2024年9月6日金曜日

3種類の新紙幣と対面

                                  
   1万円札は福沢諭吉から渋沢栄一へ、5千円札は樋口一葉から津田梅子へ、千円札は野口英世から北里柴三郎へ。

新紙幣が発行されてからほぼ2カ月。先日、やっと3種類の新紙幣とそろって対面した=写真。

渋沢は、いわきの実業家で政治家の白井遠平とは炭鉱開発などで協力し合う関係にあった。

北里の一番弟子は、いわき出身で「台湾医学衛生の父」といわれた高木友枝。猪苗代出身の野口も北里の弟子で、弟子から恩師へのバトンタッチとして新千円札を取り上げるメディアもあった。

というわけで、今回はいわきでも新紙幣への興味・関心が高まっているようだ。私もブログで何度か取り上げた。

白井が亡くなったのは昭和2(1927)年10月9日。地元の磐城新聞は11日付(当時は前日、つまり10日に夕刊として配達)で第一報を載せた。

12日付で続報、13日付で黒ワク(死亡広告)が載ったあと、15日付では通常2ページを4ページに増やし、紙面そのものに黒ワクを施して、まるまる白井の特集記事を組んだ。

3面には、「白井さんがなくなりましたか」という見出しで渋沢の追悼文が載る。いわきに炭鉱を興そうというとき、渋沢は地元のだれに相談したものか考える。

そのとき「人望もあり、才幹もあり、地位も県会の常置委員と云う地方最高の人であった翁を得たならば、成功期してまつべしと思い」、湯本温泉の旅館で白井に会ったのが最初だった。

さらに、白井の人柄、話術などをほめながら、鉄道敷設にまい進し、「常磐線の開通をみたのは皆白井さんの賜物だと思います」と回顧している。

5年前、新紙幣が発表になったとき、いわき民報が渋沢といわきの関係についてこう伝えた。

「スパリゾートハアインズを運営する常磐興産の前身・常磐炭礦は、明治17(1884)年に設立された『磐城炭礦社』が源流となっている。燃料調達の重要性から、渋沢は発起人の一人に名を連ね、会長に就任した」

 さて――と、ここからは文学にからむ話。白井は詩人草野心平の実祖父である。新紙幣が発行されたのを機に、いわき市立草野心平記念文学館で特別スポット展示「渋沢栄一といわき――草野心平の実祖父・白井遠平との関わりから」が始まった(10月27日まで)。

 こちらは入り口を入ってすぐのロビーが会場なので観覧は無料だ。草野心平の縁戚で白井遠平の玄孫(やしゃご)の関内幸介さん(平)が資料などを提供したという。明治から昭和初期までに出版された渋沢と白井に関する貴重な書籍などが展示されている。

草野心平記念文学館という場所柄か、あらためて強く思ったのは、心平、あるいは心平の兄・民平、弟・天平と、名前に「平」が付くことだ。その淵源は遠平だったか。

かたや祖父、かたや孫たち。草野3兄弟の命名者がだれかはわからないが、白井遠平と3人をセットで考えても問題はないだろう。

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