2025年1月16日木曜日

専称寺展

                                 
   年末年始休が終わったと思ったら、3連休がきた。日曜日(1月12日)は用事があって夏井川渓谷の隠居へは行けなかった。

翌日は成人の日の1月13日。ひまを持て余したのか、カミサンが午後になって「どっかへ行きたい」という。

あれこれ行き先を考えていたら、まだ見ていない企画展を思い出した。いわきの南部、市勿来文学歴史館で「専称寺の文化財~僧侶の学問所~」展が開かれている(2月16日まで)。

わが家からすぐ近くにある常磐バイパス(現国道6号)にのれば、ほぼノンストップで勿来文歴に着く。

専称寺は、わが地域と夏井川をはさんだ対岸の山腹にある浄土宗の寺だ。街への行き帰りに堤防を通ると、本堂の伽藍が目に入る。

同寺は江戸時代、東北地方を中心に末寺が200を越える大寺院だった。同時に、主に東北地方からやって来た若者が修学に励む「大学」(名越派檀林)でもあった。

 この「大学」で学んだ高僧・名僧は数多い。そのなかの一人に江戸時代の俳僧一具庵一具(1781―1853年=出羽出身)がいる。幕末の江戸で俳諧宗匠として鳴らした。

その人となりを調べたことがある。歴史や宗教に詳しい故佐藤孝徳さんらの助けを借りた。

その佐藤さんが平成7(1995)年、『浄土宗名越派檀林専称寺史』を出したときには校正を引き受けた。

それで、同寺が「東北文化の交流の場であり、新たな文化の発信地」だったことを知った。いよいよ同寺の歴史に親愛と畏敬の念を抱くようになった。

東日本大震災で同寺は大きな被害に遭った。本堂とふもとの総門は「全壊」、庫裡は「一部損壊」の判定を受けた。今は本堂と総門の災害復旧工事も完了している。

企画展では佐藤さんの本でなじんでいた史料と対面した。「授手印」=写真(チラシ)と「境内図」(江戸中期)について思ったことを少し。

解説によると、同寺の授手印は正しく教え・戒律を相承したことを証明する書状の意味で使われている。先任の住職が朱で手印を押して後任の住職に渡した。展示されたのは専称寺十世・良拾が発給したものだという。

佐藤本の校正段階では、現物は見ていなかった。本物の授手印を見た感想としては「手が小さい」だった。カミサンの手とそう変わらない。ということは、良拾は身長150センチちょっとだったか。

 境内図には学僧たちの寮舎と思われる建物が、ふもとの総門のすぐ後ろと、中段の梅林になっているあたりに密集している。

 佐藤本には、かつて200人を越える学僧が学ぶ東北最大の寺院だった面影は十分残っている、とある。境内図からはそのにぎわいが立ちあがってくるようだった。

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