2024年9月17日火曜日

アイスフルーツ

                     
   9月も中旬となれば、さすがに日が短くなってきた。12日の夕方、内郷からの帰り、用心のために車のスモールライトをつけた。

スモールライトとカーナビは連動している。まだ外は明るい。とはいえ、5時を過ぎて車内が薄暗くなってきた。スモールライトをつけると、ナビが夜間用に切り替わり、見やすくなった。

気温はどうだ。秋らしさを感じたのは8月21日から何日かだけだった。9月に入ったから秋になるはずと、期待はしたのだが……。

秋になるどころか、夏が続いている。9月12日は、最高気温が山田町で32・6度、小名浜で31・0度だった。

この日午後、平で会議があって出かけた。家にいるよりは1枚多く羽織った。エアコンが効いている屋内はともかく、そこへたどり着くまでがきつかった。

翌13日も酷暑。それが一服した14日の翌15日も耐えがたい暑さになった。山田では最高気温が34・5度、小名浜でも31・5度まで上がった。そして、夕方の雷雨。カミサンが急いで2階の窓と戸を閉めた。

16日は一転、起きると東からの風に霧雨がまじり、Tシャツ一枚ではひんやりした一日になった。

前にこんなことを書いた。扇風機だけの「昭和の家」では、暑さから身を守る工夫が必要だ。

冷蔵庫で冷やした水を飲む。ときには、それに梅干しを入れてすっぱいジュースにする。昼はご飯に水を注ぎ、氷のかけらを載せた「水飯」にしたり、そうめんにしたりする。

それでもすぐ汗がにじむので、晩ごはんのあとにはデザートとして「ガリガリ君」を食べる。

それだけではない。種なしブドウも凍らせた=写真。夏井川渓谷にあるブドウ園で教わった食べ方だ。これも、前にブログに書いた。

――ある年の秋、ブドウ園で種なしの「フジミノリ」と「ハニーシードレス」の詰め合わせを買った。

生産者ならではの食べ方を教わった。「フジミノリ」は最後に採ったものを冷凍しておき、正月に食べるのだという。

幼い子どもにはアイスキャンデーの代わりになる。食べる前に少し置いておくと皮も簡単にむける。「冷凍ブドウ」とは味なことをする。

あらかた生で食べたあと、何個かをもいで冷蔵庫の冷凍室に入れた。凍ったころを見計らって取り出す。カチンカチンになっている。

少し間をおいて食べると簡単に皮がむけ、甘い果肉がシャーベット状にほぐれた。長期間冷凍室に入れておくと、もっとシャリシャリするのだろうか。

「冷凍ブドウ」の連想で、冷蔵庫にあったミニトマトを凍らせてみた。味はトマトだから癖があるが、舌触りはやはりシャーベット状で好ましかった。聞きかじりであれ何であれ、食べ方を工夫するのは創造的で面白い――。

冷凍ブドウ、あるいは冷凍干し柿は正月の「ごちそう」でもある。晩秋の干し柿はともかく、店頭に並び始めたブドウは、「暑い秋」の今こそ冷凍して味わいたい、アイスフルーツでもある。

2024年9月14日土曜日

ふとんが濡れた

                     
   なにもなければ日中はパソコンを開いて文章(ブログ)を打ち込むか、検索をして過ごす。むろん、合間に本を読んだり、別の用事をすませたり、昼寝をしたりする。

メールもパソコンを開けるたびにチェックする。届くのはいわき市の防災メールが多い。だいたいは福島地方気象台の発表を踏まえたものだ。

この夏はほぼ毎日、明け方に「雷注意報(発表)」、夜更けに「雷注意報(解除)」が入った。暦の上では秋だが、今もこの流れは変わらない。「長い夏」が続いている

実際の天気は、晴れれば昼前から入道雲がわき、午後になって雷雲が近づく。土砂降りになるときもあれば、雷が弱く響くだけのときもある。

9月12日の午後は、市役所で2時間ほど会議があった。終わって窓の外をながめると、地面が濡れている。気づかぬうちににわか雨が来て、やんだようだった。

家に帰ると、道路はおろか庭も濡れていない。夕方、別の用事で内郷へ行ったが、そちらは路面のあちこちに水たまりができていた。

もしかしたら平は夏井川と鎌田山をはさんで、西の市街(それも一部)で雨が降り、東の神谷・草野方面は遠雷だけのようだった。ピンポイントの降水だったのかもしれない。

翌13日も前日と似たような天気だった。朝から暑かった。いつものようにパソコンを開けると、朝6時過ぎには「雷注意報(発表)」のメールが入っていた。前日の雷注意報は夜10時過ぎには解除されていた。

