2023年9月8日金曜日

豆腐探し

                     
 週の半ばになると、豆腐の移動販売車がやって来た。運転手兼販売員のおばさんが「こんちわー」と店(米屋)の戸を開ける。その都度、カミサンが「豆腐3丁、油揚げ2枚」と応じる。豆腐は好間の自営業者がつくった。

 茶の間にいる私にも週1回のルーティンは体にしみつき、カミサンがいないときには、私が豆腐3丁と油揚げ2枚を注文した。

だから、近所のスーパーへ買い物に行っても、豆腐をカゴに入れた記憶はない。油揚げもそうだ。

その移動販売がなくなってからだいぶたつ。おばさんが免許の更新を機に、運転をやめた。高齢ドライバーの交通事故がたびたび報じられている。それも理由のひとつだったろう。

納豆も月に1回、ボランティア団体から届いた。障がいがあっても明るく元気に暮らしていける地域社会づくりを――と、市民団体が結成された。そのいわき方部の活動資金に充てるため、値段は少し高いが宮城県のメーカーの納豆を販売してきた。

方部長がわが家に何軒かの分を持って来たのを、あとでカミサンがそれぞれの家に配る(アッシー君を頼まれる)。取りに来る人もいる。

活動を始めてからすでに40年を超えた。その納豆も、団体の活動終了に併せて届かなくなった。

 以来、買い出しをするたびに、カミサンが豆腐と油揚げ、納豆を見比べながらカゴに入れる。ある意味では「新しい習慣」だ。

夏井川渓谷の隠居へ出かけた日曜日、たまに小野町や平田村まで足をのばす。コロナ禍の3年間で覚えた言葉に「マイクロツーリズム」がある。地場の野菜を中心にした「買い物ドライブ」を、今風に横文字でいうとそうなる。

その延長で思い出したのが、ふるさとの阿武隈高地で売っている「三角油揚げ」だ。前にこんなことを書いた。

 ――田村市常葉町の実家へ帰ったら、帰りに三角油揚げをもらった。同じ町内の豆腐店でつくっているという。

三春町では、この油揚げに切れ込みを入れてネギなどを差し込み、焙烙(ほうろく)で焼いて、みそをつけて食べるのが好まれている。

三春と同じ田村地方のわがふるさとと、その東隣の都路町にも三角油揚げをつくる豆腐店があることを知った――。

先日、カミサンがマチから田村市の「自慢の逸品」を網羅したパンフレットを持ち帰った。なかにふるさとの精肉店の「牛めんちカツ」や、都路町の「豆腐」が紹介されていた=写真。

ネットでチェックすると、豆腐店に記憶があった。三角油揚げをつくっている。国道288号沿いにある同町の商業施設にも卸しているという。

そうか、毎週買いに行くのは無理でも、そちらへ出かけたときには、立ち寄って三角油揚げと豆腐を買うことはできる。

その意味では、阿武隈の山里の、普通の豆腐店や精肉店を頭に入れておくと、たまに敢行するマイクロツーリズムがより楽しいものになる、はずだ。

2023年9月7日木曜日

茨城の関東大震災

                     
 「常陽藝文」の2023年9月号が届いた。「関東大震災から百年」を特集している=写真。9月1日付のブログで「関東大震災といわき」について書いた。これはその茨城版といってよい。

茨城県は直接、東京都とは接していない。が、最も県南の取手市は東京まで約40キロと、至近距離にある。東京に近い分、茨城県の被害はいわきより大きかった。

 特集では、『結城市史』や『取手市史』、「水海道市史」、『茨城県警察史』を引用しながら、被害状況や避難民の救援活動などを紹介している。

 大震災で交通・通信が途絶える。ラジオ放送はまだない。東京の各新聞社は被災して、新聞を発行するどころではなかった。

 東京紙に代わって県民に情報を提供したのは、地元紙の「いはらき」。同紙はいち早く記者を東京へ派遣し、翌2日夕には号外を出した。

 いわき地方とも関係する地震の被害に常磐線の線路陥没があった。取手から水戸寄りの土浦―荒川沖間で、原ノ町発上野行き列車が脱線・転覆し、死傷者が出た。この事故で同線は不通になったが、3日夜には復旧した。

 常磐線は首都圏からの地方避難、地方からの救援活動に欠かせない交通手段の一つだった。

その例を、小高町(現南相馬市)出身の俳人大曲駒村(1882~1943年)が著した『東京灰燼記――関東大震火災』(中公文庫)から拾ってみる。

「九月四日、即ち大震第四日目の朝、夜警の疲れで床の中に倒れていると、ドヤドヤと福島県の田舎から見舞の人が遣って来た。相馬の旧友たち六人である。(略)六人が六人とも、大きな荷物を重そうに背負っていた。中には白米五升は勿論のこと、種々の罐詰、味噌、松魚節(かつおぶし)等が這入っているという」

午後、今度は新宿へ行く途中の牛込付近で「平からやって来た遠縁の者二人に逢う。いずれも大きな布袋を背負うてウンウン唸って歩いていた。この体で川口から四里半も歩いて来たので、疲れ切ったと言う」

ほかにも、関東大震災がらみの動きを何回かブログに書いてきた。それらを再構成すると――。

いわきの建設会社である堀江工業は、荷馬車300台を被災地に送った。その功績で、昭和5(1930)年の帝都復興祭式典に東北から唯一、社長が招待された(堀江工業創立百周年記念誌『百年の軌道』)。

『いわき市史 第6巻 文化』篇の「映画」の項によれば、「関東大震災の時、たくさんの避難民が東北にもおよび平で途中下車するものが多く、避難民の立ち寄る宿泊所として、有声座をはじめ聚楽館・平劇場・平館は一斉に休業し、施設を提供した」。

そうそう、詩人山村暮鳥の磐城平時代のネットワークに連なる比佐邦子(1897~1937年)は、上京後、この震災で家と夫を亡くした。子どもがいなかったこともあっていわきに帰郷し、平の磐城新聞社に入社する。いわき地方の女性記者第一号(推測)だった。

2023年9月6日水曜日

骨休め

        
 きのう(9月5日)の続き――。日曜日(9月3日)には地区の体育祭が開かれた。雲が多かったものの、8月から続く残暑が厳しかった。選手も出番がないときはテントの中で暑さをしのいだ。

 主催者(区長協議会)の一人として、団体種目の記録係を務めた。順位(点数)の合算によって総合優勝や準優勝、3位その他が決まる。

プログラムを減らしたこともあって、正午には競技と片付け、お楽しみの大抽選会が終了した。

まだテレビで「のど自慢」が行われているうちに帰宅した。暑さによる脱力感もあって何もする気になれない。風呂につかって汗を流し、昼食をとって横になったが、昼寝をするまでにはいかなかった。

ただただ疲れて考える力がわかない。夕方はいつもの魚屋さんへカツオの刺し身を買いに行った。これだけは疲れがどうのこうのとは言っていられない。

隣の草野地区でも同日、体育祭が開かれたという。カツ刺しを買いに来た人が多かったのだろう。

早朝6時、体育祭を告げる花火が2発揚がった。合間に一発、東の方から花火の音が聞こえた。草野地区の体育祭開催を告げるものだったか。

カツ刺しをつつきながら晩酌をすると、もうろうとしてきた。夜7時のニュースを見たあと、耐えられずに寝室へ足を運んだ。

いったん真夜中に目が覚めた。雨音が聞こえる。急いで2階の窓を閉めてから、また寝床にもぐった。

朝5時半に起きると、雨脚が強くなっていた。家の前のごみ集積所にネットを出すと、びしょぬれになった。

それからはちょくちょくパソコンでいわき市上空の雨雲をチェックした。だいたい南東から北西へと雨雲が通過していく。その繰り返しだった。

月曜日と言っても、ごみネットを出し、糠床をかきまぜ、翌日のブログ原稿を仕上げれば、あとはやることがない。

「きょうは月曜日だが、オレにとっては日曜日。うまい具合に雨が降っている。リタイア組の“特権”で、きょうは一日、骨休めだ」。そう決めて、ただただ茶の間で横になっていた。

雨はその後も降り続き、大雨警報まで発表された。すると今度は、防災情報が気になり始めた。雨雲の動き=写真=や、1時間ごとの予報のほかに、川の水位もチェックした。

その点では、ネットは便利だ。雨雲の動きが簡単にわかるように、川の水位もカメラが設置されているところはリアルタイムでわかる。

9月も3日までは酷暑が続いた。4日は一転して雨。結局、平では104.5ミリ、小名浜では100.5ミリの雨が降った。平はお昼から午後3時にかけて強い雨になった。

翌5日には残暑が戻った。きょう6日は雨の予報だ。残暑と雨が撚(よ)り合わさるようにして、次第に次の季節へと移っていくのだろう。

2023年9月5日火曜日

とにかく終わった

                    
  平・神谷地区の市民体育祭が日曜日(9月3日)、4年ぶりに平六小の校庭で開かれた=写真(神谷こども園の「スカイバルーン」)。区の役員としては、とにかく終わった、そうとしかいえない。

 事前の準備と連絡・調整、そして事後の片付け。とぎれることなく、やることが続く。そのうえ、厳しい残暑が収まらない。今回は「雨」による延期よりも「危険な暑さ」による熱中症が心配された。

このため、体育協会は学校の協力を得て1教室を「救護室」として借り受け、エアコンを作動させて万一に備えた。

 コロナ禍で中止を余儀なくされた間に、若い親の意識が変わったのか、親を取り巻く環境が変わったのか。わが区では今春、団体種目の主体となる「子どもを守る会」が解散した。

6月最初の日曜日には、やはり4年ぶりに地区球技大会が開かれた。主に保護者がメンバーとなって、男性はソフトボール、女性はバレーボールで優勝を争う。

このとき、早くも守る会解散の影響が出た。ソフトボールは棄権し、バレーボールは旧知の元守る会メンバーにお願いして、やっと人を集めた。

地域の少子・高齢化が顕在化してきた。子どもが少ないから、試合に出られる親も少ない。残りの大人はといえば、私を含めて体が動かない高齢者ばかりだ。わが区だけでなく、ほかの区も事情は同じだろう。

それを踏まえて、球技大会が終わったあとにこんなことを書いた。体育祭では地区対抗リレーなどはメンバー構成が難しいから、種目からはずすなどの工夫が必要ではないか――。

わが地区の体育祭は今回が46回目だ。3年の中断をはさめば半世紀近い歴史がある。そのプログラムは、いわば右肩上がりの時代のまま引き継がれてきた。少子・高齢化時代にはそぐわないものもある。その象徴が、細かく年代・性別を限った対抗リレーだろう。

体育祭に先立つ7月の会合で、団体競技について議論が交わされた。この結果、リレーは「中止」、綱引きと玉入れは「年齢・男女制限なし」の20人、一輪車に大きなボールを何個か載せてリレーする安全運転は「30歳未満と30歳以上の男女各2人」の8人と決まった。

今回も人集めは球技大会のときと同じ知人にお願いした。それでなんとか大会当日までに人数が確保できた。

以前は昼食タイムをはさんで午後2時ごろまで開いていたのが、今回は団体競技だけでなく、ほかの種目も減らして、午前11時過ぎには全種目が終了した。「反省会なし・弁当なしでいい」とまとめ役から申し出があったので、ありがたく受けた。

以前よりは簡素化されたとはいえ、区の役員は若い人がおらず、男衆3人での準備や片付けはきつくなっている。

それもあって、閉会式後の「大抽選会」が終わると初めて、安堵と疲労感と暑さとで脱力状態になった。

2023年9月4日月曜日

夜に鳴く虫

        
   8月も暑い日が続いた。庭の柿の木で鳴くのは主にミンミンゼミだったが、8月25日あたりを境に鳴き声がやんだ。時折、ツクツクホウシの鳴き声が響いたが、これも弱々しかった。

 ちょうどそのころから、夜になると「リーリーリー」という虫の声が庭の方から聞こえてくるようになった。朝には死んで畳に横たわっているものもある。アオマツムシだ。

 拙ブログで確かめると、早いときには月遅れ盆が終わったあたりから鳴き出す。ところが今年(2023年)は記録的な猛暑で、8月8日の「立秋」後も気温は高めに推移した。夜も25度以上の「熱帯夜」が続いた。この影響か、アオマツムシの初鳴きは例年よりずれこんだ。

 アオマツムシは、街路樹などで爆発的に増殖している外来種、と前に聞いた。ウィキペディアにはしかし、外来種という説が一般的だが、原産地ははっきりしない、とある。

 2008年2月下旬にブログを始めた。虫の鳴く秋になって初めてアオマツムシに触れたのは、2010年9月3日だった。そのときのブログを要約・再掲する。

――8月30日あたりから、アオマツムシが夜の庭でうるさく鳴き交わすようになった。草むらからわいてくるのではなく、木の上から降ってくるのだ。鳴き声が大きい。「リーリーリー」が「ギーギーギー」に聞こえる。

朝から戸を開け放し、扇風機をかけっぱなしにして過ごしたあと、宵の晩酌タイムを迎える。茶の間でちびりちびりやり始めると、ほどなく庭で「ギーギーギー」が始まる。エンマコオロギのような繊細さはない。うるさいくらいだ。

そのエンマコオロギだが、わが家では月遅れ盆の前に初鳴きを聞いた。澄んだ音色が耳に心地よかった。「コロロロロー」。アオマツムシに比べたら控え目でやさしい歌い方だ。

アオマツムシは、平地の街路樹という街路樹にすみついて、「ギーギーギー」とうたっている。

9月1日には茶の間に飛び込んできた。次の夜も現れた。猛暑続きに体内の何かが失調したか。室内に現れたのは初めてだった――。

 13年前と今とでは、何が変わったか。真っ先に思い浮かぶのは、人間が夜、街へ飲みに行かなくなったことだ。

 ほかは大震災を経験しても、変わらない。家は「大規模半壊」に近い状態になったが、一部を修繕しただけで、そのまま住んでいる。庭の柿の木も、扇風機をかけっぱなしにしているのも同じだ。

 いや、ひとつ、家の中でも変わったことがあった。晩酌時間が早まり、それに合わせて就寝時間も早くなった。

 昼も夜も、虫たちが茶の間にやって来ることには変わりがない。初秋のアオマツムシも、毎年、茶の間に飛び込んで来るようになった。

 「飛んで火にいる」ように、アオマツムシが蛍光灯に飛び込んで来る。ひもに止まったところをパチリとやった=写真。データを拡大すると、背中に褐色の模様がある。雄だった。今は庭だけでなく、茶の間でも鳴いて、息絶える。

2023年9月2日土曜日

ハチも刺すのは雌だけ

                            
 半そで・半ズボンで茶の間にいる。扇風機は上半身に風を送っても、座卓の下までは涼しくしてくれない。

 あぐらをかいていると、すねに、太腿にまとわりつくものがいる。ハエだ。「五月蠅い」と書いて「うるさい」と読む。5月だけでなく、8月もうるさくてかなわなかった。9月もしばらくはそうだろう。

 汗ばんだ人間の体だけでなく、食事時には食べ物にもたかる。茶の間ではハエたたきが欠かせない。

 夏井川渓谷の隠居には、平地と違った虫が現れる。台所に「ハエ取り紙」をつるしたら、アブが何匹もかかった。ハエは2、3匹しかいなかった。

 坪庭にはミソハギが咲いている=写真。小さなハチやハナアブがやって来ては蜜を吸っている。

その花を見ながら、ここでカミサンがキイロスズメバチに刺され、痛みと腫れが引かないので、車で磐城共立病院(現いわき市医療センター)へ駆けこんだことを思い出した。

同時に、最近読んだばかりの本でハチも刺すのは雌だけと知って、「蚊と同じではないか」と驚いたことも。

 著者の名字が変わっている。円満字(えんまんじ)二郎。筆名でもなんでもない、本名だ。フリーの編集者兼ライターで、出版社に勤めていたころは高校の国語教科書や漢和辞典などの編集に携わったという。

 毎月、マチの書店から岩波書店のPR誌「図書」が届く。そこにしばらく、著者が「漢字の動物園in広辞苑」を連載した。

 それが『漢字の動物苑――鳥・虫・けものと季節のうつろい』(岩波書店、2023年)と題する単行本になった。ある意味では、岩波のPR誌らしく『広辞苑』を宣伝するものだ。

辞書は「読む」か、「引く」か。高専に入って間もなく、担任の英語教師から「読むものだ」と教わったのを思い出す。

移動図書館から借りた「漢字の動物苑」をパラパラやっていたときだった。「ハチのミツの甘い味わい」の項で、ハチに関する広辞苑の説明を紹介していた。

そこに「雌は産卵管を毒針としても使う」とあった。前述したように、ハチで刺すのは雌だと了解した。

念のためにネットで確認すると、刺すのは雌だけ、働きバチはすべて雌、雄は女王蜂と交尾するだけに生まれた存在、といったことが出ていた。

蚊も吸血するのは雌だけ。これはだいぶ前、やはり動物に関する本を読んでいて、半分驚きながら知ったことだ。産卵する(子孫を残す)ためには栄養が要る。それで雌は血を吸う、ともあった。

雌が刺す。蚊とハチのほかにはないものか。そんなことを思いめぐらしているうちに、足にハエがまとわりつき出し、手の甲をピシャリとやったら、蚊がつぶれて赤い血が広がった。

2023年9月1日金曜日

関東大震災といわき

                     
   いき出版が2019年7月、いわき地域学會のメンバーを中心に『写真が語るいわき市の100年』を刊行したとき、「100年の時間軸」を意識して、巻頭の言葉を書いた。以下はその一部。

――詩人の山村暮鳥がキリスト教の伝道師として磐城平に赴任したのは、「明治」から「大正」に改元されたばかりの1912年秋であった。21世紀に入って20年近くたとうとする今、暮鳥に代表されるいわきの「大正ロマン」と、それに続く「昭和モダン」を調べると、おおよそ100年前の出来事に出合う。

第1次世界大戦勃発から100年=2014年、ロシア革命から100年=2017年、米騒動から100年=2018年と、節目の年が続く。

関東大震災は2023年に100年の節目を迎える。2011年に東日本大震災と原発事故を経験した浜通りの人間にとっては、阪神・淡路大震災も、関東大震災も貴重な教訓としてよみがえる。

「100年の時間軸」でとらえれば、自然災害も戦争も遠い地域の、遠い過去の話ではなくなる――。

きょう(9月1日)は関東大震災から100年の節目の日だ。8年前に「関東大震災といわき」を意識したブログを書いた。その部分を要約・再掲する。

                   ◇

 関東大震災が起きたときのいわき地方はどうだったのか――個々の事実を編み込むことで見えてくるものがある。前にも折に触れて取り上げたことだが、再度つないでみる。

「この関東大震災は小名浜測候所では震度5の強震を記録した。いわき地方では死者1人、負傷者3、4人を出した、とされている」(『いわき市勿来地区 地域史2』)。

その強い揺れを、四倉で体験した人間が『海トンボ自伝』(論創社、1983年)という本に書き残している。のちに東京・深川の船宿「吉野屋」の主人になる吉野熊吉だ。12歳だった。

「昼ごろ大きな地震だ。家の電灯はこわれるし、戸棚の上の物はみんな転げ落ちた」「驚いて私は外へ飛び出したが、他の家の人々も飛び出した」。その日の夕方、「西の空が真っ赤に染まっていたのを子供心に憶えている」。

 家や肉親を失った人たちはどうしたか。「常磐毎日新聞」の大正12年11月15、21、30日および12月11日付の記事によると、発災から2カ月半の時点で首都圏から石城郡(現いわき市のうち久之浜・大久地区を除く)に避難してきた被災者は1759人、うち373人は失職者だった。

 発災から満1年――磐城侠政会が1日、性源寺で震災遭難者の追悼会を執り行った。3日付同新聞には「秋の世の盛観/夏井河上を/五彩に染めた流灯会/大震災の追悼に」の見出しが躍る=写真。

1日夜、平鎌田の夏井川で関東大震火災遭難者追悼の流灯会が催された。「鎌田橋上は人の山を築き墜落しかねまじき雑踏にて警官は声を涸らして群衆を堰き止め青年団は提灯を振りかざして混雑を取繕った(以下略)」とある。

 関東大震災は、いわき地方でも人ごとではなく、大きな悲しみとして受け止められていた。