「マルハラスメント」、略して「マルハラ」という言葉がネットで話題になり、メディアもニュースで取り上げた。
古い世代からみると、文の終わりには句点「。」を付ける。それが文章の作法だと思っていたのだが……。
SNSでメッセージをやり取りする若い世代には、この句点が「冷たい」「威圧的」などと映るらしい。早い話が、句点なしの文章の方がすんなり胸に入る、ということなのだろう。
ローカル記者として、その後はブログ書きとして、句読点にはそれなりに注意を払ってきた。
現役のころも、今もそうだが、新聞の見出しには句点を使わない。広告のキャッチコピーも句点なしが普通だったが、あるときからそれが目に付くようになった。
コピーライターの糸井重里さんの作品に句点があったような……。ネットで検索すると、そのへんの事情がわかった。
「じぶん、新発見。」(1980年)、「不思議、大好き。」(1981年)、「おいしい生活。」(1983年)。
1980年代、糸井さんが西武百貨店のキャッチコピーに使ったのがきっかけで、以後、音楽や漫画、映画、小説、タレント名などに句点が付くようになった。
そうした流れが地方にも広がったのだろう。昭和55(1990)年元日付のいわき民報をチェックすると、すぐ出てきた。「みよし」の全面広告に「真心こめたおいしさを。」のキャッチコピーがあった=写真。
新聞をつくる職場の人間としては、キャッチコピーは記事の見出しのようなものだ。そんな人間からすると、同じ紙面に登場する広告の句点には、新鮮さを覚えながらも違和感をぬぐいきれなかった。
なぜキャッチコピーに句点、あるいは読点「、」を付けるのか。マルハラのニュースに触れたついでに調べてみた。
コピーライターの仕事をしていると思われる人が挙げている例でいうと――。「今日を愛する。」は、語気が強まるような、意思をしっかり感じられるような効果がある。
「自然を、おいしく、楽しく。」は三つに区切ることで、それぞれ三つのキーワードを大事にしていることが感じられる。リズミカルでもある。
では、句読点のデメリットは? 言葉が重くなる、字数が増えるなどで、キャッチコピーコンテストの受賞作品は、一般部門がほとんど句読点ありなのに、中高校生部門は逆にほとんど句読点が入っていなかったそうだ。
コミュニケーションのスピードが速くなっている現代、若い世代にとっては、句読点は足かせのようになっている? つまりは、SNS世代ならではの句点なしということなのだろう。
さて、と思い浮かんだのが草野心平の詩だ。「さむいね。/ああさむいね。/虫がないてるね。/(以下略)」と、行末には句点が付いている。
若い世代は、こういう詩にはどう反応するのだろう。やはり、冷たさや威圧感を抱くのだろうか。
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