわれたのは、肩まで伸びた髪を切ること、それが採用の条件だった。

その半月後の同15日から20日まで、平の大黒屋デパートで草野心平展(磐城高校同窓会主催)が開かれた。

出社すると先輩記者の机を回って鉛筆を削り、お茶を出すのが仕事だった。多少文学をかじっていたことから、編集長が試しに使いに出してみる気になったのだろう。

「草野心平に会って話を聞いて来い」。びっくりした。展覧会を取材した記者は別にいて、すでに記事になっている。まだ見習いでさえない新人に期待するものはなにもない。が、ひょっとするとひょうたんから駒が――と考えての、気まぐれな指示だったのではないか。

会場へ出向き、女性の秘書さんに来意を告げて詩人と対面した。が、詩人はこちらの顔を見ようともしない。私も、何を質問していいかわからない。なにかを質問したが、それでも黙っている。だんだんいたたまれなくなって、15分ほどで切り上げた。「なにも聞けませんでした」。社に戻って編集長に報告すると、「そうか」といっただけで、それきりになった。やはり、ひょうたんから駒は出なかった。

質問の仕方もメモの仕方もわからないうちに心平に会って、見事にインタビューに失敗した――この苦い思いが記者の仕事の原点になった。

いわき市立草野心平記念文学館で12月20日まで、企画展「草野心平と棟方志功~わだばゴッホになる」が開かれている。「いわきゆかり」のコーナーも設けられた。

心平と志功の友情はよく知られている。2人は49年前の昭和46年、いわきの地で旧交を温めた。

冒頭にも書いたが、その年の春、心平は故郷で初めての個展を開いた。秋の9月22~26日には、いわき民報創刊25周年を記念して「文化勲章受章棟方志功板画展」(志功は「版画」ではなく「板画」を使った)が、やはり大黒屋デパートで開かれた。初日正午からのレセプションには、心平が逗留(とうりゅう)中の川内村・天山文庫から駆けつけ、夕方には心平の案内で志功が同文庫を訪れている。

このときは記者として走り始めていたが、自社の主催行事には全く無縁だった。一社員としてチラリと会場をのぞいたような記憶がある、それだけだ。

むしろ、そのころ民放で始まった渥美清主演のテレビドラマ「おかしな夫婦」(モデルは棟方志功夫妻)を通して志功に親しんだ。

志功といわきの関係は、合併前の旧平市時代にさかのぼる。同41(1966)年4月、平市民会館が落成する。志功原作の大ホールの緞帳(どんちょう)「大平和の頌(しょう)」が評判を呼んだ。いわき民報社が志功の板画展を開いたのも、この縁だけでなく、社長が志功と同じ青森出身だったことも大きかったろう。

平市民会館はやがてアリオスに替わり、緞帳は常磐市民会館に移された。アリオスのカスケード(交流ロビー)には、「緞帳原画Ⅳ」を基にした美術陶板が設置されている。

日曜日(10月18日)に文学館で心平と志功の企画展を観覧し、図録など=写真=を眺めているうちに、昭和46年の心平と志功、いわき民報といわきのできごとが一気によみがえってきた。

私が入社した当時、いわき民報社は仮社屋で業務を続けていたが、大型連休中に5階建ての新社屋に移った。5階には結婚式場「ことぶき会館」ができた。まだお茶くみをしていた新入社員は、同会館で花嫁衣裳研修会が開かれたとき、社長命令で花婿のモデルになった。当時のいわき民報に掲載された写真を見ると、花嫁は6人いた。

吉野せいが「三野混沌夫人」の肩書で、ときどき随筆「菊竹山記」を寄稿していた。この「菊竹山記」で初めて吉野せいを知った。独特の比喩に舌を巻いた記憶がある。磐城高校野球部が夏の甲子園で準優勝したのもこの年だった。

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