2024年9月29日日曜日

ノルウェーの小説

                                   
 表紙の装画を見た瞬間、ノルウェーのフィヨルドだと直感した。まだらに雪をかぶった山を背景に、深い海が広がり、小舟に人間が2人乗っている。手前の岩場には葉を落とした木が一本。

 図書館の新着図書コーナーに、地味な色彩の本があった。ヨン・フォッセ/伊達朱実訳の小説『朝と夕』(国書刊行会、2024年)=写真=で、装画を見ただけで借りることにした。

 ノルウェーの作家・劇作家であるヨン・フォッセ(1959年~)が去年(2023年)、ノーベル文学賞を受賞したことは帯を読んで思い出した。

装画の作者はニコライ・アストルプ(1880~1928年)。ムンクと同時代の、やはりノルウェーを代表する画家だという。こちらは初めて知った。

震災前の2009年9月、還暦を記念して同級生と北欧を旅行した。スウェーデンに住む旧友の病気見舞いが目的だった。その足でノルウェーのフィヨルドを周遊した。

 フィヨルドは、氷河の浸食作用によってできた複雑な地形の湾や入り江のことだという。

いきなり山地が深く海にもぐりこむ景色に目を見張った。白波が寄せては返すいわきの海を見慣れた人間は、入り江の巨大さに度肝を抜かれ、言葉を失った。そのときの記録を抜粋・再掲する。

――世界で最長・最深のソグネフィヨルドを観光した。ノルウェー第二の都市、ベルゲン(旧首都)が発着地だ。

ベルゲンから列車を乗り継いで山側からソグネフィヨルド内奥部に下り、つまり渓谷の底に至り、フェリーでフィヨルドを周遊した。

そのあと、バスで渓谷をさかのぼり、急斜面のヘアピンカーブから雄大な景色を眺め、さらに山を越え、途中の駅から最初に乗った鉄道を利用してベルゲンに戻った。

ベルゲンでは、メキシコ湾流の影響で湿った空気が山に当たり、絶えず雨を降らせる。

「1年に400日は雨が降る」と言われるほどの多雨地帯。氷河が削り取った山は、硬い岩盤だ。

雨は地中にしみ込まずに岩盤の表面を流れ落ちる。即席の滝があちこちにできる。それが車窓から見えたのだった。二泊三日の西ノルウェーはおおむね雨だった――。

『朝と夕』の作者がこのベルゲンに住む、と知ったのは、むろん今回ネットで検索してからだ。

15年前には、ノルウェーの芸術家といえば、劇作家のイプセン、画家のムンク止まりだった。

その『朝と夕』だが、不思議な小説だ。短い第一部は誕生。生まれた男の子はヨハネスと名付けられる。そして、第二部は年老いたヨハネスの死が描かれる。生まれた日と亡くなった日、つまりは生と死だ。

その死も日本流に解釈すれば、肉体が死んで魂が抜け出し、やがて先に死んだ親友に導かれて、船でフィヨルドを西へ向かうのだが、最後は自分の葬式を天上から見ているところで終わる。

最愛の妻に先立たれ、独り暮らしだった。近くに住む末娘が毎日様子を見に来た。国境を超えた「老いの文学」。そんな言葉が浮かんで少し複雑な思いにとらわれた。

2024年9月28日土曜日

今年一番のカツ刺し

                     
   秋分の日と日曜日が重なった9月22日。いつもの魚屋さんへカツオの刺し身を買いに行く。

 マイ皿に刺し身を盛り付けたあと、店主が言う。「きょうのカツオは今年(2024年)一番かも。わさびで食べるといいですよ」

 わさび? いわきでは普通、にんにく醤油(私はおろしにんにくにわさびを加える)につけて食べる。それを承知で「わさびで」という。

 今年一番というからには「とろガツオ」か、それに近いカツオなのだろう。しかし、「戻りガツオ」とはいわなかったな。とにかく脂がのっていて、「今年一番うまいカツオ」ということのようだ。

 この2カ月ほど晩酌を休んでいる。カツ刺しは文字通り晩ごはんのおかずである。「今年一番」に刺激されて、久しぶりにカツ刺しをパチリとやる=写真。

 年が明けたあと、行きつけの魚屋さんで「カツオ、あります」といわれたときが、わが家の「初ガツオ」になる。

 自分のブログを読むと、早ければ1月下旬には「初ガツオ」を口にしている。遅くても2月下旬、それ以後は秋までほぼ毎週日曜日、カツ刺しを食べる。

今年はいつからだろう。1、2月のブログには「初ガツオ」の記述はない。が、いつものようにカツ刺しを買った記憶があるから、春先にはもう「初ガツオ」を食べていたはずだ。

 今年一番のカツ刺しである。まずはにんにくわさび醤油につけ、ごはんに載せて食べる。寿司とは違うが、海鮮丼に似た感覚で味わう。確かに甘い。

 次はわさび醤油で。甘みがあとあとまで残る。わさびだと、カツオの甘みの余韻が味わえる。なるほど、こういうことか。

 隣に住む義弟を含め、食事は年寄り3人でする。カツ刺しは、若いころは余るようなことがなかったが、このごろは、3分の1は余る。それを冷蔵庫に入れておいて、翌日の晩に「にんにく揚げ」にしてもらう。これもうまい。

 今年一番のカツ刺しも余った。いつものように冷蔵庫に入れて「にんにく揚げ」にと思ったが、色がそんなに変わっていない。そのまま刺し身として食べると、やはりうまい。生臭さもまったく感じなかった。

 さて、なぜ今ごろ、脂ののったカツオがとれるのだろうか。ネットで探ると、通信社やテレビが要因を報じていた。

 秋になると、脂を十分蓄えて太った「戻りガツオ」が東北沖でとれる。ところが今年は早くも6月ごろから、脂ののった魚がとれるようになった。

 今年は「暖水渦」と呼ばれる水温の高い海域が東北沖に形成された。そこは小魚などが豊富で、カツオはあまり動き回ることなくエサを食べることができた。

要するに、運動もせずに食べてばかりいるから、脂が蓄積されて肥満体になる――。今年のカツオが早いうちから脂がのってうまいのは、こういうことだったらしい。

そろそろ戻りガツオの季節だが、すでに夏の「極うまカツオ」を口にしている人間にはどう映るか。さらにうまい、と舌がうなるのかどうか。

2024年9月27日金曜日

やっとヒガンバナが

                      
   日曜日に秋分の日が重なった9月22日――。夏井川渓谷の隠居へ行く途中、平・上平窪の田んぼ道で、今年(2024年)初めてヒガンバナの花を見た=写真。

いわきの平地のヒガンバナは、天候不順で冷夏になると、9月に入るか入らないうちに咲き出す。

ところが、今年は9月も暑い日が続き、秋はいつくるのやら、という異常気象になった。それは日々の気象データからも読み取れる。

ローカルテレビは、福島県内各地の気温を伝えるとき、いわきに関しては「いわき小名浜」と、市名のほかに地域名を付け加える。

沿岸部の小名浜に測候所があった。無人化されたあとは特別地域気象観測所として、引き続き気象を観測している。それがいわきの数値になる。

いわきの多くの市民は、沿岸部ではなく内陸部に住む。当然、内陸部の気温は小名浜のそれよりは高い。

で、「そんなに低いの?」という声を受けて(たぶん)、いつからか「いわき小名浜の気温」と、「小名浜」をプラスしてアナウンスするようになった。

その小名浜でさえ、今年の夏は異常な暑さが続いた。9月だけに絞っても、最高気温が30度以上の真夏日は26日現在で10日もあった。

内陸(平地)の気温を代表する山田町は同日も含めて16日間だ。毎日のようにげんなりする暑さが続いた。

その意味では「長い夏」だった。田んぼのあぜ道は(わが隠居の庭もそうだが)、草を刈ってもすぐ緑に覆われる。

私が街からの帰りによく利用する夏井川の堤防の、夏から秋の移り行きはこんな感じだ。

堤防近くの農家の人が時々、土手の草刈りをする。きれいに刈り上げられた土手に、やがて野生化したニラの花が咲き、スルボが咲く。

9月に入るとヒガンバナが――。頭では時折、花の記憶がよみがえるのだが、現実にはヒガンバナの花茎に目がいくことはまずない。

赤い火花のような花が咲いて初めて、きれいに刈り上げられた土手にヒガンバナの花茎が伸びていることに気づく。

すると、葉をもたない真っ赤な花のかたまりが点々と、延々と緑の土手に燃え広がる。

上平窪でヒガンバナの最初の花を見た翌々日、街へ行った帰りに夏井川の堤防に出た。緑に覆われていたところも、草が刈られたところも、赤い花が浮き出るように咲いていた。

いよいよ秋である。「暑さ寒さも彼岸まで」とはよくいったもので、雨の彼岸の中日を過ぎると、急に涼しくなった。

 25日は、半そででは肌寒いので長そでに腕を通した。半ズボンにTシャツはもう終わり。そうあってほしいくらいに、今夏は秋も含めて暑かった。

 雷注意報も23、24日は発表されなかった。雷雨はしばらく来ないかと思っていたら、25日の夕方になって小雨が降り、雷鳴が響いた。福島地方気象台は午後3時半前、雷注意報を発表した。

夕暮れのヒガンバナが一瞬、稲光に照らされる光景が頭をよぎったが……。とにもかくにも酷暑はもう勘弁してほしい。

2024年9月26日木曜日

続・倒木停電

                     
   「陸の孤島になった」。夏井川渓谷の小集落に住む知人が、停電時の状況を厳しい表情で振り返る。誇張でもなんでもない。

 夏井川に沿って県道小野四倉線と磐越東線が走る。電線と電話線も県道に沿って伸びる。

敬老の日(9月16日)の早朝、倒木による停電が発生した。前に道路改修の件でブログ(9月5日付でいわき民報に転載)に書いた場所だというので、雨の日曜日・22日、隠居からの帰りに写真を撮った=写真。

路面が破損したまま改修が進まない個所がある。カラーコーンで囲われている。渓谷で最も狭いところでもある。車1台がやっと、という状況が続く。

ワイヤの張られた山側は水がしみ出し、アスファルト路面がでこぼこになっている。そちらまで破壊が進んで道路が寸断されることがないように――

そうブログに書いたら、ほどなく通行止めの予告看板が立って、舗装の補修が行われたようだが……。

「どこをどう補修したのか、さっぱりわからない」。県道を利用する住民は口々にいう。私も15日に通って同じ思いを抱いた。その翌日の停電事故だ。

近くで以前、路上にせりだした大木がナラ枯れ被害に遭い、陳情を受けて伐採された。倒木があったのはそのへんだという。

夏井川渓谷は、今では県道沿いだけでなく、右岸・塩田、左岸・椚平あたりまで「茶髪」(主にナラ枯れ)が見られる。なかでも左岸の山側急斜面にある枯れ木の落枝・倒木が懸念されるようになった。

それが、現実に起きたことになる。わが隠居のある小集落でも電気と電話が止まった。当然、隠居の冷蔵庫も、地下水を電気でポンプアップしている水道も止まったろう。

それだけではない。もう一人の知人は病院へ行かないといけない日だった。踏切の遮断桿が下りたまま、警報が鳴り続けるので、目の前の県道には出られない。

県道の利用を断念して夏井川の支流沿い、林道から川内村へ抜けて国道399号経由で小川町の平地へ出たという。

渓谷から小川町の平地までは、普通に県道を利用すれば車で10分ほどだ。それが大回りになったために1時間はかかったという。

この知人は車を運転する。自分で緊急事態に対処できたからいい。これが「年寄りで、救急車を呼ぶような事態になったら…」と、前出の知人は顔を曇らせた。

同じ渓谷の小集落、江田は江田で風雨の影響か、山をはさんで国道399号の横川とつながる「母成(ぼなり)林道」が通行止めになった。

 この事故では、停電情報しか得られなかった。JRは「平常運転」、県の建設事務所からも通行支障に関する情報はなかった。

 電力会社は復旧作業のために電源車も出動させたという。3時間ほどで停電が復旧したのはそのためか。

 知人が敬老の日の朝、平のわが家へ電話をかけてきたのは、停電が解消し、電話が復旧したからだった。

 最初は当たり前のように電話をかけてきたと思ったが、そうではなかった。憤懣やるかたない思いをぶつけるようにして倒木事故を教えてくれたのだった。

2024年9月25日水曜日

倒木停電

                     
   もう10日ほど前の話だ。敬老の日(9月16日)の朝、夏井川渓谷に住む知人から電話がかかってきた。「倒木の影響で停電になった」。ということは、わが隠居もそうだな。

 知人の家は、私らが日曜日に出かける隠居の近くにある。戸数10戸ほどの小集落で、住民とは私が通い始めた30年前から隣組の付き合いをしている。

 渓谷のナラ枯れが目立ち始めて以来、落枝・倒木の危険が増えた、いつかは暮らしに影響が出るのでは――知人らと停電などの心配をしていたのだった。

電話を受けた時点では、場所はよくわからなかった。が、木が折れて落下し、道路沿いの電線を直撃したことはまちがいない。

東北電力のホームページですぐ、「停電情報」をチェックする。朝の9時半時点で、いわき市小川町上小川約100戸・同町塩田10戸未満で停電、とあった。停電が発生したのは午前6時5分ごろだった。

上小川といっても広い。が、塩田と系統が同じならエリアは限られる。知人の情報も加味すると夏井川渓谷だ。

県道を利用して平地から渓谷に入ると、ほどなく東北電力の夏井川第一発電所(塩田)を通過する。

発電所は夏井川の対岸にあって、木々で遮られているので県道からは見えない。谷から電線が川をまたぎ、道路の電柱を経由して江田方面へと伸びる。

その発電所沿い、上小川字竹ノ渡戸地内で県道が急に狭くなる。道路の補修工事が中断したまま、カラーコーンが置かれている。

山側に電線と電話線が架かる。山側はそそり立つ崖だ。その崖に生えている大木がナラ枯れになった。

近い将来、間違いなく落枝・倒木が起きる。下を通る車が危険なだけでなく、渓谷に点在する小集落のライフラインが断たれる心配がある。

地元で陳情するとほどなく、ナラ枯れ木が伐採された。そのてんまつは前にブログに書いた。

9月の第二日曜日、竹ノ渡戸を通ると、通行止めを予告する看板があった=写真。日時は9月12~13日の昼間、場所は第一発電所付近、内容は舗装補修工事だ。

カラーコーンが置かれているところは、ワイヤの張られた山側から水がしみ出し、アスファルト路面がでこぼこになっている。

その補修かと思ったが、15日に通ったときにはよくわからなかった。どこの舗装を直したのだろう。

すっきりしない思いでいたところへ届いた倒木停電だ。その後も、電力のホームページを繰り返しチェックした。

正午前には上小川の停電は約10戸に減り、午後1時過ぎには停電理由が「樹木接触・倒木の影響(風雨)」と表示されていた、3時半にチェックしたときには、福島県の停電は「なし」に変わった。

