2025年1月31日金曜日

道路陥没

                      
   埼玉県八潮市の道路交差点の陥没事故が頭から離れない。すぐそばで新たな陥没が発生し、二つがつながって大きな穴になった。事故は発生3日目の1月30日現在、まだ「進行中」だ。

報道によると、地中に埋設されている下水道管が破損したために、上部の土砂が流れ込んで空洞ができた。それが拡大して道路が陥没し、走行中のトラックが転落した。

トラックの荷台部分は間もなく吊り上げられたが、運転席は崩れた土砂と水につかったままだという。

 運転席にもワイヤをかけて吊り上げようとしたが、そのワイヤが切れた。土砂と水でかなりの重さになっているのだろう。今はただ運転手が無事に助け出されることを祈るしかない。

 この種の陥没事故は日本のどこでも起こり得る。わが家の前の道路にも下水道管が埋設されている。

このいわきで、わが家の前の道路で、八潮のような陥没事故が起きたら……。想像しただけでもゾッとする。

わが家の前の道路に下水道管が埋設されていることを知ったのは、東日本大震災の直前、歩道の側溝と下水道管を直結する工事が行われたときだ。

ちょっとした雨が降ると、歩道がすぐ冠水する。それを抑えるために、側溝と下水道管をつなぐ工事が行われた=写真。

その後、地形分類図をながめて、あらためてわが住む地域が水に弱い理由を知った。わが家は前の道路も含めて夏井川の旧河道の一部だ。

夏井川の流路が定まらない時代には、川岸はアシの茂る湿地帯だったにちがいない。それがやがて水田になり、宅地化され、残っていた田んぼも東日本大震災後、姿を消した。

 報道によると、八潮の陥没現場も昔は河川に近い湿地帯だった。地盤工学が専門の学者は、現場周辺は地下水位が高く、砂よりは細かいシルト層の軟弱地盤だという。

下水道管に穴があくメカニズムに触れる報道もあった。それによると、生ごみなどの有機物から硫化水素が発生し、それが空気に触れて硫酸となる。

硫酸が下水道管を溶かし、あいた穴から土砂が流れ込むことで地中に空洞ができた可能性が大きいというのだ。

わが家の場合、直結工事が終わって道路に土が戻され、道路にアスファルトが盛られた。やがてそこにへこみができた。乗用車はともかく、トラックが通るとズン、グラッとなる。東日本大震災では家の基礎にひびが入った。それも影響していたのだろう。

市に連絡すると、道路パトロールカーが来て、“へこみ”にアスファルトを盛り付けた。それで家の揺れは収まった。

ちょっとした段差やずれが、やがては大きな事故を誘発する。八潮の場合も最初は小さな、小さな穴だった。それが、あれほどの大きな事故につながった。建設より維持管理、メンテナンスの時代に入ったということなのだろう。

2025年1月30日木曜日

干し柿

                      
   用があってカミサンの実家へ行ったら、帰りに干し柿をもらった。化学繊維のロープに枝ごと10個はさまっていた。

「冷蔵庫に入れておくように」という。台所の棚かどこか、常温の場所に置いておくとすぐカビが生えるらしい。

義弟が皮をむいて軒下につるしたのか、あるいは知り合いからもらったのかは聞き忘れた。

が、いかにもうまそうな色と形をしている。まずはロープから1個をはずして試食する=写真。

表面の色はこげ茶。触ると弾力があってやわらかい。先の方からひとくちかじる。甘くてとろけそうだ。

種は? 米粒大のものが3個と、それより大きいものが1個出てきた。「種なし」ではないが、こんなに種が小さい柿はあまり記憶にない。

なによりもまず、やわらかいのと甘いのに驚いた。完熟した甘柿を干し柿にしたのではないか。最初はそう思ったが、すぐそれはあり得ないことだと知る。

わが家の道路向かいの奥、故義伯父の家に甘柿がある。何年か前、熟しすぎた柿を収穫して皮をむいたら……。中身がたちまち崩れた。

熟した甘柿は中身がトロトロになっている。それをみこしてタッパーを用意する。その上で皮と種を取り除き、崩れた実をタッパーに入れて、スプーンでならしてから冷凍した。

残った熟柿の皮にはたっぷり身が付いている。そのままだと虫が付くので水で洗い流したあと、ヒーターの近くにおいて皮を乾かした。それから陰干しをし、白菜を漬けるときに風味用として甕に入れた。

熟柿はやがて絶妙な氷菓になった。甘柿シャーベット、「かき氷」ならぬ「柿氷」だ。熟柿が余ったら冷凍保存をする、ということをそれで覚えた。

甘柿の実が少しやわらかくなった時点で、四つに切ったのを冷凍したこともある。それだけでも十分甘い。

若いころ、いわき地方の方言や郷土料理に詳しい知人の家を訪ねたとき、冷蔵の干し柿をもらった。知人の家ではそうして保存しておいて、正月に干し柿を食べるのだという。この風習にならって応用してみた。

