2024年2月9日金曜日

「東京ブギウギ」

                      
 菊池清麿著『増補新版 評伝服部良一』(彩流社、2023年)=写真=を読みながら、福島市出身の作曲家古関裕而(1909~89年)のことを思い出していた。

 令和2(2020)年度前半、古関裕而をモデルにした朝ドラ「エール」が放送された。そのとき、こんな文章を書いた。

――古関より一回りほど年長のいわきの人間、たとえば三野混沌(1894年生まれ、以下同じ)、猪狩満直(1898年)、草野心平(1903年)、若松(吉野)せい(1899年)たちは、若いころ、山村暮鳥を中心に文学活動を展開した。雑誌・新聞などの活字メディアが発表の場だった。

これに対して古関たちは、活字メディアだけなく、新しいメディアであるラジオにも影響を受け、表現の可能性を見いだしていったのではないか。

というのは、日本でラジオ放送が始まるのは大正14(1925)年3月だからだ。いわきの群像のなかで一番若い心平でも22歳になっている。影響を受けやすい少年期には、ラジオはなかった。

いわきは文学、福島は音楽。その違いがラジオ放送の有無だったと決めつけるわけではないが、重要な要素になっていたのは確かだろう。

辻田真佐憲著『古関裕而の昭和史 国民を背負った作曲家』(文春新書、2020年)にこうある。

古関が福島商業学校(現福島商業高校)に通っていたころ、「北原白秋や三木露風の詩を好んでいたことに加えて、『楽治雄』というペンネームを使っていた(略)。いうまでもなく、ラジオに影響を受けたものだった」――。

歌手福来スズ子(モデルは笠置シヅ子=1914~85年)を主人公にした朝ドラ「ブギウギ」を見ている。

2月7日には、作曲家羽鳥善一(モデルは服部良一=1907~93年)の脳内に「東京ブギウギ」のメロディーが浮かぶシーンが放送された。

この場面は『評伝服部良一』で読んでいた。同書に、服部の自伝『ぼくの音楽人生』が引用されている。

中央線の電車に人がいっぱい乗っている。服部もつり革を握って、電車の振動に身をゆだねていた。

「レールをきざむ電車の振動が並んだつり革の、ちょっとアフター・ビート的な揺れにかぶさるように八拍のブギのリズムとなって感じられる。ツツ・ツツ・ツツ・ツツ……ソ、ラ、ド、ミ、レドラ……」

浮かんだメロディーを忘れないうちにメモしようと、羽鳥(服部)は駅を降りると目の前の喫茶店に飛び込み、紙ナプキンをもらって音符を書き込む。

そして、翌8日の「ブギウギ」では米兵を招いてのレコーディングシーンが描かれた。米兵の反応を見て、羽鳥たちは「東京ブギウギ」が大衆に受け入れられることを確信する。

 服部良一は古関裕而と同世代だ。6歳のころ、教会の日曜学校で讃美歌に触れ、西洋音楽に目覚めた。さらに、生まれ育った大阪、なかでも道頓堀はジャズの中心地だった。

そんな環境と新しいメディアが、やはり服部を音楽の道へと歩ませたのではないか、そんな気がしてならない。

0 件のコメント: