2024年9月11日水曜日

吉野せいは生誕125年

                               
   いわき駅前の総合図書館では、令和6(2024)年度前期常設展「生誕140年 三猿文庫の中の暮鳥と夢二」のほかに、前期企画展「吉野せい入門」が開かれている=写真(解説資料の表紙)。

 なぜ今、吉野せい?と思ったら、今年が生誕125年、そして彼女の作品集『洟をたらした神』出版50年の節目の年だという。

なるほど。そういう理由から、あらためて吉野せいを知ってもらおうと、企画が練られたわけだ。市立草野心平記念文学館が共催している。

三猿文庫と山村暮鳥・竹久夢二については、月曜日(9月9日)に拙ブログを再構成して紹介した。

吉野せいについてもたびたびブログで取り上げている。常設展と同じように、企画展に合わせてブログを再構成して紹介する。

まずは生涯――。吉野せいは明治32(1899)年、小名浜の網元の家に生まれた。尋常小学校高等科を卒業すると就職し、独学で小学校教員の検定試験に備える。

試験に合格したせいは、現勿来二小や母校の小名浜一小で教師として働く。そのころから文学に興味を持ち、平に赴任した暮鳥らの雑誌や新聞に短歌などを投稿するようになる。

大正10(1921)年、せいはのちに暮鳥の盟友となる詩人三野混沌(吉野義也)と結婚し、好間の菊竹山で果樹農家として開墾生活に入った。

詩を書き、人のために奔走する夫に代わって、せいは生業と家事、子育てに明け暮れた。

夫の死後、半世紀の間封印していた文筆活動を再開し、昭和49(1974)年、作品集『洟をたらした神』を出す。

同書は翌年、田村俊子賞と大宅壮一ノンフィクション賞を受賞する。世間は「百姓バッパ」の壮挙にわいた。

さらに同書は劇化され、いわきでの2回目の公演益金を基に、同53年、新人のすぐれた作品を顕彰する吉野せい賞が創設された。

企画展ではほかに、草野心平との交流、大宅壮一ノンフィクション賞や市政功労表象式などを伝えるいわき民報の記事などが展示されている。

同紙との関係でいうと、せいは昭和45年11月16日から47年11月6日まで、「菊竹山記」と題して、断続的にエッセーを連載した。

このなかには夫・混沌や、夭折した娘・梨花に触れたものなど、せいの作品の原型といえるものもあると、解説資料で紹介されている。

せいは『洟をたらした神』のあとにも、作品集『道』を刊行した。「白頭物語」はせいの幼少期、タイトルと同じ「道」は青春期に通じる作品といえる。

その後の結婚~子育て~夫の死と老いをあつかった『洟をたらした神』と合わせると、せいは自分の生涯を作品として振り返ったことになる。

解説資料にある吉野せいゆかりの地図も参考になる。せいは菊竹山のふもとの龍雲寺に眠る。

次女の梨花は急性肺炎のために、わずか9カ月余でこの世を去った。そのとき、夫の生家がある平窪の菩提寺へと葬列が向かうのを、せいは見送っている。今は夫だけでなく、梨花も一緒だ。

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