甘柿の切断面にフォークを差し込み、少し時間をおいて解凍しかかったのを食べると、冷たくて甘かった。

 酒を飲む前に柿を食べると、悪酔いや二日酔いの予防になるという。で、このところ毎晩、干し柿を食べている、といいたいところだが……。

断酒中の今は、晩ごはんの前に干し柿を食べることはしない。といって、日中はあまり間食をしないので、つい干し柿があることを忘れてしまう。

おやつを食べる習慣がない。が、このごろはカミサンが、3時のお茶のついでにコーヒーやらなにやらを持ってくる。そのときに冷蔵庫から取り出すとするか。

2025年1月29日水曜日

少しずつゴクン

            
 去年(2024年)の夏は、コップに氷を浮かべて冷えた水を一日に何回も飲んだ。そうしているうちに、少しずつ飲み方が変わっていった。

 最初はゴクゴク連続して飲み干すようにしていたのが、いつからかひとくちずつゴクンとやって、水が食道を下っていくのを確かめるような飲み方に変わった。

 すると、なぜだか知らないが、いつもの水道水なのに「冷たくてうまい!」と感じられるようになった。

 はじめは、のどを潤すだけでなく、内部体温を下げる目的があった。が、「うまさ」を知ってからは、味覚を優先してゴクンとやるようになった。

酷暑の夏がそのまま秋になって、歯の治療が始まった。歯医者通いは今も続いている。

75歳と80歳を対象にした無料の歯科口腔健康診査の通知も届いたので、併せてチェックしてもらった。

そのときに、年寄りは誤えん性肺炎(歯周病菌が肺の中に入り込み、炎症を起こす)になりやすいことを知った。飲食物が食道ではなく、誤って気管に入り込むとそうなる。

 原因は老化や脳血管障害などによる飲み込み機能の低下、セキをする力の低下など、だという。

 水の飲み方がゴクゴクではなく、ゴクン、そしてまたゴクンとなったのは、誤えんを意識してのことではなかった。

が、ゴクゴクと連続してやっていると、たまにむせることがある。食事中もそうだ。で、生理的な反応としてゴクゴクからゴクン、ゴクンに変わった、という面はあるようだ。

でも、なぜ「うまい!」と感じたのだろう。味覚には甘味・酸味・塩味・苦味・辛味などがある。

味覚は味蕾で感じていて、舌のどの部分でもまんべんなく味を感じるそうだが、「うまさ」はどうも舌の奥、のどの方で感じているようだ。

飲み方を確かめた。口に入れた水を、舌で押し込むようにして奥に流し込む。それからのどでゴクンとやる。このとき、あごは引きぎみにしている。

水やお茶だけでなく、牛乳=写真=も、乳酸飲料も、少しずつ何度かに分けてゴクン、そしてまたゴクンとやると、回数だけうまさを経験することができた。

自己流かもしれないが、あごを引いて、少量をゴクンとやっている限りむせる心配もないようだ。

味覚から離れて使われる「味」がある。たとえば、「先味(さきあじ=前味)・中味(なかあじ)・後味(あとあじ)」。

比喩的には、何かが終わったあとにあまりよくない印象が残ったりすると、「後味が悪い」という。

が、お茶や水のゴクンはたとえではなく、文字通り「後味」がいい。この年になって知った飲み方、といえばいえるか。

2025年1月28日火曜日

白菜漬け3回目

                     
   最初の白菜漬けは三和産で――。そう決めているので、師走に入るとすぐ三和町のふれあい市場へ出かけて2玉を買った。翌朝、それぞれ八つに割って干し、夕方には甕に漬け込んだ。

風味用のユズはあらかじめ、沿岸部に住む後輩に頼んで調達した。ミカンの皮や唐辛子=写真、カキやリンゴの皮などは、秋に陰干しをしていたのを使った。

昆布だけは在庫が切れていたのに気づかなかった。さあ漬け込むぞという段になって、あわてて近所のスーパーへ買いに行った。

2回目は師走の17日に漬けた。カミサンの友達から、同じく三和産を2玉もらった。いつもの要領で漬け込んだ。

が、水が上がると同時に白い粒々が現れ、水の表面が膜状になった。早くも産膜酵母が発生した。

原因は何だろう。1回目は何事もなく食べ終えることができた。1回目と違うのは、水が上がるとすぐ重しを軽いものに切り替えたことだ。

それで水の上がりが弱くなり、白菜が空気と接している部分が増えて、好気性の酵母菌が繁殖したのだろう。

塩分濃度が低かったり、気温が高めに推移したりすると発生しやすいという。白菜を取り出すたびに、いったん水で産膜酵母を洗い流してから食べるようにした。

産膜酵母は糠床でも見られる。2022年の初夏の記録(ブログ)が残っている。それを要約する。

――暦の上では真夏はまだ先だが、梅雨入り前後(6月中旬)から、糠床の表面にポツン、ポツンと白く産膜酵母が見られるようになった。

産膜酵母は耐塩・好気性がある。空気に触れている時間が長いと、そして気温が高いと、活発に増殖する。

糠床の塩分がもともと低いところに暑い日が続いた。酵母にとっては好条件が重なった。で、食塩を追加するのと同時に、庭のサンショウの若葉を摘んで混ぜ込んだ。

産膜酵母には直接的な害はない。そのまま混ぜ込むが、味はだんだん古漬けのようなものになっていくというので、木の芽を入れたり、新しい糠を投入したりして、味をととのえないといけない――。

さて、その白菜漬けも減ってきた。3回目の漬け込みを準備しないといけない。厳冬のピークなので、三和産にこだわる必要はなくなった。

平地の直売所から2玉を買って来た。なんと1玉500円である。メディアはキャベツの高騰を取り上げていたが、それに引きずられるようにほかの葉物野菜も値を上げているという。

 1月22日朝、軒下に白菜を出して干し、夕方には取り込んで漬けた。今冬3回目である。

 水の上がりは、2回目と違って早い。重しはまだそのままにしておく。水が上がり切った段階で、軽いものに切り替える。

義弟がいなくなった分、減り方が遅い。たまたまわが家へ用があって来た同級生に1回目の白菜漬けをあげたら……。

顔を合わせると「あの白菜漬けはうまかった」と強調する。サイソクを無視するわけにもいかないか。

2025年1月27日月曜日

日本語スピーチコンテスト

                     
   いわき地球市民フェスティバルが1月25日午後、いわき市文化センターで開かれた。以前は国際交流・協力団体などがブースを持って展示・紹介をしていたが、平成29(2017)年からは日本語スピーチコンテストに切り替わった。

フェスティバルは回を重ねること、今回で23回だという。カミサンがシャプラニールいわき連絡会の代表をしているので、私も初回からカミサンのアッシー君として展示用の荷物運びを手伝ってきた。

「外国にルーツを持つ市民」によるスピーチコンテストになってからは、浮世の義理で審査員(前は5人、その後4人になり、今回は3人)を務めている。

 会場は最初いわき駅前のラトブ、次に常磐の古滝屋、そして平のいわきPITに変わり、今回は文化センターの大ホールという大きな舞台が用意された。

 コロナ禍のために、動画による審査になった年もある。前回のフェスティバルはどうも記憶にない。で、ネットで調べたら理由がわかった。

スピーチコンテストに代わって、平中央公園を会場に、それぞれの国の文化などを紹介するイベントが行われた。

その意味では2年ぶりの開催である。一般の部に技能実習生を中心にした12人、高等教育機関の部に東日本国際大学と福島高専の学生13人が出場した。

発表者の「態度」(観客の方を見て話しているかどうか――など)と「「内容」の両方から評価した。

 一般の部では、「ベトナムと日本の文化について」や「日本はアジアのイギリス」といった話、インドの「タミル文化」の紹介などが印象に残った。

 学生の演題は、「一期一会」や「『いわき』は第二の故郷」「人生が変わった日」「私の祈り」「建前」などで、それぞれに感じたこと、考えたことなどを話した。

 この結果、一般の部では「いろいろな思い出ができた4年間」と題して話した主婦スウィピョーさん(ミャンマー)が最優秀賞を受賞した。

高等教育機関の部は「時は金なり」の福島高専3年生モハマド ファリス フィトリ ビン モハマド アジジさん(マレーシア)が最優秀賞に選ばれた。

 前回までと違って、今回は中国と韓国出身の出場者がいなかった。母国のクーデターに触れる出場者もいた。

 表彰式が終わり、記念撮影が行われた=写真。学生の最優秀賞受賞者と隣り合わせになった。

「長い名前だね」というと、「後ろは父親の名前です」と教えてくれた あとで、ネットで確かめる。マレー系の人間は、名字は持たない。自分の名前のあとに父親の名前がくる、とあった。「ビン」は「息子である」という意味だそうだ。

