いわき地域学會の若い仲間から、「ネクスト情報はましん」の社報「TOMBO(トンボ)」(不定期刊)の恵贈にあずかった。
121号(2023年10月)、122号(2024年1月)、123号(同年6月)、124号(同年10月)で、どの号にも若い仲間が記事を書いている。
なかでも「生誕120年記念 草野心平と背戸峨廊」(121号)と「セバスティアン・ビスカイノと江戸初期のいわき~最初にいわきを訪れた西洋人~」(122号)には興味を引かれた=写真
若い仲間は社報編集メンバーの一人で、115号(2021年10月)の「いわきの新聞事始め」では、明治初期にいわきで初めて発行された「磐前(いわさき)新聞」を取り上げた。同新聞については拙ブログでも紹介していたので、私も取材を受けた。
背戸峨廊も拙ブログで何度か取り上げている。ポイントは呼び名で、「セドガロ」と地元の人たちが呼びならわしていた江田川(夏井川支流)に、心平が「背戸峨廊」と漢字を当てた。
記事では私の見解に触れながら、近年は呼び名が「せとがろう」ではなく、「セドガロ」が一般化しつつあるようです」と締めくくっている。
勉強になったのはビスカイノの記事だ。関ケ原の戦いのあと、岩城氏は所領を没収され、代わって譜代の鳥居氏がいわき地方を治める。
鳥居氏は新たに磐城平城を築いて城下町を再編する。できて間もない城下町を、スペイン出身の探検家セバスティアン・ビスカイノが通過し、記録を残している。
その史実については、1行の「年表」程度には承知していたが、詳細はわからなかった。図書館にもビスカイノに関する本はない。
「トンボ」の記事によると、ビスカイノは徳川幕府の許可を得て日本沿岸の測量をする。日本近海にあるといわれていた「金銀島」の調査をするのが目的だった。
慶長16(1611)年12月2日、測量のために仙台藩・越喜来(おきらい)村(現大船渡市)の沖に停泊中、「慶長三陸地震」の大津波に遭遇した。
そのときの浜の惨状が「ビスカイノ金銀島探検報告」(村上直次郎訳)に載っている。さらに同じ月、ビスカイノは陸路、仙台から江戸へ向かう。
その途中で磐城平藩の城下町を訪れる。記録には、城下は「甚だ大なるもの」などと記されているという。
これに刺激を受けて、ネットで検索すると、東北大学の蛯名裕一さんの論考が目に留まった。
ビスカイノ報告における津波被害の描写は信用できる、東日本大震災は「1000年に一度」から「400年に一度」の短いスパンの大規模災害という認識を持つべき――とあった。
さらに、名称は「慶長三陸地震」から「慶長奥州地震津波」に改めるべきと付け加えている。
東日本大震災と比較し得る直近の巨大地震がこれ、400年前の慶長奥州地震津波――という指摘がグサッときた。
1 件のコメント:
福島県立図書館で検索したところ、4件ヒットしました。『ドン・ロドリゴ日本見聞録、ビスカイノ金銀島探検報告』(1966、雄松堂)のみ貸出可です。
個人的に、『イスパニア国答礼使セバスチャン・ビスカイーノの奥州旅行記』(1997、二本松カトリック教会)が気になります。
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