母方の祖父について書いた文章がある。現役のころ、新聞の1面コラムとは別に、中面で「みみずのつぶやき」と題する週一のコラムを持っていた。30年前、46歳のときの感慨でもある。それを要約して紹介する。
――叔父が死んで、通夜の席にいとこが顔をそろえた。グラスを交わしながら雑談していると、「この家の先代はなぁ……」と隣組の長が割って話を始めた。
先代とは祖父のことである。祖父をよく覚えている者、うろ覚えの者、全く記憶にない者と、いとこも年齢によってさまざまだ。
祖父は仙台で生まれ育った。長じると阿武隈の山里へやって来て、素封家の家に住みついた。使用人にでもなったのだろうか。やがて地元の女性、つまり祖母と結婚し、二男一女をもうけた。
「じっちはな、人がわらじを十五足つくるとき、十八足もつくる努力家だった」という。そのうえ寡黙。初めて聞く話である。戦後の農地改革で土地を手に入れるという幸運はあったものの、ひたすら働いて恒産を築いたらしい。
祖父が縁もゆかりもない山里に現れたのは、明治の終わり近くだろう。流れ者がムラに住みつき、一家を構えるのは容易なことではない。
なぜ故郷を捨てたのか。ムラの中でどんな思いで生きてきたのか。この年になれば、明治の流民の一人を近代史の文脈の中で調べてみたい思いにかられる。――
わが実家と同じく、阿武隈の山里に母の実家がある。今は同じ敷地内に隠居があるが、私が子どものころは、隠居は実家(叔父の家)とは別に、西方の山麓にポツンと離れてあった=写真(隠居の跡は杉林になった)。
そこへ母親に連れられて泊まりに行った。夜になると、石油ランプに灯がともされた。風呂は便所と隣り合わせで外にあった。手持ち棒付きの提灯で足元を照らし、それを明かりにして風呂に入った。枕元には寝る前、角行灯がともされた。
三つか四つのころ、夕食を食べようというときに、ゆるんでいた浴衣のひもを踏んで囲炉裏の火に左手を突っ込んで大やけどをしたことがある。
それと前後する記憶だが、囲炉裏のある部屋の隣室で病臥していた祖父の顔をはっきりと覚えている。
先日、母の実家の跡継ぎ(いとこの息子)から手紙が来た。国の事業による農地の基盤整備が始まった。その計画地内に曽祖父(私からみると祖父)名義の土地があるので、名義変更が必要というものだった。
あらかじめ実家の兄から話を聞いて了解していたので、同封の書類のほかに必要な書類をそろえて返送した。
そのとき初めて、祖父の没年月日を知った。私が3歳になったばかりだった。ということは、やけどをする前にちがいない。
それに刺激されて、30年前に書いた文章を読み返した。祖父は長命だったという記憶はない。その年齢をたぶん、私はとっくに過ぎている。
祖父のような人間が額に汗して土地を耕し、家族を養ってきたのだと、今さらながらに震えるような感慨を覚えた。
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