2018年10月31日水曜日

横川で地質調査、あれか

 いわき市平・平窪の夏井川にハクチョウが飛来したのは、10月14日の日曜日。私はそれから5日後の19日、小川町・三島に分散してきた5羽を確認した。それが今シーズンの初見だった。
 さらに1週間後の金曜日(10月26日)、望遠カメラを持ち出して、トレーニングを兼ねて夏井川の河口へ出かけた。ハクチョウはいなかった。冬鳥のマガモが点々と羽を休めていた。

河口部で夏井川と合流する横川(仁井田川)に、パイプで足場が組まれていた=写真上1。一角に「地質調査中」の看板が立っている。ん、あれか!

7月に夏井川水系河川改良促進期成同盟会の総会が開かれた。小川町から下流平坦部の区長らが出席した。毎年、総会後に福島県いわき建設事務所が管内の夏井川の改修工事について説明する。そのとき聞いた横川の治水対策のひとつに、夏井川合流部の水門設置があった。ほかに、横川の築堤・護岸、夏井川左岸河口部の築堤・護岸が計画されている。

根っこにあるのは夏井川河口の閉塞問題だ。大正2(1913)年に脱稿、同11年に刊行された『石城郡誌』には、既にこの問題が記されている。夏井川は干天になると水の勢いが弱くなり、河口が閉塞する――。

閉塞すれば横川に逆流して、仁井田川が水の吐き出し口になる。昭和8(1933)年6月9日付常磐毎日新聞にも、「折角の工事/河口が埋る/夏井川逆流し/地元民が陳情」とある。

前に書いた文章だが、昭和7年度に時局匡救(きょうきゅう)事業として、夏井川河口部で改修工事が行われ、右岸・夏井村下大越(おおごえ)、左岸・草野村沢帯(ざわみき)に防波堤が設置された。

ところが、左岸河口で合流する横川の改修工事が手つかずのため、荒天のたびに河口が土砂で埋まり、河流が沢帯地内に逆流するようになった。思わぬ被害の発生に、地元区長ら代表数人が平土木監督所を訪れ、横川の改修促進を陳情した。

それからざっと85年後の現在、仁井田川が台風によって河口が開け、東日本大震災による地盤沈下などの影響も受けて、夏井川河口の閉塞と横川への逆流が常態化した。

 10年ほど前には、今、地質調査の足場が組まれているところに夏井川の水の逆流を遮る“石のダム”ができた。これはあえなく失敗した。いよいよ今度はコンクリートで積年の問題を解消しよう、というわけだ。夏井川河口ではこうして、いつもバードウオッチングが閉塞と逆流のリバーウオッチングになってしまう。
 そのあと、防波堤に立って太平洋を望んだ。波が激しくブロックを噛んでいた=写真上2。風が強い。しぶきが飛んで来る。早々に退散した。

2018年10月30日火曜日

辛み大根を収穫

夏井川渓谷の小集落・牛小川は自然のどまんなかにある。人間が自然から少し土地を借りて家を建て、自然の恵みを受けながら暮らしている。人間は自然の間借り人にすぎない――そんなことを、あらためて実感する“事件”だった。
おととい(10月28日)、朝から渓谷の隠居で土いじりをし、昼食をとったあと、濡れ縁に揺りいすを出して、中折れ帽をかぶったまま昼寝をしていたら――。

なんと、野鳥が1羽、帽子のつばに止まって「チチチ」とささやくではないか。目を開けると、鼻の先に尾羽が垂れている。長い。色は茶系で先端が丸みを帯びている。重さはまったく感じなかった。人間と認識していれば、野鳥は最初から近づかない。動かぬモノ、たとえば岩かただの布と判断したから、止まって何秒か羽を休めていたのだ。町場のわが家では考えられない出来事だ。

それと同じくらいに不思議なことがある。庭のはずれの菜園に一度、辛み大根の種をまいた。以来、越冬して花を咲かせ、実の入った莢(さや)がこぼれて、勝手に発芽するようになった。今年(2018年)も草にまぎれて10株くらい生長した。

