「常陽藝文」の2023年9月号が届いた。「関東大震災から百年」を特集している=写真。9月1日付のブログで「関東大震災といわき」について書いた。これはその茨城版といってよい。
茨城県は直接、東京都とは接していない。が、最も県南の取手市は東京まで約40キロと、至近距離にある。東京に近い分、茨城県の被害はいわきより大きかった。
特集では、『結城市史』や『取手市史』、「水海道市史」、『茨城県警察史』を引用しながら、被害状況や避難民の救援活動などを紹介している。
大震災で交通・通信が途絶える。ラジオ放送はまだない。東京の各新聞社は被災して、新聞を発行するどころではなかった。
東京紙に代わって県民に情報を提供したのは、地元紙の「いはらき」。同紙はいち早く記者を東京へ派遣し、翌2日夕には号外を出した。
いわき地方とも関係する地震の被害に常磐線の線路陥没があった。取手から水戸寄りの土浦―荒川沖間で、原ノ町発上野行き列車が脱線・転覆し、死傷者が出た。この事故で同線は不通になったが、3日夜には復旧した。
常磐線は首都圏からの地方避難、地方からの救援活動に欠かせない交通手段の一つだった。
その例を、小高町(現南相馬市)出身の俳人大曲駒村(1882~1943年)が著した『東京灰燼記――関東大震火災』(中公文庫)から拾ってみる。
「九月四日、即ち大震第四日目の朝、夜警の疲れで床の中に倒れていると、ドヤドヤと福島県の田舎から見舞の人が遣って来た。相馬の旧友たち六人である。(略)六人が六人とも、大きな荷物を重そうに背負っていた。中には白米五升は勿論のこと、種々の罐詰、味噌、松魚節(かつおぶし)等が這入っているという」
午後、今度は新宿へ行く途中の牛込付近で「平からやって来た遠縁の者二人に逢う。いずれも大きな布袋を背負うてウンウン唸って歩いていた。この体で川口から四里半も歩いて来たので、疲れ切ったと言う」
ほかにも、関東大震災がらみの動きを何回かブログに書いてきた。それらを再構成すると――。
いわきの建設会社である堀江工業は、荷馬車300台を被災地に送った。その功績で、昭和5(1930)年の帝都復興祭式典に東北から唯一、社長が招待された(堀江工業創立百周年記念誌『百年の軌道』)。
『いわき市史 第6巻 文化』篇の「映画」の項によれば、「関東大震災の時、たくさんの避難民が東北にもおよび平で途中下車するものが多く、避難民の立ち寄る宿泊所として、有声座をはじめ聚楽館・平劇場・平館は一斉に休業し、施設を提供した」。
そうそう、詩人山村暮鳥の磐城平時代のネットワークに連なる比佐邦子(1897~1937年)は、上京後、この震災で家と夫を亡くした。子どもがいなかったこともあっていわきに帰郷し、平の磐城新聞社に入社する。いわき地方の女性記者第一号(推測)だった。
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