2024年9月4日水曜日

古関裕而展

                                
   昭和の歌謡史を彩る福島市出身の作曲家古関裕而(1909~89年)と、妻の金子(1912~80年)をモデルにした朝ドラ「エール」が放送されたとき、何回かブログを書いた。そのうちのひとつ、令和2(2020)年7月2日付を抜粋・再掲する。

――朝ドラと前後して、古関裕而の評伝を読んだ。刑部芳則『古関裕而 流行作曲家と激動の昭和史』(中公新書、2019年)、辻田真佐憲『古関裕而の昭和史 国民を背負った作曲家』(文春新書、2020年)で、ともに昭和史のなかで古関の人生と作品を論じている。

明治42年に生まれた古関の少年~青年期を、大正~昭和初期のメディア環境のなかでとらえてみたい。そう思っていた私には、大いに参考になった。

古関より一回りほど年長のいわきの人間、たとえば三野混沌(1894年生まれ、以下同じ)、猪狩満直(1898年)、草野心平(1903年)、若松(吉野)せい(1899年)たちは、若いころ、山村暮鳥を中心に文学活動を展開した。同人雑誌・地域新聞などの活字メディアが発表の場だった。

これに対して古関たちは、活字メディアだけなく、新しいメディアであるラジオにも影響を受け、表現の可能性を見いだしていったのではないか。

というのは、日本でラジオ放送が始まるのは大正14(1925)年3月だからだ。いわきの群像のなかで一番若い心平でも22歳になっている。影響を受けやすい少年期には、ラジオはなかった。

いわきは文学、福島は音楽。その違いがラジオ放送の有無だったと決めつけるわけではないが、重要な要素になっていたのは確かだろう。

辻田本にこうある。古関が福島商業学校(現福島商業高校)に通っていたころ、「北原白秋や三木露風の詩を好んでいたことに加えて、『楽治雄』というペンネームを使っていた(略)。いうまでもなく、ラジオに影響を受けたものだった」――。

 いわき市立草野心平記念文学館で9月23日まで、「古関裕而展――裕而と金子の往復書簡」が開かれている=写真(チラシ)。

日曜日(9月1日)に遅まきながら企画展を見てきた。心平とは、彼が県内小中学校の校歌や「猪苗代国体讃歌」の作詞を手がけたときに交流があったという。

古関は西條八十らともつながっていて、久之浜一小の校歌は同校出身の歌手霧島昇を介して、西條が作詞を、古関が作曲を担当した。

私が物心づいたころはやった流行歌に「高原列車は行く」がある。作曲はもちろん古関、作詞は小野町出身の丘灯至夫で、カラオケでなにか1曲をといわれたときには、よくこの歌をうたった。

四倉にあった磐城セメント(現・住友大阪セメント)の社歌も、西條が作詞し、古関が作曲したそうだ。

 そのとき、そのときで人とつながり、土地とつながる。そういう縁の重なりのなかでいわきにも「古関メロディー」が根付いた、ということなのだろう。

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