猛暑が予想されたので、起きるとすぐ茶の間と玄関の戸を開けた。カミサンは少し遅れて2階の窓とベランダの戸を開けた。自分のふとんもベランダに干した。

午後になると雲行きがおかしくなる。2時半ごろ、いきなり茶の間の縁側の屋根が音を立て始めた。すぐ土砂降りになった。

急いで2階の窓と戸、1階の寝室の窓を閉める。雨は西からたたきつけるように降っている。西側の窓枠はたちまち雨でぬれた。

それから茶の間に戻り、ガラス戸を閉める。雨が降っているのに茶の間を開け放しておくと、湿気が入り込む。プリンターの用紙がしける。印刷したら字がにじんだ、なんてことになったら困る。

いつまで降り続けるのか。窓を閉め終わったあとは、ネットで雨雲の動き=写真(気象庁)=と1時間ごとの天気をチェックした。

カミサンは雨音を聞いて、道路の向かいにある故伯父の家に向かった。そちらの窓を閉め終わると、戻って来て茶の間の戸を開けた。

戸を閉めるとすぐ部屋に熱がこもる。私には湿気が問題だが、カミサンには部屋の暑さがこたえるらしい。

そのうち、チラッと2階を見上げたあと、横目で「ふとんは、取り込んだ?」という。

ふとん? いつものように急いで窓と戸を閉めた。ベランダにふとんが干してあるなんてことは考えもしかった。

カミサンが急いで駆け上がり、ベランダからふとんを取り込んだが……。土砂降りの時間が長かったようで、びしょびしょだったという。これは大失態だった。

2024年9月13日金曜日

ハグルマトモエちゃん

                    
 夜も寝るまで茶の間のガラス戸を開けている。蚊取り線香は朝から絶やさない。扇風機もかけっぱなしだ。

 庭の一部と勘違いして、昼はアゲハチョウやハナアブ、夜はセミやコガネムシなどが茶の間に飛び込んで来る。

 近年は夜、アオマツムシが家の中に入って来て、「ギーギーギー」とうるさく鳴き交わすようになった。

 自分のブログをチェックすると、平成20(2008)年9月に初めてアオマツムシについて触れ、同22年にはわが家の庭にも現れ、樹上でうるさく鳴き交わすようになった、ことを書いている。

秋を告げる庭の虫といえばコオロギだったが、いつの間にかわが家ではこのアオマツムシがとって代わるようになった。

国道の街路樹で夜、「ギーギーギー」と鳴き騒いでいる新参者――アオマツムシは最初、そんなイメージだった。

そこから沿道の民家へと生息範囲を広げていったのか、平成22年9月1日に初めて茶の間に飛び込んできた。次の夜も現れた。これが始まりだった。

 以来、今年(2024年)で14年。去年と同様、今年も記録的な猛暑が続く。室温は、昼は真夏日(ときに猛暑日)、夜は熱帯夜。9月に入っても「暑い夏」は終わらない。

 夜、茶の間から寝室に移ると、アオマツムシも同じように移動して、天井や壁に張りついて鳴き続ける。この音で目が覚めることもある。

 「飛んで火にいる夏の虫」。今は電灯だから、ろうそくの火に飛び込んで焼け死ぬなんてことはない。代わりに、いろんな虫が電灯にぶつかる。

 先日の夜は、見たこともない蛾がやって来た=写真。色は全体に樹肌色だが、翅を広げたときの模様がおもしろい。クジャクチョウみたいに目玉が付いている。

 「蛾/目玉」をキーワードに検索すると、ハグルマトモエのメスらしいことがわかった。専門サイトに当たると、ヤガ科の蛾で、本州・四国・九州に分布する。幼虫の食草はネムノキだという。

メスは前翅に「巴(ともえ)」のような形をした眼状紋がある。仲間にオスグロトモエがいる。そのメスに酷似するというので、ネットの画像と自分で撮った写真を比較する。いよいよハグルマトモエらしいという確信が強まる。

前翅の眼状紋と、目玉の間の紋様を組み合わせると、「ギョロ目のだるま」に見えなくもない。

蛾があらわれたとき、びっくりして体をよけたカミサンに和名を教えると、「かわいい名前だね」。なんだそうか、「ハグルマトモエちゃん」だな、これは。

あえて漢字を当てると、「歯車巴」になるらしい。それでは味気ない。「歯車」ではなく、せめて「葉車」でなくちゃ――などとチャチャを入れたくなるのは、やはりギョロ目が強烈だからだ。アオマツムシにうんざりしていた身には、またとない気分転換になった。

2024年9月12日木曜日

青パパイヤが届く

                     
   パパイヤは南国のフルーツ。オレンジ色に完熟した、やわらかい果肉の高級品――今もそのイメージは変わらない。それとは別に、未熟なうちに食べる青パパイヤがある。この青パパイヤが最近、わが家でもなじみの食材になりつつある。

 3年前の秋、学校の後輩から青いパパイヤをもらった。これが始まりだった。後輩の家の前にハウスがある。そこで初めて栽培したのだという。

 家を訪ねた折、ハウスに案内された。黄色みがかった白い花と青い実を付けたパパイヤがあった。

東南アジアや沖縄ではパパイヤの未熟果を野菜として利用する。いわゆる青パパイヤだ。それを二つもらった。

「皮をむく、切る、水にさらす。それからサラダにして食べる」。後輩がユーチューブで学んだ食べ方だという。

さっそくネットでレシピをおさらいし、カミサンに伝える。実の内部は白い。それを細かく刻んで水にさらしたあと、ドレッシングサラダにした。初食感は「硬い」だった。

どうしたら硬さがほぐれるか。ネットであれこれ探ると、炒め物、煮物、せんぎりのてんぷら、きんぴらがいい、とあった。つまりは、もっと薄く切る、細くする、加熱するということらしい。

後輩はハウスから露地に切り替えて栽培を続けている。その露地モノが今年(2024年)も届いた=写真。

ドレッシングサラダ、つまり生では硬い――。その記憶があったので、せんぎりを炒めてもらった。

念のために自分のブログで食べ方を確かめる。青パパイヤを縦に二つに割って未熟な白い種を取り除き、ピーラーで皮をむく。

 さっそく炒め物が晩ごはんのおかずになって出てきた。やわらかく、さっぱりした食感がごはんにあった。

 二つに割った半分は、さらに四つ切りにして皮をむき、糠床に入れた。これも以前のブログを参考にした。

去年は糠漬けのほかに浅漬けも試した。それからまず紹介する。朝、薄く細く切ったものを塩でもみ、そのまま小さな容器に入れて軽く重しをのせた。昼に味を確かめたら、まだ半漬かりだった。

夕方まで漬けておくと、少しはしんなりしたが、大根のようにはならない。ずいぶん稠密(ちゅうみつ)なことがわかった。

で、糠漬けはというと――。一番小さい青パパイヤを下ごしらえに従って縦に四つに割り、皮をむいて糠床に差し込んだ。

12時間後に取り出すと、まだ全体に硬い。さらに12時間、つまり1日後、再び取り出したが、先端部が少しやわらかくなっただけだった。

やわらかくなった部分をカットし、薄切りにして試食する。硬い。浸透圧がよく働かないのか、外側はかなりしょっぱい。

と、ここまでが去年の糠漬けの話。「よし、これからだ、あれこれ考えるのは」。去年よりはましなものができたような気がするが、しょっぱいのには変わりがない。

ならばいっそ古漬けにして、食べるときに刻んで水につけ、塩出しをするか、などと開き直ってみるのだが……。青パパイヤはやはり手ごわい。

2024年9月11日水曜日

吉野せいは生誕125年

                               
   いわき駅前の総合図書館では、令和6(2024)年度前期常設展「生誕140年 三猿文庫の中の暮鳥と夢二」のほかに、前期企画展「吉野せい入門」が開かれている=写真(解説資料の表紙)。

 なぜ今、吉野せい?と思ったら、今年が生誕125年、そして彼女の作品集『洟をたらした神』出版50年の節目の年だという。

なるほど。そういう理由から、あらためて吉野せいを知ってもらおうと、企画が練られたわけだ。市立草野心平記念文学館が共催している。

三猿文庫と山村暮鳥・竹久夢二については、月曜日(9月9日)に拙ブログを再構成して紹介した。

吉野せいについてもたびたびブログで取り上げている。常設展と同じように、企画展に合わせてブログを再構成して紹介する。

まずは生涯――。吉野せいは明治32(1899)年、小名浜の網元の家に生まれた。尋常小学校高等科を卒業すると就職し、独学で小学校教員の検定試験に備える。

試験に合格したせいは、現勿来二小や母校の小名浜一小で教師として働く。そのころから文学に興味を持ち、平に赴任した暮鳥らの雑誌や新聞に短歌などを投稿するようになる。

大正10(1921)年、せいはのちに暮鳥の盟友となる詩人三野混沌(吉野義也)と結婚し、好間の菊竹山で果樹農家として開墾生活に入った。

詩を書き、人のために奔走する夫に代わって、せいは生業と家事、子育てに明け暮れた。

夫の死後、半世紀の間封印していた文筆活動を再開し、昭和49(1974)年、作品集『洟をたらした神』を出す。

同書は翌年、田村俊子賞と大宅壮一ノンフィクション賞を受賞する。世間は「百姓バッパ」の壮挙にわいた。

さらに同書は劇化され、いわきでの2回目の公演益金を基に、同53年、新人のすぐれた作品を顕彰する吉野せい賞が創設された。

企画展ではほかに、草野心平との交流、大宅壮一ノンフィクション賞や市政功労表象式などを伝えるいわき民報の記事などが展示されている。

同紙との関係でいうと、せいは昭和45年11月16日から47年11月6日まで、「菊竹山記」と題して、断続的にエッセーを連載した。

このなかには夫・混沌や、夭折した娘・梨花に触れたものなど、せいの作品の原型といえるものもあると、解説資料で紹介されている。

せいは『洟をたらした神』のあとにも、作品集『道』を刊行した。「白頭物語」はせいの幼少期、タイトルと同じ「道」は青春期に通じる作品といえる。

その後の結婚~子育て~夫の死と老いをあつかった『洟をたらした神』と合わせると、せいは自分の生涯を作品として振り返ったことになる。

解説資料にある吉野せいゆかりの地図も参考になる。せいは菊竹山のふもとの龍雲寺に眠る。

次女の梨花は急性肺炎のために、わずか9カ月余でこの世を去った。そのとき、夫の生家がある平窪の菩提寺へと葬列が向かうのを、せいは見送っている。今は夫だけでなく、梨花も一緒だ。

2024年9月10日火曜日

市議選雑感

                      
   いわき市議選は、いつになく新人の立候補が多かった。それもあって、告示から投・開票までの1週間、何度もいわき民報の候補者経歴をながめ、朝刊折り込みの選挙公報を読み返した。

 告示当日の9月1日は日曜日で、いつもよりは少し遅く、朝9時半過ぎに夏井川渓谷の隠居へ出かけた。

 30分ほどの道のりだが、沿道のポスター掲示板にはまだ1~2枚しか張られていなかった。

 帰りは草野心平記念文学館へ寄った。車で移動したのは正午前と午後1時前後で、そのころはあちこちの掲示板で運動員がポスターを張っていた。

 最寄りの掲示板は、投票所でもある小学校の前に設けられた。告示日当日、隠居からの帰りに見ると、カラフルなポスターで一気に花が咲いたようだった。

 8日・日曜日は朝7時前、小学校の体育館へ投票に出かけた。そのとき、掲示板をパチリとやった=写真。

よく見たら、2人のポスターが欠けている。告示日当日、この掲示板を見たときのメモに、「ポスターは残り1人か2人?」とあった。

広域都市いわきでは、掲示板にポスターを張るにも組織力が要る。「張り残し」があると、有権者はあれこれ推測する。

最寄りの掲示板からざっと2キロ離れた掲示板にはちゃんと張ってあったから、「張り残し」ではなく「張り忘れ」だったか。

早朝に投票所へ出かけたのは、実は投票一番乗りを目指したからだ。投票は7時に始まる。それに合わせてセレモニーが行われる。

投票管理者がスタッフに投票開始を宣言し、一番乗りの有権者を招き入れて投票箱がカラであることを確かめてもらう。

投票箱をのぞきたかったのだが、すでに散歩を兼ねてやって来たというおばさんが私らの前にいた。

それともう一つ、だれが投票管理者と立会人になっているかを知りたかった。前は市役所OBが管理者、立会人2人のうち1人が区長だった。

この「分担」が崩れ、最近は管理者も区長に振ってくる。今回も管理者と立会人の1人が区長だった。

夜7時に投票が締め切られると、管理者は立会人と2人で総合体育館へタクシーで投票箱を搬送し、同じタクシーで投票所近くの駐車場まで戻り、自分の車で帰る。

私は、3年前のいわき市長選では投票立会人になった。去年の福島県議選では投票管理者を仰せつかった。

 さて、今回は定数37人に対し、現職33人、元職1人、新人13人の47人が立候補した。結果は現職3人と新人7人が落選した。

 投票率は右肩下がりが止まらない。私が記者になって間もない昭和47(1972)年は、投票率が85・98%だった(市議選はほぼ旧市町村単位の小選挙区制だった)。

 それが震災後の平成24(2012)年には50・05%まで下がり、以後、40%台が続いて、今回はぎりぎり41.28%まで落ちた。

それはともかく、新人のトップ当選には驚いた。旧町村部はまとまれば強い――その典型のような結果だった。

2024年9月9日月曜日

生誕140年の暮鳥と夢二

            
 いわき駅前の総合図書館で、令和6(2024)年度前期常設展「生誕140年記念 三猿文庫の中の山村暮鳥と竹久夢二」が開かれている=写真(解説資料の表紙)。

 暮鳥と夢二はともに明治17(1884)年生まれで、今年生誕140年の節目を迎えた。2人の間に交流があったかどうかはわからない。が、それぞれがいわきに足跡を残している。

 拙ブログでも何度か取り上げているので、企画展の内容に沿ったかたちでそれを再構成してみる。

 まずは三猿文庫から。いわきが誇る私設図書館で、昭和9(1920)年、大学を卒業して帰平し、家業に就いた諸橋元三郎が私財を投じて開設した。

夫妻と長男(いわき商工会議所会頭)の3人が不慮の死を遂げたあと、遺族から3万点余に上る文庫の資料がいわき市に寄託された。

草野心平記念文学館で資料の整理、目録作成が行われ、同文学館で「三猿文庫――諸橋元三郎と文庫の歩み」展が開かれた。

このあと、資料は市立図書館に所管替えとなり、ラトブに総合図書館がオープンすると、いわき資料フロアの一角に「三猿文庫」コーナーが設けられた。

暮鳥は大正元(1912)年9月、日本聖公会の牧師として平講義所にやって来た。いわきでは「文学の伝道師」という意味合いが濃い。暮鳥のまいた詩の種がやがて芽生え、育ち、開花した。

そこから三野混沌、猪狩満直、草野心平、そして作家の吉野せいらが育った。今につながるいわきの近代詩史はこの暮鳥から始まる。

 そして、夢二。福島県とはゆかりが深い。18歳で早稲田実業学校に入学したとき、同級生に3歳年下の助川啓四郎(現田村市船引町出身、のちの代議士)がいた。

 彼のネットワークに支えられて、福島・郡山・会津若松・三春などの地に知りあいができた。

夢二は大正10(1921)年の8月中旬~11月下旬、県内を主にみちのくに滞在した。その折、いわきの湯本温泉を訪れて山形屋旅館に一泊している。

それに先立つ明治40(1907)年、夢二は読売新聞に入社し、「涼しき土地」の取材で初めてみちのく入りをした。

松島からの帰途、夢二は浜通りを南下する。久之浜で汽車を下り、人力車で四倉へ行き、再び汽車を利用して湯本温泉の松柏館に一泊した。

市立美術館で竹久夢二展が開かれた際、山形屋旅館にあてた書状が展示された。夢二は旅館特製の黄八丈の丹前が気に入り、後日それを譲り受けた。それへの礼状だった。

黄八丈の和服姿の女性が黒猫を抱いている「黒船屋」は、大正8年に制作された。夢二の代表作の一つだ。夢二の黄八丈好みが、山形屋の話からもうかがえる。

総合図書館の企画展では、三猿文庫の所蔵資料の中から、出版当時の2人の作品を展示している。

同展の狙いは、いうならば「地域の文化遺産」でもある三猿文庫を再認識してもらうことにある。

私などは絶えず、デジタル化された地域新聞(三猿文庫蔵)の世話になっているので、そのありがたさを痛感している。

2024年9月7日土曜日

親知らずを抜歯へ

                      
 何年かぶりで若いときから世話になっている歯科医院へ足を運んだ。虫歯が2本あるのと、福島県後期高齢者医療広域連合から、75歳と80歳を対象にした歯科口腔健診(無料)の案内が届いたからだ。

 健診の内容はチラシに書かれていた=写真。虫歯や歯周病の有無だけでなく、口腔の機能も含めたさまざまな検査を実施するという。

 検査の内容は①歯・歯ぐき②入れ歯(義歯)③舌や唇④かむ力⑤飲み込む力⑥かみ合わせ――の6項目のようだ。

歯周病と誤えん性肺炎や糖尿病などとの関連が図解されていて、思わずうなってしまった。

それはともかく、虫歯の治療をするのはいつ以来だろう。自分のブログをチェックしたら、震災前の平成21(2009)年春と翌年秋に歯科医院の世話になっている。

平成21年には1カ月ほど右上の親知らずを治療して、温存することにした。ところが翌年秋、同級生と台湾へ旅行する段になって痛みが急にきた。「歯周病の急性発作」という診断だった。

そのときはかみ合わせをうまくできるようにしてもらったが、台湾から帰国後、歯がぐらつき始めた。

電話をしてすぐ駆けつけると、大先生が歯の状態をみた。「これはだめだ」となって、歯ぐきに麻酔薬を注入した。

「痛かったら、言ってください」と言って、グイッとやる。痛くはなかった。舌で探るとポッカリ穴があいていた。

それから14年がたつ。今度は右下の親知らずが虫歯になった。歯ぐきに近いところに違和感があったので、舌でまさぐっていたら、穴があいているのに気づいた。同じ歯の上の方にも穴があいている。

 右上の犬歯にも内側に穴があいた。痛みを感じるわけではないが、放ってはおけない。

 7月下旬、心臓由来の血栓による脳梗塞と、抗凝固薬(血液サラサラの薬)の長期服用による出血を予防するための手術を受けた。

この治療がひと段落したら、若いときから通っている歯科医院に連絡して、検査と治療を受けることにした。

 循環器の方はまだ病院での診療が続く。「あとはかかりつけ医院でいいですよ」というレベルにはなっていない。

 その間も虫歯の穴が広がっているようなので、手術後1カ月を過ぎた時点で、歯科医院に連絡を取った。すぐ診てくれた。

虫歯の方は、判断が分かれた。犬歯は残し、親知らずは抜くことになった。主な健診は次回に行われる。

右上の親知らずはすでにない。右下の親知らずはそれで咬合ができないため、歯ぐきから浮き出ているのだという。そのうえ穴があいてボロボロになった。

15年前、右上の親知らずをひとまず温存すると決まったとき、大先生にいわれたことを思い出す。「この年になって32本残っているのは珍しい」

老衰が歯にも及んで次々に穴があくのではないか、総入れ歯になるのではないか――このごろは、そんな妄想がふくらむ。

2024年9月6日金曜日

3種類の新紙幣と対面

                                  
   1万円札は福沢諭吉から渋沢栄一へ、5千円札は樋口一葉から津田梅子へ、千円札は野口英世から北里柴三郎へ。

新紙幣が発行されてからほぼ2カ月。先日、やっと3種類の新紙幣とそろって対面した=写真。

渋沢は、いわきの実業家で政治家の白井遠平とは炭鉱開発などで協力し合う関係にあった。

北里の一番弟子は、いわき出身で「台湾医学衛生の父」といわれた高木友枝。猪苗代出身の野口も北里の弟子で、弟子から恩師へのバトンタッチとして新千円札を取り上げるメディアもあった。

というわけで、今回はいわきでも新紙幣への興味・関心が高まっているようだ。私もブログで何度か取り上げた。

白井が亡くなったのは昭和2(1927)年10月9日。地元の磐城新聞は11日付(当時は前日、つまり10日に夕刊として配達)で第一報を載せた。

12日付で続報、13日付で黒ワク(死亡広告)が載ったあと、15日付では通常2ページを4ページに増やし、紙面そのものに黒ワクを施して、まるまる白井の特集記事を組んだ。

3面には、「白井さんがなくなりましたか」という見出しで渋沢の追悼文が載る。いわきに炭鉱を興そうというとき、渋沢は地元のだれに相談したものか考える。

そのとき「人望もあり、才幹もあり、地位も県会の常置委員と云う地方最高の人であった翁を得たならば、成功期してまつべしと思い」、湯本温泉の旅館で白井に会ったのが最初だった。

さらに、白井の人柄、話術などをほめながら、鉄道敷設にまい進し、「常磐線の開通をみたのは皆白井さんの賜物だと思います」と回顧している。

5年前、新紙幣が発表になったとき、いわき民報が渋沢といわきの関係についてこう伝えた。

「スパリゾートハアインズを運営する常磐興産の前身・常磐炭礦は、明治17(1884)年に設立された『磐城炭礦社』が源流となっている。燃料調達の重要性から、渋沢は発起人の一人に名を連ね、会長に就任した」

 さて――と、ここからは文学にからむ話。白井は詩人草野心平の実祖父である。新紙幣が発行されたのを機に、いわき市立草野心平記念文学館で特別スポット展示「渋沢栄一といわき――草野心平の実祖父・白井遠平との関わりから」が始まった(10月27日まで)。

 こちらは入り口を入ってすぐのロビーが会場なので観覧は無料だ。草野心平の縁戚で白井遠平の玄孫(やしゃご)の関内幸介さん(平)が資料などを提供したという。明治から昭和初期までに出版された渋沢と白井に関する貴重な書籍などが展示されている。

草野心平記念文学館という場所柄か、あらためて強く思ったのは、心平、あるいは心平の兄・民平、弟・天平と、名前に「平」が付くことだ。その淵源は遠平だったか。

かたや祖父、かたや孫たち。草野3兄弟の命名者がだれかはわからないが、白井遠平と3人をセットで考えても問題はないだろう。

2024年9月5日木曜日

サザエさん

                                
 「サザエさん」を知ったのはいつだろう。生まれ育った阿武隈高地の家では県紙を取っていた。なにかの折に朝日新聞で4コマ漫画を見たのが最初だったか。

 しかし、パッと思い浮かぶのは漫画の顔よりも、サザエさんを演じた歌手江利チエミだ。おっちょこちょいな性格がよく出ていた。

サザエさんは映画化もされたというが、記憶にはない。おそらくテレビが家庭に入り込んだ初期、ドラマを見て、主演の江利チエミ=サザエさんのイメージが定着したのだろう。私が10代後半のころだ。

 東京の読書推進運動協議会から会報「読書推進運動」が届く。最新号(2024年8月15日付)で、朝日新聞出版AERA編集部の「サザエさん」担当が、同編集部編『「サザエさん」の昭和図鑑』(2024年)を紹介している。

 タイトルは、<漫画『サザエさん』が持つ「普遍性」と「時代性」>で、<「敬老の日読書のすすめ」によせて>という副題がついていた。

 新聞連載の『サザエさん』から202本を選び、各漫画に描かれた当時の衣食住や社会情勢を、白黒写真とともに解説したものだという。

 ちょうどそれに合わせて、カミサンが『サザエさん』の文庫本を持って来た=写真。主婦同士のリサイクルの中でわが家に届いたものだという。

 これもなにかの縁だ。サザエさんの面白さを確かめてみよう――というわけで、漫画を読み続けている。

 図書館には『昭和図鑑』のほか、現在も朝日新聞beで連載中の「サザエさんをさがして」の単行本2冊がある。それらも借りて読んだ。

直近の8月31日付朝日beは、カツオがリンゴを丸かじりしようとした瞬間、サザエさんがそれを取り上げる。カツオは怒りを爆発させて家族に文句を言う。

サザエさんはそれに対して、リンゴの皮には農薬がついているかもしれないから、と得意になっていう。カツオはそれを聞いてシュンとする。

見出しは「奇跡のリンゴ」で、その後、時代の流れとして完全無農薬栽培を実現した青森県のリンゴ農家を紹介している。

『さがして』のトップは1967(昭和42)年1月24日付「カラーテレビ」だ。1964年の東京オリンピックを機に、テレビがだんだん白黒からカラーに切り替わる。

母親のフネとサザエさんがこたつに入って、男性2人が対談中の白黒テレビを見ている。フネが「家庭における父親の座」とつぶやけば、サザエさんが「ますますさがる一方」と応じる。

すると、そこへ現れた父親の波平がなにを勘違いしたのか、「まだまださがるぞ‼じきを待て」と2人にいう。

あっけにとられた2人は顔を見合わせる。「さがるものてば、カラーテレビだと思ってる」「不べんきょうだワ」

下がる一方の父親の権威と、量産化で間もなく安くなるカラーテレビを引っかけたユーモアこそ、サザエさんの真骨頂であり、庶民の昭和史そのものだった、ともいえる。ユーモアのもとは早とちり、勘違い、おせっかい。なんとゆるやかな時代だったか。

2024年9月4日水曜日

古関裕而展

                                
   昭和の歌謡史を彩る福島市出身の作曲家古関裕而(1909~89年)と、妻の金子(1912~80年)をモデルにした朝ドラ「エール」が放送されたとき、何回かブログを書いた。そのうちのひとつ、令和2(2020)年7月2日付を抜粋・再掲する。

――朝ドラと前後して、古関裕而の評伝を読んだ。刑部芳則『古関裕而 流行作曲家と激動の昭和史』(中公新書、2019年)、辻田真佐憲『古関裕而の昭和史 国民を背負った作曲家』(文春新書、2020年)で、ともに昭和史のなかで古関の人生と作品を論じている。

明治42年に生まれた古関の少年~青年期を、大正~昭和初期のメディア環境のなかでとらえてみたい。そう思っていた私には、大いに参考になった。

古関より一回りほど年長のいわきの人間、たとえば三野混沌(1894年生まれ、以下同じ)、猪狩満直(1898年)、草野心平(1903年)、若松(吉野)せい(1899年)たちは、若いころ、山村暮鳥を中心に文学活動を展開した。同人雑誌・地域新聞などの活字メディアが発表の場だった。

これに対して古関たちは、活字メディアだけなく、新しいメディアであるラジオにも影響を受け、表現の可能性を見いだしていったのではないか。

というのは、日本でラジオ放送が始まるのは大正14(1925)年3月だからだ。いわきの群像のなかで一番若い心平でも22歳になっている。影響を受けやすい少年期には、ラジオはなかった。

いわきは文学、福島は音楽。その違いがラジオ放送の有無だったと決めつけるわけではないが、重要な要素になっていたのは確かだろう。

辻田本にこうある。古関が福島商業学校(現福島商業高校)に通っていたころ、「北原白秋や三木露風の詩を好んでいたことに加えて、『楽治雄』というペンネームを使っていた(略)。いうまでもなく、ラジオに影響を受けたものだった」――。

 いわき市立草野心平記念文学館で9月23日まで、「古関裕而展――裕而と金子の往復書簡」が開かれている=写真(チラシ)。

日曜日(9月1日)に遅まきながら企画展を見てきた。心平とは、彼が県内小中学校の校歌や「猪苗代国体讃歌」の作詞を手がけたときに交流があったという。

古関は西條八十らともつながっていて、久之浜一小の校歌は同校出身の歌手霧島昇を介して、西條が作詞を、古関が作曲を担当した。

私が物心づいたころはやった流行歌に「高原列車は行く」がある。作曲はもちろん古関、作詞は小野町出身の丘灯至夫で、カラオケでなにか1曲をといわれたときには、よくこの歌をうたった。

四倉にあった磐城セメント(現・住友大阪セメント)の社歌も、西條が作詞し、古関が作曲したそうだ。

 そのとき、そのときで人とつながり、土地とつながる。そういう縁の重なりのなかでいわきにも「古関メロディー」が根付いた、ということなのだろう。

2024年9月3日火曜日

ガリガリ君

                  
 「深部体温」という言葉を知ったのは、3年前の東京オリンピック男子マラソンのときだったか。

 札幌でも高温多湿の苛酷なレースになった。日本選手の服部勇馬が73位でゴールしたあと、車いすで運ばれた。

「深部体温が40度以上に上昇した熱中症の重い症状だった」そうだ。このとき初めて、内臓=深部の体温に思いが至った。

 それから2日後の朝ドラ「おかえりモネ」が偶然、深部体温を取り上げていた。車いすの女子マラソン選手が世界的な大会の選考会で、暑さに負けて代表を逃す。

そこで、気象キャスターを加えたチームがこの選手のサポートをすることになった。医師も加わって選手の弱点を探る。暑さに弱い体質、つまり深部体温が上昇して力が落ちることがわかった。