共生社会への一歩は、まず話してみる、外側=異文化の視点に触れてみる。そこからではないか――という意味では、今度も貴重な機会になった。

2025年1月25日土曜日

味噌汁の味

                      
 日曜日に目当てのカフェが休みだったので、別の店で昼食をとった。量としては中くらいのハンバーグ定食を頼んだ。味噌汁が付いてきた。

 汁をすすったとたんにうなった。「しょっぱい」。外食店だから、誰もがしょっぱさを感じる味噌汁を出すはずがない。そこはあんばいよくまとめているはずだ。

 としたら、こちらの味覚が変わったのだ。カミサンも塩分が濃いように感じたらしく、私の反応に同意した。

 理由は簡単だ。というより、はっきりしている。わが家の味噌汁=写真=がうす味になってからだいぶたつ。

わが家はうす味に切り替わったが、世の中の味噌汁は平均的な塩味で、その違いが出たのだろう。

義弟が隣家に住んでいた。朝昼晩とわが家で食事をとった。慢性心臓病のクスリのせいで塩分を制限しないといけなくなり、カミサンが味噌汁をうす味にした。

うす味の味噌汁に切り替わったのはいつだったか。記憶がはっきりしないが、だいぶたつ。

最初はまったく舌になじめなかった。今ではすっかり慣れた。「うまい」とはいえないが、「まずい」とは思わなくなった。

 去年(2024年)の7月、脳梗塞予防の心臓手術で1週間ほど入院した。慢性の不整脈と高血圧のために、食事は「塩分制限食」になった。味噌汁も、漬物も出なかった。

退院して一番うれしかったのは、味噌汁と漬物が復活したことだ。義弟に合わせた減塩味噌汁でも、あるだけありがたい。「全くなし」では食べる楽しみが半減する。

義弟は病院とデイケア施設に通っていた。それが11月初めに亡くなった。うす味の味噌汁はしかし、その後も続いている。

義弟の症状は私の体を映す鏡のようなものだった。心臓病だけでなく、糖尿病になったら、どんな症状があらわれるのか、そのときどう対処したらいいのか。

クスリは、血糖値は、そしてインシュリンは、ぶどう糖は……。義弟が病院から持ち帰った薬を振り分ける姿を見ているだけでも頭がこんがらかりそうだった。

若いときには体そのものに復元力があった。義弟も、私も、年をとって基礎疾患を抱える身になった。

今はクスリの力を借りて症状を抑えている。義弟はそれがかなわなかった。そのことも教訓としなければならない。

外食店の味噌汁を「しょっぱい」と感じたのは、むしろ減塩化がプラスに作用した証拠だろう。

ついでにいえば、退院からざっと半年、断酒を続けている。「かかりつけ医院へ戻っていい」といわれるまでは――。それが目安だが、断酒が当たり前になったら、晩酌の楽しみはなくなる。

2025年1月24日金曜日

カラスの休み場

                      
 「定点」ならぬ「定線」観測をしていると、「あれっ、これは……もしかして」と思うことがある。

たとえば夕方、平の街から帰るのに夏井川に架かる平神橋を渡り、大学のある丘(鎌田山)のふもとを回って堤防へ出たとき。

堤防に沿って伸びる電線に続々とカラスが現れては止まる=写真。ねぐらは別にあって、そこへ戻る前に一休みをして「会議」を開いているような雰囲気だ。

前からそうだったかもしれない。が、前はこんなに止まっていなかったような……。もしかして、そばの河川敷にあったヤナギとヤマザクラが切り倒されたからではないのか。

4年前の令和3(2021)年2月3日にそのことを書いたブログがある。要約して再掲する。

――河川敷に1本しかないヤマザクラがある。夕方、カラスがねぐらへ帰るときの休み場=ヤナギの大木もある。

令和元年の台風19号が平・平窪地区を中心に甚大な被害をもたらした。再び人命と財産が失われないようにと、夏井川の河川敷の除草・伐採・土砂除去が行われた。このヤマザクラとヤナギの木も伐採された。岸辺の畑には重機が入った。

ヤマザクラは自生だろうか、だれかが植えたのだろうか。花が先に咲くソメイヨシノと違って、葉と花が同時に開く。

地味だが、咲き始めにほんのり赤らむようなたたずまいのヤマザクラが好きだ。街場にあって、それなりに生長したこの木は、特に「気になる木」だった――。

その後、わが生活圏(夏井川左岸地区)では、工事は対岸、新川合流部から上流・北白土の間で行われた。

そちらが終わったために、今度はこちら側、左岸・鎌田から下流に向かって工事が始まった。

ここは、ダンプカーが岸辺を移動するには狭すぎる。そのため、浅瀬に石を投入して仮設道路をつくり、堤防から岸辺の間で除伐、土砂除去が行われている。

場所からいうと、ヤマザクラとヤナギが伐採された場所からちょっと下流になる。工区の関係で重機が入るのが今になったのだろう。

カラスは工事が始まる前も、ヤナギの大木のほかに電線で一休みをしていた覚えがある。休み場である大木が消えても、「群れの記憶」は生きているのだろう。

 平の市街は鎌田山が壁になり、平神橋(と平大橋)が東からの入り口になる。市街の先、西方には衝立(ついたて)のように山の稜線が伸びる。湯の岳から三大明神山などだ。

平神橋の東たもとには送電鉄塔が立つ。その電線にも、夕方になるとカラスが現れて、ほぼ等間隔に止まる。

ねぐらはどこにあるのか。これは勝手な想像だが、市街地から見える西方の山々ではないのか。

街の上空を横切るにはそれなりに体力がいる。一休みをして、それからねぐらへ向かう。集団で休んでいるカラスを見ると、いつもそんなことを思い描く。

2025年1月23日木曜日

ひばりとテレサ

             
   美空ひばり(1937~1989年)とテレサ・テン(1953~1995年)。この2人の歌は振付がなくてもいい。声そのもので人を酔わせる。

亡くなってから今年(2025年)でそれぞれ36年と30年がたつが、今も時折、テレビで特集番組が流れる。だいたいは見逃さない、いや聞き逃さない。

先日はNHKBSでテレサの特集番組が再放送された。日本での最後の単独公演となったNHKホールでのコンサートを再編集したものらしい。

タイトルに「名盤ドキュメント テレサ・テン生誕70年ベスト アジアの歌姫は何を歌ったのか」とあった。

テレサのことになると、おしゃべりの止まらない同級生がいる。台湾にあるテレサの墓参りもしたという。

親は蒋介石とともに中国大陸から台湾へ移住した。テレサは台湾で生まれた。日本統治時代の台湾とは無縁だが、彼女の日本語の発音には違和感がない。明瞭な美声に引かれる。

ひばりはさらにその上をいく。団塊の世代は彼女より10歳ほど若い。私が物心づいたころから、彼女はスターだった。

「港町十三番地」は小3のときにはやった。小学校に上がる前のヒット曲「悲しき口笛」や「私は街の子」「お祭りマンボ」はメロディーを覚えている。好き嫌いを超えて、ひばりの歌が体にしみこんでいる。

歌い手としてはむしろ晩年になってから、その「天性」に引かれた。長期入院を余儀なくされたあと、ひばりはいわきの塩屋埼の海をモチーフにした「みだれ髪」と「塩屋岬」で復活する。みごとな歌唱力だった。

ひばりの死をニュースで知ったとき、字余り五七五がポロリと口をついて出た。「舌頭に港町十三番地ひばり逝く」。無意識のうちに彼女のヒット曲「港町十三番地」を歌っていた。

 それからしばらくして、塩屋埼灯台のふもとに「雲雀乃苑(ひばりのその)」ができた。「みだれ髪」の歌碑と遺影碑、「永遠のひばり像」が立つ。

東日本大震災では灯台の南・豊間と北・薄磯の集落が大津波で壊滅的な被害に遭ったが、「雲雀乃苑」の一帯だけは海に突き出た岬に守られたのか、無事だった。

 この「雲雀乃苑」の一角に、新しくブロンズの「ひばり像」が立ったというので、新年の「初ドライブ」のときに訪ねた=写真。観光客の車が何台も止まっていた。

報道によると、もとは京都太秦(うずまさ)映画村にあった。像は、高さが154センチ。等身大だそうで、和服姿で胸の前で手を組んでいる。

その姿が、3・11の大津波で亡くなった人々を悼む姿に見えることから、映画村閉館後の安置先として雲雀乃苑への移設が決まったという。

体は小さく細いが、「みだれ髪」は深くて切ない。塩屋の岬に立っていると、かすかに「みだれ髪」が脳内に鳴り響いた。

2025年1月22日水曜日

人間が去ったあとの自然

                              
   昭和50年代に入ると、公害問題に替わって環境問題が取りざたされるようになった。「人間が自然に立ち入るのを制限すべきだ」と主張する研究者もいた。

阿武隈の山里で育った人間には、この論調が理解できなかった。自然は自然、人間は人間。人間は自然に立ち入るな――では、林業は成り立たない。木を伐り、炭を焼き、山菜とキノコを採ってきた山の民はどうすればいいのか。

その疑問に答えてくれたのが、同年代の哲学者内山節さんの『自然と人間の哲学』(岩波書店、1988年)だった。

自然と人間の関係を、自然と自然、自然と人間、人間と人間の3つの交通が影響し合ったものとして論じている。

阿武隈の山里で雑木林を遊び場にして育ち、就職後は森を巡ってキノコや山菜を採るようになった人間には、内山さんの自然哲学が大いに納得できた。

人間は自然を活用しながら、自然を守ってきた。自然と人間の交通が濃厚だった森から人間が遠のいたとき、森を形づくるのはもともとの自然と自然の交通だ。

森の中の樹木と野草、動物、微生物、それに雨、風、陽光など、さまざまな自然の要素が絡み合い、人間に影響されない環境を再構成する。

森の周囲はやぶに覆われ、つるが行く手を遮っていても、自然の成り行きにまかせるしかない。とはいえ、人間がもたらした気候変動の影響は受ける。

カル・フリン/木高恵子訳『人間がいなくなった後の自然』(バロウズ賞=草思社、2023年)=写真=を読みながら、内山さんの自然哲学を思い出していた。

著者は2年をかけて、キプロスの緩衝地帯(戦争)やウクライナのチョルノービリ(チェルノブイリ=原発事故)、アメリカのデトロイト(経済崩壊)など、「最悪のことが起きてしまった」世界の12カ所を旅する。

やはりチョルノービリの描写に目が留まる。事故直後、ある老夫婦が村に帰還し、オオカミがすみつくようになった。

さらに数年後、森林や放棄された農地が、オオヤマネコやイノシシ、シカ、ヘラジカ、ビーバー、ワシミミズクなどの聖域になった。

 「放射線が蓄積されるのは地衣類、池の藻類、カタツムリやムール貝の殻、シラカバの樹液、菌類、草木灰、人間の歯などである」

 著者は東電福島第一原発の事故にも触れる。「この事故は、一時は東京全域の住民の避難が検討されるほど深刻なもの」だった。そして、現在も帰還困難区域が設定されている、と。

 旅をした結論として、著者は「自然界はすでに、必然的に、しかるべく気候変動に適応している」という。世界の野生生物は北へ、高地へ向かい、動物たちは極地へ向かっている。

さて、人間界は――となると、気候変動をもたらした自然と人間の交通(人間の側の過剰な自然収奪)をどう修正するかだが……。「掘って、掘って、掘りまくる」という人もいるので、なかなか難しい。

2025年1月21日火曜日

セルフレジ

                     
   「お前百まで、わしゃ九十九まで。ともに白髪の生えるまで」。そんな言葉を思いおこすような「ジイバア人形」だ=写真。会津に住む後輩の奥方から届いた。手づくりだという。

ジイ様もバア様も頭は白い。ジイ様はそのうえ白い口ひげをはやして、焦げ茶色の毛糸の帽子をかぶっている。バア様の顔には丸い老眼鏡。ともに着物姿で赤い座布団にちょこんと座っている。

