2020年10月26日月曜日

昭和13年の仕入帳・下

            
 きのう(10月25日)の続き――。昭和13(1938)年の仕入帳の後ろのページには、余白を利用して、当時、20歳か21歳だった義母が、だれかの小説の一節と思われる文章を書き留めている。

 その一部(適宜、読点を入れ、新漢字・仮名遣いに改めた)。「かれ等は人間であるが故に幸福を欲し、生命を欲し、人間の死をかなしみ、或るものをにくみ、或るものを愛しようとしているのである。/かれ等はいつわらぬ人間そのものなのだ。かれらの憎悪、かれ等の愛欲すべて人間的なるが故に、そのままで尊いものでなければならぬ」

 文章の一部を入力してネットで検索したが、それらしいものには出合わなかった。人間論風の小説、あるいは人間論そのものかもしれない。現時点では、筆者はまったく不明というほかない。

 歌謡曲の詞=写真上1=と文語調の詩もあった。こちらはネットで検索したら、すぐわかった。

歌謡曲は佐藤惣之助・詞/古賀政男・曲/藤山一郎・歌の「青い背広で」だった。昭和12(1937)年にレコードが発売され、ヒットした。ネットで歌を聴いた。藤山一郎の美声と明るい歌詞、軽快なメロディーがすんなり胸に入ってくる。義母もこの美声とテンポのよさに引かれたのだろう。

 もう一つは、島崎藤村の詩集『夏草』に収められている詩3編の抜粋だった。図書館から『島崎藤村全集1』(筑摩書房)を借りて来て確かめた。「天の河二首」から最初の「其一 七月六日の夕」を、「月光五首」から一部を書き写し、「二つの泉」は全32行を書き留めた。

「二つの泉」の一部(全集に従った)。「幸(さち)はあつさにつかれはて/渇きかなしむ人にあれ/あゝ樹の蔭の草深く/すめる泉を飲みほして/自然のうちに湧きいづる/清き生命(いのち)を汲ましめよ」

 昭和前期、いわき地方には日刊紙が5紙あった。昭和13年当時の空気を感じたくて、図書館のホームページにある「郷土資料のページ」を開いた。同年はちょうど1月31日が陰暦の元日、翌2月1日が初売りの「二日市」だった。2月1日付(実際には1月31日夕刊)の磐城新聞に、二日市のにぎわいを予想する記事が載った(こちらも漢字を現代表記にした)。

「旧二日の売初めは前景気の比較的鎮静だったに反し、趣向を凝らしたビラが一枚の新聞に十枚も折り込まれて今朝から俄然ピッチが上げられ、きょうの旧元旦は好晴無風、二日市の(略)一大商戦を前に脈々たる活気は商店街の隅々まで遍満している」

 カミサンの実家はどうだったか。仕入れ帳を見たら、これがやはりすごいことになっていた=写真上2。平日は1ケタ台の仕入れ商品が2月1日には2ページ強、51商品にも及んでいた。

同じ新聞紙面には「戦時下における第二回国民精神総動員強調週間は来月十一日の紀元節を卜(ぼく)し、同日より実施される」旨の記事も載る。「戦時下」つまり、前年の昭和12年7月に日中戦争が始まった。時節柄、宣伝は控えめに、静かにと“自粛”していた商店にとって、いやお客にとっても、二日市(初売り)は解放感に満ちた一大イベントになったようだ。

ところで、日中戦争に続く太平洋戦争を前にして、13年5月には国家総動員法が施行される。「精神」だけでなく、「物資」も「人間」も戦争に駆り出される全体主義の時代に突入した。地域新聞もその流れのなかで整理・統合される。

 82年前、義母が仕入帳の余白に藤村の詩などを書き写したのは、ただの文学的なあこがれだけではなかったのではないか。なにか重苦しい空気というか息苦しさがあって、そのはけ口として、ノートの余白に個人の思いを代弁させたのではなかったか。分断、対立、不寛容……。今の世界、そして日本の状況をみていると、なおさらその感を深くする。

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