 後日、渓谷の別の小集落に住む友人が来たので、敬老の日の停電の様子を聞いた。10時前には電気がついたという。翌日の新聞には、この停電事故は載らなかった。

次の日曜日(秋分の日)、隠居へ行ったついでに知人の家を訪ねた。想像以上に危機的な状況だったという(つづく)。

2024年9月24日火曜日

能登・珠洲の塩

                             
 先日、若い元同僚が能登半島のお土産を持って来た。半島の突端、珠洲市でつくられた食塩で、「のと珠洲塩(一番窯)」という名前が付いている=写真。

 能登半島では今年(2024年)1月1日、最大震度7の巨大地震が発生した。内閣府によると、8月21日現在、死者は341人(うち災害関連死112人)、住宅被害は全・半壊、浸水、一部損壊12万7千戸弱に及ぶ。電気・ガス・上下水道のライフラインと道路・鉄道の交通網も寸断された。

 そのとき(元日の夕方)、いわき地方もかすかに揺れた。コロの上で家が前後に動くような感じだった。

すぐテレビをつけて、震源は能登半島であることを知る。緊急地震速報が繰り返し流れ、津波注意報と警報、やがて大津波警報が発表された。

「テレビを見てないで逃げてください」。女性アナウンサーが切迫した声で呼びかける。尋常ではない様子に3・11を思い出して胸が騒いだ。

能登半島を訪ねたことはない。が、若いとき、ランボーと同時代を生きたロートレアモン(本名/イジドール・デュカス=1846~70年)に引かれ、散文詩集『マルドロールの歌』(栗田勇訳)を買って読んだ。

ロートレアモンをもじって「能登亜門」というペンネームを使って文章を書いたこともある。無関心ではいられない。

 東日本大震災とその後の水害では、全国各地から支援の手が差し伸べられた。その恩返しの意味もある。いわきで、さらにはいわきから能登へ出向いて被災者を支援する動きが続く。

元同僚はその取材のために、いわきから能登まで車で往復した。片道700キロ、往復1400キロのドライブはきつかったという。

 別の製塩会社のリーフレットも置いていった。「あげ浜式製法」(国指定無形文化財)と「流下式製法」が写真付きで載っている。

あげ浜式は――。砂を薄く広げて筋目をつくり、そこへ海水をまく。砂が乾いたら、板で囲った「たれ舟」に集めて入れる。

たれ舟に海水を注ぐと砂の塩分が溶け、たれ舟の穴に塩分濃度10~20%のかん水がたまる。このかん水を平窯で煮詰め、余分なにがりを抜いて純白な塩に仕上げる。

製塩職人が海水をまく写真もあった。「しおくみ三年 しおまき十年」だという。能登半島を舞台にした朝ドラ「まれ」が放送されたとき、田中泯が製塩職人を演じた。その俳優とリーフレットの職人が重なった。

 元同僚からはこのところ、お福分けが続く。5泊6日の入院前には「福島へ行ってきたから」とモモをもらった。退院後もモモを持って来た。

能登の塩は何に使おうか。まずはちょっとなめてみる。きめが細かいというか、深みのある味だ。ミネラル分が効いているのだろう。

土曜日(9月21日)、握り飯あたりから試すか――などと考えていたら、テレビは能登半島の大雨被害を伝えていた。

日曜日に続き、月曜日も新聞は能登の豪雨を大きく報じた。停電・断水、死者6人、仮設住宅浸水……。また大災害が襲うとは。

2024年9月21日土曜日

「ROOT」第9号

                               
 いわき昔野菜保存会の会報「ROOT」第9号が発行された=写真。2月に開催された第11回いわき昔野菜フェスティバルなどの記事が載っている。

 初回から講師とコメンテーター・アドバイザー役を務めている山形大の江頭宏昌教授は、今回、日程が合わずに参加がかなわなかった。

 このため、先日開かれた役員会では、次回のフェスティバルは教授のスケジュールに合わせて開催日を決めることで一致した。

 フェスティバルでは講演会・ワークショップ・料理教室・座談会・種の交換会などが予定されている。講演はもちろん、江頭教授にお願いする。

 その教授からたまたま、フェイスブックを介して私に質問がきた。山梨県上野原市の寺にまつられている中井清太夫の碑を参拝し、住職から話を聞いた。

 中井清太夫は江戸時代、甲斐国(山梨県)や小名浜、飛騨でジャガイモの栽培を奨励した幕府の代官である。

 山梨では「せいだのたまじ」という郷土料理が広く伝わっている。いわきに伝わるジャガイモの郷土料理で何か心当たりはないだろうか――。

 ないどころではない、おおいにある。「味噌かんぷら」だ。そのうえ、中井清太夫の赴任地でもある飛騨高山には「ころいもの煮付け」がある。

 ジャガイモと清太夫と郷土料理が見事に重なっていることを、前にブログに書いた。「せいだのたまじ」で検索したら3本あった。掲載年月日を教授に伝えると、調べたいことがすでに書かれていた、という。

 あらためて「中井清太夫」で検索したら、5本のブログが出てきた。その中から、2020年5月26日付の「味噌かんぷら」を抜粋する。

――晩酌のつまみに小芋の「味噌かんぷら」が出た。油でギトギトした感じがなく、さっぱりした甘味噌が小芋にうまくからみ合っていた。

日曜日、夏井川渓谷の隠居の菜園で、片手三角ホーを使って草むしりをしていたら、土のなかからころがり出てきた。

ジャガイモは、種ではなく、種芋で増える。地中に取り残された小芋が毎年、芽を出す。葉を残しておくと、6~7月に小芋がとれる。この何年かは、それを「味噌かんぷら」にして楽しんでいる。

2020年は大人の親指~小指大の小芋30個余がとれた。「味噌かんぷら」にちょうどいい分量だ。

 自分のブログで調理の仕方を確かめる。①小さなジャガイモを、皮をむかずによく水洗いする。大きなものは二つ割りにする②鍋に食用油を多めに入れ、ジャガイモをよく炒(いた)める③そこへ砂糖・味噌を入れ、多めに水を差してよく煮る④汁気がなくなるまで煮込む――。

 昔野菜フェスティバルでは、市民がよく知っている「味噌かんぷら」について、どこかで触れたら盛り上がるのではないか。役員会ではそんな期待が膨らんだ。

 小さなジャガイモを俎上にのせて、秘められた歴史(飢饉)と人間(代官)と食文化を伝える。これもまた昔野菜フェスティバルならではの役目と魅力だろう。

2024年9月20日金曜日

祖父の思い出

        
 母方の祖父について書いた文章がある。現役のころ、新聞の1面コラムとは別に、中面で「みみずのつぶやき」と題する週一のコラムを持っていた。30年前、46歳のときの感慨でもある。それを要約して紹介する。

 ――叔父が死んで、通夜の席にいとこが顔をそろえた。グラスを交わしながら雑談していると、「この家の先代はなぁ……」と隣組の長が割って話を始めた。

 先代とは祖父のことである。祖父をよく覚えている者、うろ覚えの者、全く記憶にない者と、いとこも年齢によってさまざまだ。

 祖父は仙台で生まれ育った。長じると阿武隈の山里へやって来て、素封家の家に住みついた。使用人にでもなったのだろうか。やがて地元の女性、つまり祖母と結婚し、二男一女をもうけた。

 「じっちはな、人がわらじを十五足つくるとき、十八足もつくる努力家だった」という。そのうえ寡黙。初めて聞く話である。戦後の農地改革で土地を手に入れるという幸運はあったものの、ひたすら働いて恒産を築いたらしい。

 祖父が縁もゆかりもない山里に現れたのは、明治の終わり近くだろう。流れ者がムラに住みつき、一家を構えるのは容易なことではない。

 なぜ故郷を捨てたのか。ムラの中でどんな思いで生きてきたのか。この年になれば、明治の流民の一人を近代史の文脈の中で調べてみたい思いにかられる。――

 わが実家と同じく、阿武隈の山里に母の実家がある。今は同じ敷地内に隠居があるが、私が子どものころは、隠居は実家(叔父の家)とは別に、西方の山麓にポツンと離れてあった=写真(隠居の跡は杉林になった)。

 そこへ母親に連れられて泊まりに行った。夜になると、石油ランプに灯がともされた。風呂は便所と隣り合わせで外にあった。手持ち棒付きの提灯で足元を照らし、それを明かりにして風呂に入った。枕元には寝る前、角行灯がともされた。

 三つか四つのころ、夕食を食べようというときに、ゆるんでいた浴衣のひもを踏んで囲炉裏の火に左手を突っ込んで大やけどをしたことがある。

 それと前後する記憶だが、囲炉裏のある部屋の隣室で病臥していた祖父の顔をはっきりと覚えている。

 先日、母の実家の跡継ぎ(いとこの息子)から手紙が来た。国の事業による農地の基盤整備が始まった。その計画地内に曽祖父(私からみると祖父)名義の土地があるので、名義変更が必要というものだった。

あらかじめ実家の兄から話を聞いて了解していたので、同封の書類のほかに必要な書類をそろえて返送した。

 そのとき初めて、祖父の没年月日を知った。私が3歳になったばかりだった。ということは、やけどをする前にちがいない。

 それに刺激されて、30年前に書いた文章を読み返した。祖父は長命だったという記憶はない。その年齢をたぶん、私はとっくに過ぎている。

祖父のような人間が額に汗して土地を耕し、家族を養ってきたのだと、今さらながらに震えるような感慨を覚えた。

2024年9月19日木曜日

バングラからの便り

                              
 シャプラニール=市民による海外協力の会は、主にバングラデシュとネパールで活動を続けている。日本の国際協力NGOとしては草分け的な存在で、2022年に結成50周年を迎えた。

会の活動は、独立直後のバングラデシュに日本の若者が農業支援のために派遣されたことに始まる。

若者たちは帰国後、シャプラの前身である「ヘルプ・バングラシュ・コミティ」を立ち上げる。そのメンバーの一人がいわき出身の朋友だった。

それで、どんな活動をしているのかは最初期から承知している。その後、カミサンが会員になり、私はマンスリーサポーターになった。

東日本大震災では初めて国内支援に入り、いわきを拠点に、5年にわたって交流スペース「ぶらっと」を開設・運営した。

 バングラの首都・ダッカにはシャプラの事務所がある。現在の所長は、3・11支援でいわきに入り、わが家にもよく顔を出したU・Tさんだ。

 彼女から、会員とサポーターにバングラの現状を伝える便りが届いた=写真。手紙には政権崩壊直後、街なかの壁に、自由に自分たちの思いを表現する学生たちの写真が同封されていた。

同国の政変は新聞やテレビで知るだけのため、いまひとつよくわからなかった。Uさんの手紙で、やっと市民の視点から政変をどうとらえたらいいのか、手がかかりを得られた思いがする。

8月5日は、15年にわたって政権を握ってきたシェイク・ハシナ首相が辞任を迫られてインドに亡命した、歴史的な日になったという。

辞任に至るきっかけは、7月初めに始まった学生たちによる公務員雇用制度の改革を求めるデモ活動だった。

デモ活動は次第に政党支持者間の抗争という様相を帯びて激しくなり、将来を期待された多くの若者の命が奪われた。

ひとつの政党、ひとりの首相による長期政権が続き、人々は政治にあきらめを抱いているのかと感じていたが、大学生を中心とした若者はそうではなかった。

首相辞任の報を受け、多くの人たちが歓喜にわいた翌日、学生たちは率先して街を掃除し、警察が一時的に機能しなくなったときには交通整理を始めた。

Uさんは、学生たちは大人たちよりも冷静に、そして信念を持った行動をしている印象を受けたという。

抗議活動のリーダーのうち、2人が暫定政権のアドバイザーに選ばれるなど、これから「新しいバングラデシュ」が始まるという期待を抱かせてくれる、とも書いていた。

「暫定政権から新しい政権が誕生するまで、少し時間はかかるでしょう。今回の学生たちの行動や彼らの信念を潰すことがないよう、私たちは新たなバングラデシュを共に築いていきたい、と思っています」

 政変に追い打ちをかけるように、バングラでは大洪水が起きた。シャプラは通常の活動のほかに、水害の緊急支援活動も行っている。

2024年9月18日水曜日

『名画のなかの美しいカラス』

                           
   移動図書館から借りた本の中に、『名画のなかの美しいカラス』があった=写真。著者はアンガス・ハイランドとキャロライン・ロバーツという人で、今年(2024年)4月、エクスナレッジというところから喜多直子訳で出版された。

 アンガスは英国のグラフィックデザイナー、キャロラインは同国のグラフィック専門ジャーナリストだという。同じコンビと訳者で『名画のなかの猫』も出ている。

 カラスが主題であるからには、読まないわけにはいかない。理由は、カラスが「好き」というよりは「賢すぎる隣人」だからだ。

家の前にごみ集積所がある。家庭から出されるごみには人間の意識が反映される。少しでもマナー違反があると、カラスは目ざとくそこを突く。

コミュニティ=ゴミュニティには、ごみと人間のほかにカラスが加わる。カラスとの知恵比べに負けるわけにはいかない。

翼を持ったこの隣人にスキを見せないようにするには、まずは相手を知ることだ。そう考えて、図書館の新着図書コーナーにカラスの本が並ぶとすぐ借りて読む。『名画のなかの美しいカラス』もそうして読んだ。

巻頭の文章から違和感というか、とまどいを感じた。カラス讃歌である。寄稿したのはクリス・スカイフという「ロンドン塔のレイヴンマスター」だ。

日本では、カラスといえば「クロウ」のハシボソかハシブトだが、イギリスでは「レイヴン」のワタリガラスだという。レイヴンマスターとは、つまりワタリガラスの飼育係ということになる。