 遠い昔の大家族時代を象徴するジイバア人形にはちがいない。そのころは、世の中もゆっくり変化していた。

が……。核家族時代を生きるジイバアは、世の中の動きが速すぎてついていけない、と思うことがよくある。

 主に週末、車でスーパーへ買い物に行く。若いころも、年老いた今も、この習慣は変わらない。

 ところが人手不足とコロナ禍のためか、最近は対面のレジが減ってセルフレジが増えた。もちろん、レジのコーナーには操作にとまどう客を手助けする店員が控えている。

ある店は全部がセルフレジ、別の店は従来の対面レジがほんの何列か、というところまでリニューアルが進んだ。

対面で精算をするレジにはいつも長い列ができる。そこに並びながら、若い人たちがさっさとセルフレジで会計をすませるのを、感心しながらながめている。

しかしやっぱりセルフレジに慣れないと、これから買い物に支障をきたすのではないか、そんな思いもふくらむ。

カミサンが店員に聞いてやり方を覚え、私がそばに立ってそれを「学習」することにした。

商品に付いているバーコードを精算機に読み取らせるだけ。そして、表示に従って画面をタッチするだけ。

とはいっても、ジイバアがその流れをすらすらこなすまでには時間がかかる。ま、慣れてしまえば手間が省けることは確かだろうが。

 何度かセルフレジを経験したある日、いつものようにカミサンのわきに立って精算作業を見ていたら、ナメコのときに機械が2回続けて鳴った。

 精算後に出てきたレシートをチェックすると、図星だった。ナメコを1袋多く買ったことになっていた。

 ナメコの袋をかざしたあと、手元が揺れたかしてまたその袋のバーコードを精算機が読み込んでしまったのだ。

 近くにいた店員にいうと、精算を修正する場所に案内され、新しいレシートと多く払った金額の返還を受けた。レシートと実際の品数を確かめる必要があることを痛感した。

タッチパネルで注文する飲食店も増えた。休日なので外食を、となって入った店がそうだった。

水を持ってきた店員に頼んで注文した。支払いもセルフレジだ。ジイバアはタッチパネルとセルフレジで頭が真っ白になりそうだった。

2025年1月20日月曜日

やっとフキノトウが

                      
   日曜日をはさんだ先の連休は、用事があって隠居へ行けなかった。2週間ぶりの夏井川渓谷である。

快晴、無風。朝日に包まれた隠居の庭にいると、ぬくもりさえ感じられる。「光の春」である。 

「光の春」はロシア語からきている。厳冬期、伸びはじめた日あしに最初に春の兆しを感じる2月ごろの季節感をよく表している言葉だという。

2月にはまだ10日もある。が、日曜日(1月19日)の太陽は、この冬では一番、ひなたぼっこをしてもいいかなと思わせるやさしさだった。

あとでいわき地方の最高気温を確かめたら、小名浜で11・4度、山田で12・5度だった(同日午後5時現在)。

最低気温は小名浜で氷点下2・9度、山田で同じく3・6度、阿武隈高地の川内村では氷点下7・7度だった。

「日本海側は広く穏やかに晴れて、日差しのぬくもりを感じられそう」という天気予報だったが、太平洋側のいわき地方も同じような天気になった。

とはいえ、隠居の室温は朝10時で氷点下5度。1月も下旬の日曜日となれば、やはり寒さが際立っている。

よく知られた言葉を使えば、「光の春」に対する「寒さの冬」である。あとしばらくは「寒さの冬」と「光の春」の綱引きが続く。

庭の畑のへりに生ごみを埋めようとしたら、土が凍っていてスコップがはね返された。

生ごみを埋めて土をかけ、その上に金網と重しの石をのせる。するとほどなく、タヌキか何かが金網の脇からほじくり返して、生ごみを食い散らかす。

ところが、凍土が5センチほどあると手に負えないのか、2週間がたつのに食い散らかしは見られなかった。これでは人力でも掘り返せない。

師走にうねを崩して三春ネギを収穫し、土を戻したところがある。そこにスコップを差し込むと、なんとか入っていく。生ごみは2週間分ある。ちょっと深めに穴を掘って埋めた。

そのあとは下の庭へ下りて、地面に目を凝らしながら歩く。師走から日曜日のたびにチェックしているのだが、目当てのものが見つからない。

それが19日には、あった。フキノトウである。人間の親指ほどの頭が枯れ草の間からのぞいていた=写真。

不思議なもので、1個見つかると、ここにも、あそこにもと、頭をもたげかけているフキノトウが目に入った。

年によっては、師走のうちに頭を出す。元日の朝、カミサンが雑煮をつくる。そのためにフキノトウを摘んで、みじんにして雑煮に散らす。

今年(2025年)の元日には、それができなかった。が、新年の初物だ。まずは2個だけ摘んで、みじんにして味噌汁に散らすことにした。

2025年1月18日土曜日

『小説都庁』

                     
   作家の童門冬二さんは本名・太田久行。都庁マンだった。美濃部都政時代、ブレーンの一人として知事を支えた。

美濃部さんが昭和54(1979)年4月、3期退任すると同時に退職して作家業に専念した。在職中から本を何冊も出していた。

退職した年に本名で『小説都庁』を出す。ちょうどいわき市役所を担当していたときだったので、すぐ読んだ。

自分で買ったか、誰かから借りたかは記憶があいまいだが、そのころは30歳を過ぎたばかりだから、本屋に注文したのだろう。若かったのでよく飲み屋へ出かけていたが、本もそれなりに買って読んだ。

都庁も市役所も行政組織である点では変わりがない。が、都庁は巨大な組織だ、予算規模からいってもどこかの小さな国と変わらない。

そんな組織の中で個人はどう生きていくのか――といった問題意識から読み進め、役所と役人観を鍛え直したように思う。

 その前だったか後だったか、今となっては定かではない。アフターファイブに酒を酌み交わし、本音をぶつけ合う若い市職員が何人かいた。その若手職員が童門さんを講師に招いて勉強会を開いた。

これもまた記憶があいまいなのだが、夜、童門さんを囲む懇親会に呼ばれて出席した。勉強会が、童門さんといわきをつなぐ端緒ではなかったか。

平成9(1997)年、いわき市が生涯学習事業として「いわきヒューマンカレッジ」を始めると、童門さんが「学長」に就任した。以来毎年、学長講演が行われた。

平成28(2016)年に開かれた市制施行50周年記念式典では、童門さんも市外在住者として特別表彰を受けた。

 その童門さんが1年前の1月13日に亡くなった。本人の意向で一周忌がすむまでは公表を控えていたのだという。

1年後の1月13日午後、勿来文学歴史館で企画展「専称寺の文化財~僧侶の学問所~」を見た。帰りにはまん丸い月が出ていた=写真。十四夜の待宵月(まつよいづき)だった。

帰宅したあと、1年前の逝去を告げるニュースに触れて、そこまで自分を律していたのかと、あらためて月の夜に身の引き締まる思いがした

著作物の多さにも舌を巻いた。ウィキペディアに並ぶ本は、数えると400冊近い。タイトルをながめているうちに、昭和58(1983)年の『小説上杉鷹山』も読んでいたことを思い出した。

著作の最後の本はタイトルが変わっている。『マジメと非マジメの間(はざま)で』(ぱるす出版、2023年)。

「マジメ・非マジメ」は、個人的には「マジメ・不マジメ」よりは大事な視点だと思っている。これはいつか読んでみたい。

2025年1月17日金曜日

乾燥注意報

                      
 ロサンゼルスの山火事が頭から離れない。1月7日に発生し、1週間が過ぎた今でも鎮火に至っていない。

 報道によると、海沿いの高級住宅地で5千棟以上、内陸の住宅地では7千棟以上が焼失した。

 海に面した巨大都市なのに山火事が多いとは……。これまでにもロスの山火事のニュースに触れるたびに、疑問には思ってきたことだ。

 しかし、今回の山火事はケタ違いだ。焼失戸数はむろんのこと、火災現場が何カ所にも及んでいる。

 グーグルマップでロサンゼルスを見ると、北方に山脈と大きな砂漠がある。防災専門家などの解説によれば、太平洋側に低気圧があると、砂漠から乾燥した風が吹き寄せる。さらに山を越えるとき、フェーン現象が起きる。

とりわけ地球温暖化が進んだ今は、秋から冬にかけて森林が乾燥しやすくなっている。ちょっとした刺激で発火しやくなっている、ということなのだろう。

 いわき地方も冬から春にかけて、空気が乾燥した日が続く。前にも書いたが、私は乾燥注意報がどうにも気になって仕方がない。防災メールでも必ずチェックする=写真。

静電気に悩まされるからだけではない。火事が起きるとオオゴトになる――子どものときに経験したふるさとの大火事の記憶がよみがえるのだ。

拙ブログからそのときの様子を再掲する。今からちょうど70年前の昭和31(1956)年4月17日夜、東西にのびる阿武隈の一筋町があらかた燃えて灰となった。

乾燥注意報が出ているなか、町の西の方で火災が発生した。火の粉は折からの強風にあおられて屋根すれすれに飛んで来る。

そうこうしているうちに紅蓮の炎が立ち昇り(火災旋風だったのだろう)、かやぶき屋根のあちこちから火の手が上がる。町はたちまち火の海と化した。

 一夜明けると、見慣れた通りは焼け野原になっていた。住家・非住家約500棟が焼失した。

少し心身が不自由だった隣家(親類)のおばさんが、近所の家に入り込んで焼死した。それがたぶん、一番ショックだった。

 7歳では泣かなかった「こころ」が、46歳のとき、阪神・淡路大震災(きょうで発生から満30年だ)の被災者を思って泣いた。東日本大震災では、泣くだけでなく震えた。

「やっと家のローンを払い終わった」。大火事から30年余が過ぎていたように思う。ぽつりともらした亡母のことばが今も耳に残る。大災害からの再生にはそのくらいの時間がかかる。

20歳から5年刻みで同級会が開かれた。還暦同級会で、火の粉が吹きすさぶ中、ともに避難した幼なじみがしみじみと言っていた。

「あのとき、焼け死んでいたかも」。それぞれが荒れ狂う炎に追われ、着の身着のまま、家族バラバラになって避難したのだった――。

ロスの山火事でも同じように避難し、住まいを焼失した人がたくさんいる。その人たちの心中が察せられる。

2025年1月16日木曜日

専称寺展

                                 
   年末年始休が終わったと思ったら、3連休がきた。日曜日(1月12日)は用事があって夏井川渓谷の隠居へは行けなかった。

翌日は成人の日の1月13日。ひまを持て余したのか、カミサンが午後になって「どっかへ行きたい」という。

あれこれ行き先を考えていたら、まだ見ていない企画展を思い出した。いわきの南部、市勿来文学歴史館で「専称寺の文化財~僧侶の学問所~」展が開かれている(2月16日まで)。

わが家からすぐ近くにある常磐バイパス(現国道6号)にのれば、ほぼノンストップで勿来文歴に着く。

専称寺は、わが地域と夏井川をはさんだ対岸の山腹にある浄土宗の寺だ。街への行き帰りに堤防を通ると、本堂の伽藍が目に入る。

同寺は江戸時代、東北地方を中心に末寺が200を越える大寺院だった。同時に、主に東北地方からやって来た若者が修学に励む「大学」(名越派檀林)でもあった。

 この「大学」で学んだ高僧・名僧は数多い。そのなかの一人に江戸時代の俳僧一具庵一具(1781―1853年=出羽出身)がいる。幕末の江戸で俳諧宗匠として鳴らした。

その人となりを調べたことがある。歴史や宗教に詳しい故佐藤孝徳さんらの助けを借りた。

その佐藤さんが平成7(1995)年、『浄土宗名越派檀林専称寺史』を出したときには校正を引き受けた。

それで、同寺が「東北文化の交流の場であり、新たな文化の発信地」だったことを知った。いよいよ同寺の歴史に親愛と畏敬の念を抱くようになった。

東日本大震災で同寺は大きな被害に遭った。本堂とふもとの総門は「全壊」、庫裡は「一部損壊」の判定を受けた。今は本堂と総門の災害復旧工事も完了している。

企画展では佐藤さんの本でなじんでいた史料と対面した。「授手印」=写真(チラシ)と「境内図」(江戸中期)について思ったことを少し。

解説によると、同寺の授手印は正しく教え・戒律を相承したことを証明する書状の意味で使われている。先任の住職が朱で手印を押して後任の住職に渡した。展示されたのは専称寺十世・良拾が発給したものだという。

佐藤本の校正段階では、現物は見ていなかった。本物の授手印を見た感想としては「手が小さい」だった。カミサンの手とそう変わらない。ということは、良拾は身長150センチちょっとだったか。

 境内図には学僧たちの寮舎と思われる建物が、ふもとの総門のすぐ後ろと、中段の梅林になっているあたりに密集している。

 佐藤本には、かつて200人を越える学僧が学ぶ東北最大の寺院だった面影は十分残っている、とある。境内図からはそのにぎわいが立ちあがってくるようだった。

2025年1月15日水曜日

キノコ同好会の30年

        
  年末にいわきキノコ同好会の定期総会が開かれた。開催案内のはがきに「今後の会の運営について話し合いを行います」とあった。

同好会が発足してざっと30年。会員の高齢化と、それに伴う退会が続く。私も会員歴だけは古い。

若い人は入ってこない。世代交代が見込めない以上は、結論はひとつ。会員の親睦とキノコの知識の普及・啓発という目的は、十分果たされたのではないか。そんな思いで総会に臨んだ。

キノコの食毒を知りたい、というのが入会の動機だった。食欲のためだが、観察会と勉強会を重ねるうちに、キノコの世界の奥深さに触れた。

キノコは、色が多彩で形も多様。そのうえ、人知れず発生しては姿を消すものが多い。食毒を超えてキノコを学ぶ楽しみが増えた。

同時に、森で出合ったキノコから、同好会の仲間の話から、気候変動に思いをめぐらすこともたびたびあった。

南方系の毒キノコであるオオシロカラカサタケや、熱帯産の超珍菌アカイカタケがいわきで発見されたことがある。

いわきの沖合は黒潮と親潮がぶつかる「潮目の海」だ。山野でも同じように南と北の動植物が混交する。

とはいえ、海のイセエビやトラフグと同様、陸のアカイカタケなどの出現を驚きだけで終わってはいけない。

温暖化が進めば、北方系の動植物は北へ後退し、南方系の動植物は北上を続ける。気候変動が地域でも「可視化」されつつある。そのことをしっかり頭に入れておかないと――。キノコ同好会で学んだ最大の教えがこれだろう。

この30年の間の出来事では、東日本大震災に伴う原発事故が大きかった。相双地区を中心に、一時16万人強が避難を余儀なくされた。森のキノコも汚染された。いわきでは今も野生キノコの摂取・出荷制限が続く。

毎週、夏井川渓谷の隠居へ通っては森を巡った。林内では野草やキノコを観察し、秋にはヒラタケ=写真=などを収穫した。3・11以後は、それができなくなった。

キノコ同好会の会報には、事故の翌年から公的機関などで測定されたキノコの放射線量が載る。「キノコに降りかかった原発災害」には、しかし終わりが見えない。

総会ではやはり会の今後が議論された。結論からいうと、令和7(2025)年度は従来通り活動し、12月の定期総会を最後に解散する。会報第30号は総会時に発行し、最終号とすることが決まった。

今年は日本菌学会東北支部の観察会・総会がいわき市の石森山周辺で開かれる。受け入れ団体が地元にないのも寂しい、ということも、1年間の会存続につながった。

 個人的には、観察会を通じてキノコを学び、キノコを含む菌類への興味を深めることができた。同好会はその原動力だったと、あらためて思う。

2025年1月14日火曜日

枯木はワンダーランド

                               
   これはまさに日本の環境文学(ネイチャーライティング)だろう。深澤遊『枯木ワンダーランド――枯死木がつなぐ虫・菌・動物と森林生態系』(築地書館、2023年)=写真=を読んでそう思った。

