2020年10月29日木曜日

天山文庫の話になって……

                    
 4年前、海の見える久之浜の民家で、川内村の土志工房、志賀敏広・志津さん夫妻が「額の中の小さな宇宙」展と題する展覧会を開いた。

広い庭から太平洋と津波で一変した久之浜の町、阿武隈の山並みが一望できる。庭には敏広さんが作った木のテーブル。青空の下で海を眺め、コーヒーを飲みながら夫妻と歓談した=写真。敏広さんは今年(2020年)2月下旬に亡くなった。彼との語らいは、たぶん4年前のこの久之浜が最後になった。

 敏広さんと私は同年齢だ。川内に移住した陶芸家夫妻がいるという話を聞いて、現田村市常葉町の実家へ行った帰りに立ち寄った。以来四半世紀余り、ゆるゆると付き合いが続いた。生まれたときから知っている娘さんが一人。大学をやめて村に戻り、両親と同じ陶芸の道に入った。

なぜ、久之浜の展覧会のことを思い出したかというと、初めて川内村を訪ねたいわきの若い仲間から、フェイスブック経由でこんなメッセージが入ったからだ。係の人が天山文庫を丁寧に説明してくれた、質問にもよどみなく、納得のいく答えがかえってきた、感動した――。

 県道小野富岡線沿いの小高い丘のふところに、かやぶき屋根の天山文庫が立つ。そのふもと近くには阿武隈民芸館を模様替えした草野心平資料館がある。村はこの二つを「かわうち草野心平記念館」として一括管理している。娘さんは今、陶芸の修業をしながら記念館の管理人をしている。

てっきり彼女が案内したのだろうと思って、若い仲間に返信した。「係の人は20代の女性ではなかったか、友人の娘さんだよ」。すると、「60~70歳くらいの女性でした」。うーん、おかしい。川内で心平についてよどみなく答え、語れる女性といったら、管理人をしている娘さん以外、思い浮かばない。

昔、発足したばかりのいわき地域学會が、『川内村史』の編纂(へんさん)を引き受けたときのこと。江戸時代末期の「俳諧ネットワーク」(村に佐久間喜鳥という俳人がいた。稀代の収集・記録魔で、俳諧資料がたくさん残っていた)と、「心平と川内」のつながりを担当した。その過程で心平の女性秘書にインタビューをし、川内にもたびたび足を運んだ。

心平が天山文庫を夏の別荘に利用していたころの様子は、なんといっても秘書の女性が一番詳しい。その人が幽霊のように現れて説明したのではないか。体型はこう、年齢はこうと、今度はスマホでやりとりしたが、やはり話がかみ合わない。当の本人(管理人)に尋ねたら、その日は所用があって母親(志津さん)が代わりを務めたそうだ。ここでようやく納得!

 志津さんは村の教育委員を務めたこともある。若い仲間によると、外国人も記念館に来ており、一緒に同文庫を訪ねた。英語で対応していたそうだ。

疑問が解けてからは、若い仲間に陶芸家夫妻のこと、娘さんのこと、久之浜での展覧会のことなどを伝える。川内にこういう人たちがいる、それを頭に入れておけば、いつか、なにかでつながるかもしれない、とも。

4年前の久之浜での展覧会は、敏広さんの故郷である浪江町の人たちとの“共同展”という意味合いが濃かった。

 浪江町は原発事故で全町避難を余儀なくされた。敏広さんが昵懇(じっこん)にしていた先生や知り合いもばらばらに避難した。「この5年間を振り返る旅のような展示会をしたい」。そのために敏広さんはそれぞれの避難先を訪ね回ったという。今も同町は帰還困難区域が大半を占める。

 作品展示協力者のなかに知り合いが2人いた。1人は川内村の元教育長氏(村職員時代、『川内村史』の担当者だった)、もう1人は平の飲み屋で一緒だった故谷平芳樹さん(アドプラン取締役・いわき短大講師だった)。敏広さんは心の復興=つながりにこそ力を入れていたのだと、今、あらためて思う。

0 件のコメント: