いき出版が2019年7月、いわき地域学會のメンバーを中心に『写真が語るいわき市の100年』を刊行したとき、「100年の時間軸」を意識して、巻頭の言葉を書いた。以下はその一部。
――詩人の山村暮鳥がキリスト教の伝道師として磐城平に赴任したのは、「明治」から「大正」に改元されたばかりの1912年秋であった。21世紀に入って20年近くたとうとする今、暮鳥に代表されるいわきの「大正ロマン」と、それに続く「昭和モダン」を調べると、おおよそ100年前の出来事に出合う。
第1次世界大戦勃発から100年=2014年、ロシア革命から100年=2017年、米騒動から100年=2018年と、節目の年が続く。
関東大震災は2023年に100年の節目を迎える。2011年に東日本大震災と原発事故を経験した浜通りの人間にとっては、阪神・淡路大震災も、関東大震災も貴重な教訓としてよみがえる。
「100年の時間軸」でとらえれば、自然災害も戦争も遠い地域の、遠い過去の話ではなくなる――。
きょう(9月1日)は関東大震災から100年の節目の日だ。8年前に「関東大震災といわき」を意識したブログを書いた。その部分を要約・再掲する。
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関東大震災が起きたときのいわき地方はどうだったのか――個々の事実を編み込むことで見えてくるものがある。前にも折に触れて取り上げたことだが、再度つないでみる。
「この関東大震災は小名浜測候所では震度5の強震を記録した。いわき地方では死者1人、負傷者3、4人を出した、とされている」(『いわき市勿来地区
地域史2』)。
その強い揺れを、四倉で体験した人間が『海トンボ自伝』(論創社、1983年)という本に書き残している。のちに東京・深川の船宿「吉野屋」の主人になる吉野熊吉だ。12歳だった。
「昼ごろ大きな地震だ。家の電灯はこわれるし、戸棚の上の物はみんな転げ落ちた」「驚いて私は外へ飛び出したが、他の家の人々も飛び出した」。その日の夕方、「西の空が真っ赤に染まっていたのを子供心に憶えている」。
家や肉親を失った人たちはどうしたか。「常磐毎日新聞」の大正12年11月15、21、30日および12月11日付の記事によると、発災から2カ月半の時点で首都圏から石城郡(現いわき市のうち久之浜・大久地区を除く)に避難してきた被災者は1759人、うち373人は失職者だった。
発災から満1年――磐城侠政会が1日、性源寺で震災遭難者の追悼会を執り行った。3日付同新聞には「秋の世の盛観/夏井河上を/五彩に染めた流灯会/大震災の追悼に」の見出しが躍る=写真。
1日夜、平鎌田の夏井川で関東大震火災遭難者追悼の流灯会が催された。「鎌田橋上は人の山を築き墜落しかねまじき雑踏にて警官は声を涸らして群衆を堰き止め青年団は提灯を振りかざして混雑を取繕った(以下略)」とある。
関東大震災は、いわき地方でも人ごとではなく、大きな悲しみとして受け止められていた。
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