サブタイトルにもあるように、枯死木をめぐる森林の生態を一般向けに分かりやすく書いた本だ。

著者は信州大学生のとき、講義で菌根菌を知り、それまで通っていた植物社会学の研究室からキノコの研究室に鞍替えをする。その後、京都大学大学院農学部研究科を修了する。

本を出したときは東北大学の大学院助教だったが、現在は森林生態学が専門の准教授として、木材腐朽菌と枯木を中心にした研究を続けているようだ。

拙ブログでちょっと前にスザンヌ・シマード『マザーツリー 森に隠された「知性」をめぐる冒険』と、ロビン・ウォール・キマラー『コケの自然誌』を取り上げた。

シマードは菌根菌ネットワークを研究するカナダの森林生態学者、キマラ―はネイティブアメリカンの植物学者で、2人とも『枯木ワンダーランド』に登場する。

それもあって、枯木をテーマにしたこの本を、シマードらと根っこを同じくする環境文学として読んだ。

とりわけリグニンと木材腐朽菌、そして温暖化の影響で大規模な山火事の頻度が増しているという話には、ページをめくる指が止まった。

地球の歴史の中で石炭紀があった。植物の体はリグニンなどによって堅固につくられているが、それを分解する微生物はまだ現れていなかった。

そのため、大森林を構成していた巨木が倒れ、湿地に埋まり、土中深く積み重なって、石炭ができた。

やがてリグニンを分解する担子菌(白色腐朽菌と呼ばれるグループ)が登場すると、石炭も消えた。

 しかしこの仮説は、現在では疑わしいと考えられている、と著者はいう。理由は、石炭紀にはすでにリグニン分解菌がいたらしいこと、リグニン由来の石炭は70%程度であること、石炭紀以降も有機物の大量蓄積が何度もあったこと、などによる。

専門家の間でも見解が分かれている。そのことを頭に入れておく。簡単に「これでなければあれ」ときめつけない、ということだろう。

山火事の話は、ちょうどロサンゼルスで住宅街を焼く大規模な森林火災が発生し、甚大な被害が出ていることもあって、読み飛ばせなかった。

「湿潤な日本では大規模な山火事の脅威を感じることはあまり多くないが、カナダやアメリカでの山火事のニュースで、街に迫った山火事の影響で昼間にもかかわらず街が暗く空が赤い光景を見ると、山火事を防ごうという心理は当然のように思う」

 その自衛策として、カナダやアメリカ、北欧の自然公園では、林床にたまった落葉や落枝を取り除くために、定期的に火入れをしているという。

今度の山火事報道で知ったのだが、森林火災は二酸化炭素放出=気温上昇を招くため、気候変動の悪循環をもたらす。もはや「対岸の山火事」ではない。

2025年1月11日土曜日

慶長奥州地震津波

                     
   いわき地域学會の若い仲間から、「ネクスト情報はましん」の社報「TOMBO(トンボ)」(不定期刊)の恵贈にあずかった。

121号(2023年10月)、122号(2024年1月)、123号(同年6月)、124号(同年10月)で、どの号にも若い仲間が記事を書いている。

なかでも「生誕120年記念 草野心平と背戸峨廊」(121号)と「セバスティアン・ビスカイノと江戸初期のいわき~最初にいわきを訪れた西洋人~」(122号)には興味を引かれた=写真

若い仲間は社報編集メンバーの一人で、115号(2021年10月)の「いわきの新聞事始め」では、明治初期にいわきで初めて発行された「磐前(いわさき)新聞」を取り上げた。同新聞については拙ブログでも紹介していたので、私も取材を受けた。

 背戸峨廊も拙ブログで何度か取り上げている。ポイントは呼び名で、「セドガロ」と地元の人たちが呼びならわしていた江田川(夏井川支流)に、心平が「背戸峨廊」と漢字を当てた。

記事では私の見解に触れながら、近年は呼び名が「せとがろう」ではなく、「セドガロ」が一般化しつつあるようです」と締めくくっている。

 勉強になったのはビスカイノの記事だ。関ケ原の戦いのあと、岩城氏は所領を没収され、代わって譜代の鳥居氏がいわき地方を治める。

 鳥居氏は新たに磐城平城を築いて城下町を再編する。できて間もない城下町を、スペイン出身の探検家セバスティアン・ビスカイノが通過し、記録を残している。

 その史実については、1行の「年表」程度には承知していたが、詳細はわからなかった。図書館にもビスカイノに関する本はない。

「トンボ」の記事によると、ビスカイノは徳川幕府の許可を得て日本沿岸の測量をする。日本近海にあるといわれていた「金銀島」の調査をするのが目的だった。

慶長16(1611)年12月2日、測量のために仙台藩・越喜来(おきらい)村(現大船渡市)の沖に停泊中、「慶長三陸地震」の大津波に遭遇した。

そのときの浜の惨状が「ビスカイノ金銀島探検報告」(村上直次郎訳)に載っている。さらに同じ月、ビスカイノは陸路、仙台から江戸へ向かう。

その途中で磐城平藩の城下町を訪れる。記録には、城下は「甚だ大なるもの」などと記されているという。

これに刺激を受けて、ネットで検索すると、東北大学の蛯名裕一さんの論考が目に留まった。

ビスカイノ報告における津波被害の描写は信用できる、東日本大震災は「1000年に一度」から「400年に一度」の短いスパンの大規模災害という認識を持つべき――とあった。

