2020年10月6日火曜日

山口弥一郎の『妻の日記』

                               
 会津出身の民俗・地理学者山口弥一郎(1902~2000年)は、戦前、磐城高女(現磐城桜が丘高校)で教鞭(きょうべん)を執った。カミサンの母親(生きていれば101歳)は、高女時代に山口の教えを受けた。その縁だろう、遺品の中に山口弥一郎編『風そよぐみちのくに生きる妻の日記』(以下『妻の日記』)=写真=があった。今は形見としてカミサンが持っている。

 山口の最初の妻は病死する。その後、同高女の同僚教諭だった金沢コウ(須賀川市出身)と再婚する。コウは初婚で3人の子を産んだあと、やはり病死する。

柳田國男門下の高木誠一(平北神谷)、同僚の岩崎敏夫、高木の甥の和田文夫(四倉)らとともに「磐城民俗研究会」を立ち上げた直後の昭和10(1935)年暮れ、山口は、2年前の同8年3月3日に発生した「昭和三陸津波」による集落の移動調査に入った。同15年には磐城高女から岩手県立黒沢尻中学校に転じ、黒沢尻町(現北上市)を拠点に、津波防災などライフワークの東北研究を続ける。

その研究成果は、戦時下の同18年、柳田のアドバイスで一般人向けの本『津波と村』になる。この本は平成23(2011)年の東日本大震災直後、68年ぶりに復刊された。

『妻の日記』で印象深いのは、戦時中、山口が校長と衝突して転任を余儀なくされるくだりだ。「学校長が既に県視学官に内定している折なので、時局の前に屈し、表面は抜擢栄転という形で、研究を中絶させる意味もあり、岩手青年師範の講師兼務を解き、大学の研究嘱託を無給としてしまい、名は県立であるが、片田舎の岩谷堂高女の教頭に、突然左遷の発令をうけてしまった」。コウの怒りが山口の心情を代弁する。

 終戦後、山口は公職を辞して会津に帰農する。やがて会津高女に教諭として復職し、コウの死後十数年、亜細亜大学講師となった同38(1963)年、『妻の日記』を刊行した。

「後記」に、昭和35(1960)年5月24日未明、チリ地震津波が三陸などに襲来したときのことを記している。「被害は意外なところに及んでいるが、私の研究で関与した移動集落は、一つも被害がなかったどころか、退避もしないで、津波を打ちながめていた人さえあった。しかし、新たな問題も出ているので、この研究から手をゆるめるわけにはいかない」

津波防災を生涯にわたって研究した人らしいと思ったのは、去年(2019年)、若い知人がポリタスに「『津波と村』――なぜ人は原地に戻るのか」を寄稿したときだった。山口の没後、遺品の一部であるノートや原稿、写真などの調査研究資料が磐梯町の慧日寺資料館に保管された。なかに、阪神・淡路大震災が起きたときの新聞記事を張り付けたスクラップブックがあったらしい。次のような添え書きを、知人が引用していた。

「神戸海岸・横浜海岸には勿論原子力発電所はない/然し日本の原子力発電所は海岸に分布し海底地震の真正面にある/これは今までのリアス湾頭の災害と全く様態の異なる被害を及ぼすであろう/そのメカニズムを研究した人は未だ世界中に見当らない」

 山口は97歳で亡くなる。その5年前、阪神淡路大震災が起きる。そのとき直感した危惧(きぐ)は16年後の平成23(2011)年3月、現実のものとなる。「次の津波で一人でも多くの人の生命を救いたい」(はじめに)という学者の良心、執念に圧倒されたものだ。

 口絵にはコウの自画像、風景、民家、野良着姿の山口などのスケッチが載る。民家内部の「フンゴミ爐(ろ)」、土間の民具などには、山口が短くコメントした。書全体から、妻の見た夫・山口弥一郎がにじみ出ている。

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