17世紀のロンドン大火のあと、勅令によって、ロンドン塔で最低6羽のワタリガラスを飼育することになった。

「ロンドン塔からワタリガラスがいなくなるとイギリスは滅びる」。当初、駆除を考えていたチャールズ二世が占い師の言葉に従ったのだという。

塔には衛兵がいる。そのなかにワタリガラスを世話するレイヴンマスターの役職が設けられた。巻頭の文章はそのマスターの推薦文のようなものである。

「カラスは気高く、聡明で、周囲をよく観察し、あらゆることを把握している。カラスにまつわる寓話や伝説は、とても美しく、あまた存在し、そしてずいぶんと風変わりだ。この本には、そんなカラスたちの珠玉の物語が集められている」

ウィル・バーネット、デヴィッド・インショー、ポール・ブリーデン……。ゴッホやゴーギャン、河鍋暁斎や酒井抱一などはともかく、知らない画家の作品が大半なので、新鮮といえば新鮮だった。

イギリスにも、腐肉や生ごみをあさるカラスがいる。それがクロウで、日本でいえばハシブトガラスやハシボソガラスと同類だ。

東日本大震災の前、同級生と北欧を旅行したことがある。現地へ足を踏み入れて初めて出合った生き物はカラスだった。

日本のカラスと違って真っ黒ではない。首の周りや胸が灰色っぽい。極東のコクマルガラスと近縁種のニシコクマルガラスだった。ワタリガラスには気づかなかった。

2024年9月17日火曜日

アイスフルーツ

                     
   9月も中旬となれば、さすがに日が短くなってきた。12日の夕方、内郷からの帰り、用心のために車のスモールライトをつけた。

スモールライトとカーナビは連動している。まだ外は明るい。とはいえ、5時を過ぎて車内が薄暗くなってきた。スモールライトをつけると、ナビが夜間用に切り替わり、見やすくなった。

気温はどうだ。秋らしさを感じたのは8月21日から何日かだけだった。9月に入ったから秋になるはずと、期待はしたのだが……。

秋になるどころか、夏が続いている。9月12日は、最高気温が山田町で32・6度、小名浜で31・0度だった。

この日午後、平で会議があって出かけた。家にいるよりは1枚多く羽織った。エアコンが効いている屋内はともかく、そこへたどり着くまでがきつかった。

翌13日も酷暑。それが一服した14日の翌15日も耐えがたい暑さになった。山田では最高気温が34・5度、小名浜でも31・5度まで上がった。そして、夕方の雷雨。カミサンが急いで2階の窓と戸を閉めた。

16日は一転、起きると東からの風に霧雨がまじり、Tシャツ一枚ではひんやりした一日になった。

前にこんなことを書いた。扇風機だけの「昭和の家」では、暑さから身を守る工夫が必要だ。

冷蔵庫で冷やした水を飲む。ときには、それに梅干しを入れてすっぱいジュースにする。昼はご飯に水を注ぎ、氷のかけらを載せた「水飯」にしたり、そうめんにしたりする。

それでもすぐ汗がにじむので、晩ごはんのあとにはデザートとして「ガリガリ君」を食べる。

それだけではない。種なしブドウも凍らせた=写真。夏井川渓谷にあるブドウ園で教わった食べ方だ。これも、前にブログに書いた。

――ある年の秋、ブドウ園で種なしの「フジミノリ」と「ハニーシードレス」の詰め合わせを買った。

生産者ならではの食べ方を教わった。「フジミノリ」は最後に採ったものを冷凍しておき、正月に食べるのだという。

幼い子どもにはアイスキャンデーの代わりになる。食べる前に少し置いておくと皮も簡単にむける。「冷凍ブドウ」とは味なことをする。

あらかた生で食べたあと、何個かをもいで冷蔵庫の冷凍室に入れた。凍ったころを見計らって取り出す。カチンカチンになっている。

少し間をおいて食べると簡単に皮がむけ、甘い果肉がシャーベット状にほぐれた。長期間冷凍室に入れておくと、もっとシャリシャリするのだろうか。

「冷凍ブドウ」の連想で、冷蔵庫にあったミニトマトを凍らせてみた。味はトマトだから癖があるが、舌触りはやはりシャーベット状で好ましかった。聞きかじりであれ何であれ、食べ方を工夫するのは創造的で面白い――。

冷凍ブドウ、あるいは冷凍干し柿は正月の「ごちそう」でもある。晩秋の干し柿はともかく、店頭に並び始めたブドウは、「暑い秋」の今こそ冷凍して味わいたい、アイスフルーツでもある。

2024年9月14日土曜日

ふとんが濡れた

                     
   なにもなければ日中はパソコンを開いて文章(ブログ)を打ち込むか、検索をして過ごす。むろん、合間に本を読んだり、別の用事をすませたり、昼寝をしたりする。

メールもパソコンを開けるたびにチェックする。届くのはいわき市の防災メールが多い。だいたいは福島地方気象台の発表を踏まえたものだ。

この夏はほぼ毎日、明け方に「雷注意報(発表)」、夜更けに「雷注意報(解除)」が入った。暦の上では秋だが、今もこの流れは変わらない。「長い夏」が続いている

実際の天気は、晴れれば昼前から入道雲がわき、午後になって雷雲が近づく。土砂降りになるときもあれば、雷が弱く響くだけのときもある。

9月12日の午後は、市役所で2時間ほど会議があった。終わって窓の外をながめると、地面が濡れている。気づかぬうちににわか雨が来て、やんだようだった。

家に帰ると、道路はおろか庭も濡れていない。夕方、別の用事で内郷へ行ったが、そちらは路面のあちこちに水たまりができていた。

もしかしたら平は夏井川と鎌田山をはさんで、西の市街(それも一部)で雨が降り、東の神谷・草野方面は遠雷だけのようだった。ピンポイントの降水だったのかもしれない。

翌13日も前日と似たような天気だった。朝から暑かった。いつものようにパソコンを開けると、朝6時過ぎには「雷注意報(発表)」のメールが入っていた。前日の雷注意報は夜10時過ぎには解除されていた。

猛暑が予想されたので、起きるとすぐ茶の間と玄関の戸を開けた。カミサンは少し遅れて2階の窓とベランダの戸を開けた。自分のふとんもベランダに干した。

午後になると雲行きがおかしくなる。2時半ごろ、いきなり茶の間の縁側の屋根が音を立て始めた。すぐ土砂降りになった。

急いで2階の窓と戸、1階の寝室の窓を閉める。雨は西からたたきつけるように降っている。西側の窓枠はたちまち雨でぬれた。

それから茶の間に戻り、ガラス戸を閉める。雨が降っているのに茶の間を開け放しておくと、湿気が入り込む。プリンターの用紙がしける。印刷したら字がにじんだ、なんてことになったら困る。

いつまで降り続けるのか。窓を閉め終わったあとは、ネットで雨雲の動き=写真(気象庁)=と1時間ごとの天気をチェックした。

カミサンは雨音を聞いて、道路の向かいにある故伯父の家に向かった。そちらの窓を閉め終わると、戻って来て茶の間の戸を開けた。

戸を閉めるとすぐ部屋に熱がこもる。私には湿気が問題だが、カミサンには部屋の暑さがこたえるらしい。

そのうち、チラッと2階を見上げたあと、横目で「ふとんは、取り込んだ?」という。

ふとん? いつものように急いで窓と戸を閉めた。ベランダにふとんが干してあるなんてことは考えもしかった。

カミサンが急いで駆け上がり、ベランダからふとんを取り込んだが……。土砂降りの時間が長かったようで、びしょびしょだったという。これは大失態だった。

2024年9月13日金曜日

ハグルマトモエちゃん

                    
 夜も寝るまで茶の間のガラス戸を開けている。蚊取り線香は朝から絶やさない。扇風機もかけっぱなしだ。

 庭の一部と勘違いして、昼はアゲハチョウやハナアブ、夜はセミやコガネムシなどが茶の間に飛び込んで来る。

 近年は夜、アオマツムシが家の中に入って来て、「ギーギーギー」とうるさく鳴き交わすようになった。

 自分のブログをチェックすると、平成20(2008)年9月に初めてアオマツムシについて触れ、同22年にはわが家の庭にも現れ、樹上でうるさく鳴き交わすようになったことを書いている。

秋を告げる庭の虫といえばコオロギだったが、いつの間にかわが家ではこのアオマツムシがとって代わるようになった。

国道の街路樹で夜、「ギーギーギー」と鳴き騒いでいる新参者――アオマツムシは最初、そんなイメージだった。

そこから沿道の民家へと生息範囲を広げていったのか、平成22年9月1日に初めて茶の間に飛び込んできた。次の夜も現れた。これが始まりだった。

 以来、今年(2024年)で14年。去年と同様、今年も記録的な猛暑が続く。室温は、昼は真夏日(ときに猛暑日)、夜は熱帯夜。9月に入っても「暑い夏」は終わらない。

 夜、茶の間から寝室に移ると、アオマツムシも同じように移動して、天井や壁に張りついて鳴き続ける。この音で目が覚めることもある。

 「飛んで火にいる夏の虫」。今は電灯だから、ろうそくの火に飛び込んで焼け死ぬなんてことはない。代わりに、いろんな虫が電灯にぶつかる。

 先日の夜は、見たこともない蛾がやって来た=写真。色は全体に樹肌色だが、翅を広げたときの模様がおもしろい。クジャクチョウみたいに目玉が付いている。

 「蛾/目玉」をキーワードに検索すると、ハグルマトモエのメスらしいことがわかった。専門サイトに当たると、ヤガ科の蛾で、本州・四国・九州に分布する。幼虫の食草はネムノキだという。

メスは前翅に「巴(ともえ)」のような形をした眼状紋がある。仲間にオスグロトモエがいる。そのメスに酷似するというので、ネットの画像と自分で撮った写真を比較する。いよいよハグルマトモエらしいという確信が強まる。

前翅の眼状紋と、目玉の間の紋様を組み合わせると、「ギョロ目のだるま」に見えなくもない。

蛾があらわれたとき、びっくりして体をよけたカミサンに和名を教えると、「かわいい名前だね」。なんだそうか、「ハグルマトモエちゃん」だな、これは。

あえて漢字を当てると、「歯車巴」になるらしい。それでは味気ない。「歯車」ではなく、せめて「葉車」でなくちゃ――などとチャチャを入れたくなるのは、やはりギョロ目が強烈だからだ。アオマツムシにうんざりしていた身には、またとない気分転換になった。

2024年9月12日木曜日

青パパイヤが届く

                     
   パパイヤは南国のフルーツ。オレンジ色に完熟した、やわらかい果肉の高級品――今もそのイメージは変わらない。それとは別に、未熟なうちに食べる青パパイヤがある。この青パパイヤが最近、わが家でもなじみの食材になりつつある。

 3年前の秋、学校の後輩から青いパパイヤをもらった。これが始まりだった。後輩の家の前にハウスがある。そこで初めて栽培したのだという。

 家を訪ねた折、ハウスに案内された。黄色みがかった白い花と青い実を付けたパパイヤがあった。

東南アジアや沖縄ではパパイヤの未熟果を野菜として利用する。いわゆる青パパイヤだ。それを二つもらった。

「皮をむく、切る、水にさらす。それからサラダにして食べる」。後輩がユーチューブで学んだ食べ方だという。

さっそくネットでレシピをおさらいし、カミサンに伝える。実の内部は白い。それを細かく刻んで水にさらしたあと、ドレッシングサラダにした。初食感は「硬い」だった。

どうしたら硬さがほぐれるか。ネットであれこれ探ると、炒め物、煮物、せんぎりのてんぷら、きんぴらがいい、とあった。つまりは、もっと薄く切る、細くする、加熱するということらしい。

後輩はハウスから露地に切り替えて栽培を続けている。その露地モノが今年(2024年)も届いた=写真。

ドレッシングサラダ、つまり生では硬い――。その記憶があったので、せんぎりを炒めてもらった。

念のために自分のブログで食べ方を確かめる。青パパイヤを縦に二つに割って未熟な白い種を取り除き、ピーラーで皮をむく。

 さっそく炒め物が晩ごはんのおかずになって出てきた。やわらかく、さっぱりした食感がごはんにあった。

 二つに割った半分は、さらに四つ切りにして皮をむき、糠床に入れた。これも以前のブログを参考にした。

去年は糠漬けのほかに浅漬けも試した。それからまず紹介する。朝、薄く細く切ったものを塩でもみ、そのまま小さな容器に入れて軽く重しをのせた。昼に味を確かめたら、まだ半漬かりだった。

夕方まで漬けておくと、少しはしんなりしたが、大根のようにはならない。ずいぶん稠密(ちゅうみつ)なことがわかった。

で、糠漬けはというと――。一番小さい青パパイヤを下ごしらえに従って縦に四つに割り、皮をむいて糠床に差し込んだ。

12時間後に取り出すと、まだ全体に硬い。さらに12時間、つまり1日後、再び取り出したが、先端部が少しやわらかくなっただけだった。

やわらかくなった部分をカットし、薄切りにして試食する。硬い。浸透圧がよく働かないのか、外側はかなりしょっぱい。

と、ここまでが去年の糠漬けの話。「よし、これからだ、あれこれ考えるのは」。去年よりはましなものができたような気がするが、しょっぱいのには変わりがない。

ならばいっそ古漬けにして、食べるときに刻んで水につけ、塩出しをするか、などと開き直ってみるのだが……。青パパイヤはやはり手ごわい。

2024年9月11日水曜日

吉野せいは生誕125年

                               
   いわき駅前の総合図書館では、令和6(2024)年度前期常設展「生誕140年 三猿文庫の中の暮鳥と夢二」のほかに、前期企画展「吉野せい入門」が開かれている=写真(解説資料の表紙)。

 なぜ今、吉野せい?と思ったら、今年が生誕125年、そして彼女の作品集『洟をたらした神』出版50年の節目の年だという。

なるほど。そういう理由から、あらためて吉野せいを知ってもらおうと、企画が練られたわけだ。市立草野心平記念文学館が共催している。

三猿文庫と山村暮鳥・竹久夢二については、月曜日(9月9日)に拙ブログを再構成して紹介した。

吉野せいについてもたびたびブログで取り上げている。常設展と同じように、企画展に合わせてブログを再構成して紹介する。

まずは生涯――。吉野せいは明治32(1899)年、小名浜の網元の家に生まれた。尋常小学校高等科を卒業すると就職し、独学で小学校教員の検定試験に備える。

試験に合格したせいは、現勿来二小や母校の小名浜一小で教師として働く。そのころから文学に興味を持ち、平に赴任した暮鳥らの雑誌や新聞に短歌などを投稿するようになる。

大正10(1921)年、せいはのちに暮鳥の盟友となる詩人三野混沌(吉野義也)と結婚し、好間の菊竹山で果樹農家として開墾生活に入った。

詩を書き、人のために奔走する夫に代わって、せいは生業と家事、子育てに明け暮れた。

夫の死後、半世紀の間封印していた文筆活動を再開し、昭和49(1974)年、作品集『洟をたらした神』を出す。

同書は翌年、田村俊子賞と大宅壮一ノンフィクション賞を受賞する。世間は「百姓バッパ」の壮挙にわいた。

さらに同書は劇化され、いわきでの2回目の公演益金を基に、同53年、新人のすぐれた作品を顕彰する吉野せい賞が創設された。

企画展ではほかに、草野心平との交流、大宅壮一ノンフィクション賞や市政功労表象式などを伝えるいわき民報の記事などが展示されている。

同紙との関係でいうと、せいは昭和45年11月16日から47年11月6日まで、「菊竹山記」と題して、断続的にエッセーを連載した。

このなかには夫・混沌や、夭折した娘・梨花に触れたものなど、せいの作品の原型といえるものもあると、解説資料で紹介されている。

せいは『洟をたらした神』のあとにも、作品集『道』を刊行した。「白頭物語」はせいの幼少期、タイトルと同じ「道」は青春期に通じる作品といえる。

その後の結婚~子育て~夫の死と老いをあつかった『洟をたらした神』と合わせると、せいは自分の生涯を作品として振り返ったことになる。

解説資料にある吉野せいゆかりの地図も参考になる。せいは菊竹山のふもとの龍雲寺に眠る。

次女の梨花は急性肺炎のために、わずか9カ月余でこの世を去った。そのとき、夫の生家がある平窪の菩提寺へと葬列が向かうのを、せいは見送っている。今は夫だけでなく、梨花も一緒だ。

2024年9月10日火曜日

市議選雑感

                      
   いわき市議選は、いつになく新人の立候補が多かった。それもあって、告示から投・開票までの1週間、何度もいわき民報の候補者経歴をながめ、朝刊折り込みの選挙公報を読み返した。

 告示当日の9月1日は日曜日で、いつもよりは少し遅く、朝9時半過ぎに夏井川渓谷の隠居へ出かけた。

 30分ほどの道のりだが、沿道のポスター掲示板にはまだ1~2枚しか張られていなかった。

 帰りは草野心平記念文学館へ寄った。車で移動したのは正午前と午後1時前後で、そのころはあちこちの掲示板で運動員がポスターを張っていた。

 最寄りの掲示板は、投票所でもある小学校の前に設けられた。告示日当日、隠居からの帰りに見ると、カラフルなポスターで一気に花が咲いたようだった。

 8日・日曜日は朝7時前、小学校の体育館へ投票に出かけた。そのとき、掲示板をパチリとやった=写真。

よく見たら、2人のポスターが欠けている。告示日当日、この掲示板を見たときのメモに、「ポスターは残り1人か2人?」とあった。

広域都市いわきでは、掲示板にポスターを張るにも組織力が要る。「張り残し」があると、有権者はあれこれ推測する。

最寄りの掲示板からざっと2キロ離れた掲示板にはちゃんと張ってあったから、「張り残し」ではなく「張り忘れ」だったか。

早朝に投票所へ出かけたのは、実は投票一番乗りを目指したからだ。投票は7時に始まる。それに合わせてセレモニーが行われる。

投票管理者がスタッフに投票開始を宣言し、一番乗りの有権者を招き入れて投票箱がカラであることを確かめてもらう。

投票箱をのぞきたかったのだが、すでに散歩を兼ねてやって来たというおばさんが私らの前にいた。

それともう一つ、だれが投票管理者と立会人になっているかを知りたかった。前は市役所OBが管理者、立会人2人のうち1人が区長だった。

この「分担」が崩れ、最近は管理者も区長に振ってくる。今回も管理者と立会人の1人が区長だった。

夜7時に投票が締め切られると、管理者は立会人と2人で総合体育館へタクシーで投票箱を搬送し、同じタクシーで投票所近くの駐車場まで戻り、自分の車で帰る。

私は、3年前のいわき市長選では投票立会人になった。去年の福島県議選では投票管理者を仰せつかった。

 さて、今回は定数37人に対し、現職33人、元職1人、新人13人の47人が立候補した。結果は現職3人と新人7人が落選した。

 投票率は右肩下がりが止まらない。私が記者になって間もない昭和47(1972)年は、投票率が85・98%だった(市議選はほぼ旧市町村単位の小選挙区制だった)。

 それが震災後の平成24(2012)年には50・05%まで下がり、以後、40%台が続いて、今回はぎりぎり41.28%まで落ちた。

それはともかく、新人のトップ当選には驚いた。旧町村部はまとまれば強い――その典型のような結果だった。

2024年9月9日月曜日

生誕140年の暮鳥と夢二

            
 いわき駅前の総合図書館で、令和6(2024)年度前期常設展「生誕140年記念 三猿文庫の中の山村暮鳥と竹久夢二」が開かれている=写真(解説資料の表紙)。

 暮鳥と夢二はともに明治17(1884)年生まれで、今年生誕140年の節目を迎えた。2人の間に交流があったかどうかはわからない。が、それぞれがいわきに足跡を残している。

 拙ブログでも何度か取り上げているので、企画展の内容に沿ったかたちでそれを再構成してみる。

 まずは三猿文庫から。いわきが誇る私設図書館で、昭和9(1920)年、大学を卒業して帰平し、家業に就いた諸橋元三郎が私財を投じて開設した。

夫妻と長男(いわき商工会議所会頭)の3人が不慮の死を遂げたあと、遺族から3万点余に上る文庫の資料がいわき市に寄託された。

草野心平記念文学館で資料の整理、目録作成が行われ、同文学館で「三猿文庫――諸橋元三郎と文庫の歩み」展が開かれた。

このあと、資料は市立図書館に所管替えとなり、ラトブに総合図書館がオープンすると、いわき資料フロアの一角に「三猿文庫」コーナーが設けられた。

暮鳥は大正元(1912)年9月、日本聖公会の牧師として平講義所にやって来た。いわきでは「文学の伝道師」という意味合いが濃い。暮鳥のまいた詩の種がやがて芽生え、育ち、開花した。