さらに、名称は「慶長三陸地震」から「慶長奥州地震津波」に改めるべきと付け加えている。

東日本大震災と比較し得る直近の巨大地震がこれ、400年前の慶長奥州地震津波――という指摘がグサッときた

2025年1月10日金曜日

冬のネギ

                      
 師走に入るとすぐ、平・神谷の夏井川沿いに住む知人からネギをちょうだいした。見事な太ネギだ。用があって訪ねたら、すぐ脇の畑から掘り取ってきた。

 さっそくネギジャガの味噌汁にして味わう。太ネギは硬い――というイメージがあったが、思った以上に軟らかかった。

夏井川渓谷にある隠居の庭で「三春ネギ」を栽培している。田村地方から入ってきた昔野菜で、ある家に泊まった朝、ネギジャガの味噌汁をすすって驚いた。

私は田村郡の山里で生まれ育った。ネギジャガの味噌汁が好きだった。そのネギと同じ味がした。甘くて軟らかい。

以来、その家から苗をもらい、種ももらって、三春ネギの栽培を始め、自分でも種を採るようになった。

収穫期は晩秋から冬だが、今季は育った苗が少ないこともあって、食べたのはほんの少しだった。今は種取り用のネギしか残っていない。

ネギづくりの参考にしているのは、平地の夏井川沿いにあるネギ畑だ。わが家からマチへ行った帰りによく堤防を利用する。

今ならハクチョウやカモ、春は民家の庭先の白梅、夏なら南から渡って来るオオヨシキリ、ツバメたち……。堤防から動植物を観察しては季節の移りゆきを体感する。

と同時に、ネギ畑の「農事暦」も頭に入れる。夏の定植から始まって、追肥・土寄せ、冬の収穫と、三春ネギ栽培の参考にする。

 いつもチェックする畑がある。今季は師走に入っても、収穫が始まる気配はなかった。中旬になってもそのままだった。

 暮れの12月29日に通ると収穫が始まり=写真、年が明けた1月5日には3分の2が消え、9日には3列しか残っていなかった。

朝晩散歩をしていたころは、冬になるとビニールハウスの方から「ヒューッ」と機械で皮をむく音がして、ツンとネギの匂い(硫化アリル)がしたものだった。

ハウスの中央にすきまがあって、青く大きなネットが外に出ていた。空気を利用してむいた皮をそこへ飛ばす――車で通るだけになった人間には懐かしい光景と匂いだ。

平・神谷地区はネギの生産地として知られる。上流から運ばれてきた土砂が広い範囲に堆積している。砂漠生まれのネギには、川の下流の砂地は格好のゆりかごでもある。

 が……。農作業をしているのは、だいたいお年寄りだ。耕作をやめて雑草が生い茂っているところもある。平地でも、山間地でも事情は変わらない。

 私自身、三春ネギは「自産自消」のつもりでいたが、今季はそんなことはいっていられない。

 スーパーに「曲がりネギ」があれば、かごに入れる。道の駅へ行けば、どんなネギがあるか確かめる。

先日は「赤ネギ」があった。数年前、それを買って食べたら、とろみがあった。今回は別のネギがあったので見送ったが、ネギのウオッチングも冬場の楽しみの一つではある。

2025年1月9日木曜日

気づかずにある本

                     
   近年は主に「ネイチャーライティング」といわれる分野の本を読んでいる。「自然環境と人間の対話、交流、共生を目指すことを主要なモチーフとする小説、詩、ノンフィクション、エッセイなど」のことだ(コトバンク)。

1970年前後に米国で確立したジャンルで、「地球規模で進行する自然破壊という現実を前に、ネイチャーライティングは全世界的な注目を集める」ようになったのだそうだ。

米国自然史博物館は、博物学者ジョン・バロウズ(1837~1921年)を記念して、毎年、すぐれたネイチャーライティングの著作を1冊選び、ジョン・バロウズ賞を贈っている。

その受賞作品が日本語訳で出ているかどうか、まずはネットで検索する。出ているとして、次にいわきの図書館にあるかどうかを確かめる。何冊かあった。

図書館は本の森。その森には、こちらが気づかずにいる本がたくさんある。バロウズ賞の本は、林業や旅行、植物学のコーナーだけでなく、出納書庫にも眠っていた。

というわけで、きょうはバロウズ賞を含むネイチャーライティングの本の話を――。

先日、ブログで取り上げた米国のライター兼作家クリスティン・オールソンの『互恵で栄える生物界――利己主義と競争の進化論を超えて』(西田美緒子訳、築地書館)で紹介されている学者の本が3冊、図書館にあった=写真。

1冊はスザンヌ・シマード『マザーツリー 森に隠された「知性」をめぐる冒険』(ダイヤモンド社、2023年)。

ほかの2冊は、ロビン・ウォール・キマラー『コケの自然誌』(バロウズ賞=築地書館、2012年)と『植物と叡智の守り人 ネイティブアメリカンの植物学者が語る科学・癒し・伝承』(同、2018年)だ。3冊とも三木直子さんが訳している。

シマードは菌根ネットワークを研究するカナダの森林生態学者、キマラ―は本のサブタイトルにもあるように、ネイティブアメリカンの植物学者だ。

3冊はいずれも分厚い。まんべんなく取り上げるのは手に余る。研究者として突き止めた菌根ネットワークと、女性としての個人史をからめた『マザーツリー』のほんの一部を紹介する。

「木々は互いに網の目のような相互依存関係のなかに存在し、地下に広がるシステムを通じてつながり合っているということを私は発見した」

そのうえで、母なる木=マザーツリーは「森で交わされるコミュニケーション、森の保護、森の知覚力の中心的存在」であることを強調する。

さらに、森の母なる木が死ぬときには「その叡智を親族に、世代から世代へ引き継ぎ、役に立つことと害になること、誰が味方で誰が敵か、つねに変化する自然の環境にどうすれば適応し、そこで生き残れるのか、といった知恵を伝えていく」。

「はじめに」だけでも圧倒される。あとはじっくり脳内にネイチャーライティングの滋養を染み込ませる。大作ぞろいだけに、そんな心境になっている。

2025年1月8日水曜日

最初のごみ収集日

            
   年末年始の長い休みが終わって、いつもの日常が戻ってきた。新年最初の月曜日(1月6日)は役所の仕事始めの日。そして、わが地区では最初のごみ収集日だ。

家の前の歩道にごみ集積所がある。わが家でごみネットの出し入れをしている。出しっぱなしにしていると、だれかが違反ごみを置いていく。それを防ぐために、週末にはネットを取り込む。

月曜日。起きるとすぐ私がごみネットを出す。木曜日、収集車が来たあと、カミサンがごみネットを引っ込める。

年が明けて5日の日曜日夜、「あしたは『燃やすごみ』の最初の収集日、ごみネットを出すこと」、そう自分に言い聞かせて寝た。

正月気分を引きずっていると、ごみネットを出し忘れてカラスの襲来を招く。ネットをかけていても、カラスはごみ袋を突つき、引っ張り出して、生ごみを食い散らかす。生ごみとわかれば、カラスは仲間を呼んで乱暴狼藉に及ぶ。

人間よりまずはカラスだ。正月早々、カラスに隙を見せたくはない。後始末が、なにより大変だから。

年末年始はごみ収集が休みになる。それに合わせてカラスも通りから姿を消した。しかし、静かな日々が続いたと誤解してはならない。カラスはいつも、どこからかえさを狙っている。

ごみ袋はふだんの3倍くらいは出た=写真。やや離れたところにある集積所もこんもりとしている。

いつもの日よりかなりの量が出たから、回収時間も遅れるに違いない。その間にカラスが現れなければいいのだが……。

ほぼ1時間ごとに、家の中から様子をうかがう。ごみ袋は数を増したが、さいわいカラスは現れない。

カラスには盆も正月もない。日々、えさを求めて飛び回っている。どこに集積所があるかは先刻承知だ。苦労せずとも腹を満たせる場所が、そこにあるのだから。

いつもの時間よりはかなり遅い午後零時半すぎ、収集車がやって来た。昼食後は昼寝をする。それを我慢して収集車が来るのを待った。

止まればエンジン音やドアの音でわかる。その音がしたので、急いで家の中から様子をうかがう。ごみ袋はすべて回収された。違反ごみはなかった。

せめて初日だけでもカラスとは無縁でいたい。収集車が来るまで、ずっとそう念じていた。

そのとおりになった。それから30分後、カラスが1羽、近くに来て「カア、カア、カア」と三度鳴いた。私には「あらら、遅かった、残念」と聞こえた。

たまたま初日は人間が勝った。カラスは人間の年末年始休が長すぎたために、油断をしておくれを取ったのだろう。