 ドラマでは、医師が食べたアイスクリームが車いす女子マラソン選手の弱点克服のヒントになる。

サポートチームは、細かく砕いた氷を飲み続けることで、女子選手の深部体温の上昇を抑えることを思いつく。

選手の注文に応じてさらに氷を細かくする、といったことが行われた結果、彼女は強化指定選手に選ばれた。

それを思い出したわけではないが……。この夏もまた危険な暑さが続いて、屋内にいても熱中症にかかる人が相次いだ。

エアコンはかけっぱなしにする――というアナウンスがあっても、扇風機だけの「昭和の家」では、手に汗をにじませながらパソコンのキーボードを打ち続けるしかない。

合間に冷蔵庫で冷やした水を飲む。ときには、それに梅干しを入れてすっぱいジュースにする。昼はご飯に水を注ぎ、氷のかけらを載せた「水飯」にしたり、そうめんにしたりする。

それでもすぐ汗がにじむので、晩ごはんのあとにはデザートとして「ガリガリ君」を食べるようになった。

ガリガリ君はいろんなタイプがあるらしい。なかでもよく食べたのがソーダ味で、板状になっている。その板の幅が狭いものもある=写真。こちらはすぐなくなるので、食べる分には物足りない。

歯を当てるとすんなりかけて、すぐ冷涼感が口内に広がる。現代の商品なのに、かき氷に近い食感が子どものころ、山里で食べたアイスキャンデーを連想させる。その意味では懐かしささえ感じる味だ。

深部体温は、それでどのくらい下がるかはわからない。が、気持ちだけはいっとき内側からすっきりする。

でも、一方ではこんな心配もよぎる。毎日食べていたら血糖値が上がらないか? ネットで調べると、医師が自分を被験者にしたデータが載っていた。

正常値は空腹時で60~110、食後で101~140とある。アイスキャンデーなどの氷菓は糖分を多く含むため、通常より血糖値を上昇させる可能性があるという。

糖尿病予備軍は程ほどに、いや氷菓は控えた方がいい、ということなのだろうか。だとしても、この暑さだ。深部体温を下げるにはやはり……、となってしまう。

2024年9月2日月曜日

異常な降水量

         
 台風10号が9月1日、熱帯低気圧に変わった。が、東海道沖から北西に左折して、本州を横断する動きを見せている。

台風から離れているいわき地方だが、前線の影響で一時、激しい雨に見舞われた。さいわい大きな被害はなかったものの、まだ予断は許さない。

 今回も「仕事」絡みでやきもきした。月3回ある回覧資料配布が9月1日にある。その日は日曜日で8月31日は土曜日。つまり、役所的には連休なので8月30日が配布の日になる。

役所の都合に合わせていたら、こちらの予定が立たない。自分のペースに合わせて、天気を見ながら配布日を決める。というわけで、今回は雨の合間をぬって31日夕方に配った。

 金曜日(8月30日)は夜来の雨が朝も途切れることなく降り続いた。この日が一番心配だった。

気象庁が観測した同日朝6時10分までの24時間降水量は、山田町で80.0ミリ、小名浜で65.0ミリ、平で43.5ミリだった=写真。

 それから7時間ほど過ぎた午後1時時点では山田108.0ミリ、小名浜89.5ミリ、平78.0ミリに変わった。

 その後はあらかた雨がやみ、同日午後8時30分現在では、山田115.0ミリ、小名浜90.0ミリ、平78.5ミリだった。

 この雨はしかし、台風10号付近の暖かく湿った空気が、東北地方を通って日本の東に伸びる停滞前線の活動を活発化させたためらしい。

 台風であれ前線であれ、今回の降水量はちょっと例がない。九州地方の降水量をみると、むしろ恐ろしさを感じた。

NHKや全国紙によると、8月29日夜10時までの72時間で、九州南部では800ミリ、同北部では600ミリを超えた。宮崎県えびの市ではなんと850.9ミリだった。

私は、いわきの年間降水量約1400ミリを目安にして、市内外の降水量をみる。えびの市ではわずか3日間で、いわきの年間降水量の半分以上が降ったことになる。ちょっと想像ができない雨量だ。

それが山間部や平地を一気に襲うわけだから、土砂崩れや川の氾濫が心配される事態になる。

いわきは令和元(2019)年10月12~13日、台風19号による水害に見舞われた。気象庁はこの台風を「令和元年東日本台風」と命名した。

このとき、いわきで初めて「大雨特別警報」が発表された。山間部の三和町では2日間で総雨量448.5ミリを記録した。

わずかの間に年間の3分の1近くが降ったことになる。下流の平でも206.0ミリだった。いずれも夏井川水系で、市街地の一部、平窪地区では甚大な被害が出た。

去年(2023年)9月には台風13号に伴う線状降水帯が大雨をもたらし、主に新川流域の内郷地区で床上・床下浸水が相次いだ。

 8月だけでも精霊送りと市民体育祭が、雨を気にしながらの準備・開催となった。ほかに、天気を見ながら回覧配布、所属する団体の事務作業をした。なにをするにしても、気象台や気象会社の情報が欠かせなくなった。