そこから三野混沌、猪狩満直、草野心平、そして作家の吉野せいらが育った。今につながるいわきの近代詩史はこの暮鳥から始まる。

 そして、夢二。福島県とはゆかりが深い。18歳で早稲田実業学校に入学したとき、同級生に3歳年下の助川啓四郎(現田村市船引町出身、のちの代議士)がいた。

 彼のネットワークに支えられて、福島・郡山・会津若松・三春などの地に知りあいができた。

夢二は大正10(1921)年の8月中旬~11月下旬、県内を主にみちのくに滞在した。その折、いわきの湯本温泉を訪れて山形屋旅館に一泊している。

それに先立つ明治40(1907)年、夢二は読売新聞に入社し、「涼しき土地」の取材で初めてみちのく入りをした。

松島からの帰途、夢二は浜通りを南下する。久之浜で汽車を下り、人力車で四倉へ行き、再び汽車を利用して湯本温泉の松柏館に一泊した。

市立美術館で竹久夢二展が開かれた際、山形屋旅館にあてた書状が展示された。夢二は旅館特製の黄八丈の丹前が気に入り、後日それを譲り受けた。それへの礼状だった。

黄八丈の和服姿の女性が黒猫を抱いている「黒船屋」は、大正8年に制作された。夢二の代表作の一つだ。夢二の黄八丈好みが、山形屋の話からもうかがえる。

総合図書館の企画展では、三猿文庫の所蔵資料の中から、出版当時の2人の作品を展示している。

同展の狙いは、いうならば「地域の文化遺産」でもある三猿文庫を再認識してもらうことにある。

私などは絶えず、デジタル化された地域新聞(三猿文庫蔵)の世話になっているので、そのありがたさを痛感している。

2024年9月7日土曜日

親知らずを抜歯へ

                      
 何年かぶりで若いときから世話になっている歯科医院へ足を運んだ。虫歯が2本あるのと、福島県後期高齢者医療広域連合から、75歳と80歳を対象にした歯科口腔健診(無料)の案内が届いたからだ。

 健診の内容はチラシに書かれていた=写真。虫歯や歯周病の有無だけでなく、口腔の機能も含めたさまざまな検査を実施するという。

 検査の内容は①歯・歯ぐき②入れ歯(義歯)③舌や唇④かむ力⑤飲み込む力⑥かみ合わせ――の6項目のようだ。

歯周病と誤えん性肺炎や糖尿病などとの関連が図解されていて、思わずうなってしまった。

それはともかく、虫歯の治療をするのはいつ以来だろう。自分のブログをチェックしたら、震災前の平成21(2009)年春と翌年秋に歯科医院の世話になっている。

平成21年には1カ月ほど右上の親知らずを治療して、温存することにした。ところが翌年秋、同級生と台湾へ旅行する段になって痛みが急にきた。「歯周病の急性発作」という診断だった。

そのときはかみ合わせをうまくできるようにしてもらったが、台湾から帰国後、歯がぐらつき始めた。

電話をしてすぐ駆けつけると、大先生が歯の状態をみた。「これはだめだ」となって、歯ぐきに麻酔薬を注入した。

「痛かったら、言ってください」と言って、グイッとやる。痛くはなかった。舌で探るとポッカリ穴があいていた。

それから14年がたつ。今度は右下の親知らずが虫歯になった。歯ぐきに近いところに違和感があったので、舌でまさぐっていたら、穴があいているのに気づいた。同じ歯の上の方にも穴があいている。

 右上の犬歯にも内側に穴があいた。痛みを感じるわけではないが、放ってはおけない。

 7月下旬、心臓由来の血栓による脳梗塞と、抗凝固薬(血液サラサラの薬)の長期服用による出血を予防するための手術を受けた。

この治療がひと段落したら、若いときから通っている歯科医院に連絡して、検査と治療を受けることにした。

 循環器の方はまだ病院での診療が続く。「あとはかかりつけ医院でいいですよ」というレベルにはなっていない。

 その間も虫歯の穴が広がっているようなので、手術後1カ月を過ぎた時点で、歯科医院に連絡を取った。すぐ診てくれた。

虫歯の方は、判断が分かれた。犬歯は残し、親知らずは抜くことになった。主な健診は次回に行われる。

右上の親知らずはすでにない。右下の親知らずはそれで咬合ができないため、歯ぐきから浮き出ているのだという。そのうえ穴があいてボロボロになった。

15年前、右上の親知らずをひとまず温存すると決まったとき、大先生にいわれたことを思い出す。「この年になって32本残っているのは珍しい」

老衰が歯にも及んで次々に穴があくのではないか、総入れ歯になるのではないか――このごろは、そんな妄想がふくらむ。

2024年9月6日金曜日

3種類の新紙幣と対面

                                  
   1万円札は福沢諭吉から渋沢栄一へ、5千円札は樋口一葉から津田梅子へ、千円札は野口英世から北里柴三郎へ。

新紙幣が発行されてからほぼ2カ月。先日、やっと3種類の新紙幣とそろって対面した=写真。

渋沢は、いわきの実業家で政治家の白井遠平とは炭鉱開発などで協力し合う関係にあった。

北里の一番弟子は、いわき出身で「台湾医学衛生の父」といわれた高木友枝。猪苗代出身の野口も北里の弟子で、弟子から恩師へのバトンタッチとして新千円札を取り上げるメディアもあった。

というわけで、今回はいわきでも新紙幣への興味・関心が高まっているようだ。私もブログで何度か取り上げた。

白井が亡くなったのは昭和2(1927)年10月9日。地元の磐城新聞は11日付(当時は前日、つまり10日に夕刊として配達)で第一報を載せた。

12日付で続報、13日付で黒ワク(死亡広告)が載ったあと、15日付では通常2ページを4ページに増やし、紙面そのものに黒ワクを施して、まるまる白井の特集記事を組んだ。

3面には、「白井さんがなくなりましたか」という見出しで渋沢の追悼文が載る。いわきに炭鉱を興そうというとき、渋沢は地元のだれに相談したものか考える。

そのとき「人望もあり、才幹もあり、地位も県会の常置委員と云う地方最高の人であった翁を得たならば、成功期してまつべしと思い」、湯本温泉の旅館で白井に会ったのが最初だった。

さらに、白井の人柄、話術などをほめながら、鉄道敷設にまい進し、「常磐線の開通をみたのは皆白井さんの賜物だと思います」と回顧している。

5年前、新紙幣が発表になったとき、いわき民報が渋沢といわきの関係についてこう伝えた。

「スパリゾートハアインズを運営する常磐興産の前身・常磐炭礦は、明治17(1884)年に設立された『磐城炭礦社』が源流となっている。燃料調達の重要性から、渋沢は発起人の一人に名を連ね、会長に就任した」

 さて――と、ここからは文学にからむ話。白井は詩人草野心平の実祖父である。新紙幣が発行されたのを機に、いわき市立草野心平記念文学館で特別スポット展示「渋沢栄一といわき――草野心平の実祖父・白井遠平との関わりから」が始まった(10月27日まで)。

 こちらは入り口を入ってすぐのロビーが会場なので観覧は無料だ。草野心平の縁戚で白井遠平の玄孫(やしゃご)の関内幸介さん(平)が資料などを提供したという。明治から昭和初期までに出版された渋沢と白井に関する貴重な書籍などが展示されている。

草野心平記念文学館という場所柄か、あらためて強く思ったのは、心平、あるいは心平の兄・民平、弟・天平と、名前に「平」が付くことだ。その淵源は遠平だったか。

かたや祖父、かたや孫たち。草野3兄弟の命名者がだれかはわからないが、白井遠平と3人をセットで考えても問題はないだろう。