そのうちの1本が大きく葉を広げ、根元をのぞかせている。引っこ抜くと、太くて長い。これまで育ったなかで最高の出来だ。一生懸命世話を焼けばひ弱な細い大根になり、放っておけば勝手に立派な大根になる。辛み大根は野性が強いのだろう。

三春ネギはその逆で、手をかけないと太くならない。そのうえ、今年は秋雨が続いて、根腐れ気味だった。辛み大根と併せてネギを数本引っこ抜いたが、根を残して折れるものが相次いだ=写真。

辛み大根はきのうの朝、少しおろして醤油をたらし、味見をした。辛さがあとからきた。

この大根はしかし、おろしにしかならない。漬物や汁の実にしても硬いだけ。とはいえ、勝手に生長してくれた食材だ。おろし以外にも食べられる方法を考えないと。

ついでながら、帽子に止まった野鳥の種類は何だったか。ホオジロか、アオジか、スズメか……。野鳥図鑑を眺めては、ああでもないこうでもないとやっている。せっかく信用して頭の上で羽を休めてくれたのだから、特定しないとおさまらない。

けさは下半身が痛い。土いじりといっても大半は草むしりで、椅子カートを使ってスクワットをしているようなものだ。筋肉痛は翌々日にピークを迎えるらしい。

2018年10月29日月曜日

日曜日の土いじり

 10月は、週末に用事が続いた。平日、雑用の合間に夏井川渓谷の隠居へ出かけ、ささっと土いじりをしては帰って来る、ということをしても、菜園の草むしりはやっぱり間に合わない。
 体育の日(10月8日)に三春ネギの種まきをした。タイミングを逃したら、翌年、自産のネギを食べられない。まずは自分の“農事暦”の一つをこなしてホッとする。

 それからざっと3週間。きのう(10月28日)朝、隠居へ出かけて菜園の草むしりをした。

 白菜苗の畝をハコベが覆っている。苗のまわりのハコベを取り除き、三粒の点まきにしたままだった苗を一本立ちにした。間引いた苗は、汁の実にしてもたいした量ではない。別のところに植え直した。活着したらもうけものだ。

白菜は8月下旬に種をまいた。発芽しなかったり、発芽しても消えたりしたのが半分もあった。種まき直前に菜種の油粕をまいて土にすき込んだため、それから発生したガスで発芽障害がおきたのだろう。

余った種を育苗トレーにまき、自宅の軒下に置いて水やりを続けたら、本葉が出てきた。これを隠居へ持って行って補植した。間引いて植え直した苗も含めると、大・中・小合わせて50株になった=写真上。そのまま育てば、漬物だけでなく、春には菜の花の味が楽しめる。

 三春ネギの苗床の草むしりもした。ネギは芽生えたばかりで、丈は5~7センチ。発芽率はざっと7割か。今のところ、思った通りに緑の隊列ができている=写真下。ハコベかなにかの草の芽も生えてきた。これらはネギ苗に必要な日光を遮る。全部は取り切れない。が、隊列にまぎれている草の芽はあらかた除去した。取ってもとってもあとから生えてくる。そのつど手をかけるしかない。
 昼食と昼休みをはさんで、土いじりはざっと5時間に及んだ。三春ネギの種まきを終えたときには、ホッとしてどこかへ遊びに行きたい気分になった。そのあと、十分手をかけてやれなかった。きのうはたっぷり白菜とネギにつきあった。食害する黒虫も取り除いた。やれることはやった、あとはカツオの刺し身でグイッとやるだけ――久しぶりにそんな気分になった。

まちの暮らしはそれなりに楽しい。キョウヨウ(きょう用事がある)とキョウイク(きょう行くところがある)で忙しい。それでもどこかフワフワ漂っているような感覚がつきまとう。それを、日曜日の土いじりが解消してくれる。地に足が付いた感覚が戻ってくる。

一番の手ごたえは、太陽や雨風と一緒にモノをつくっている、という“創作感”に包まれることだろう。精神衛生上、土いじりが欠かせなくなった。

2018年10月28日日曜日

日本語スピーチコンテスト

 いわき地球市民フェスティバルがきのう(10月27日)、いわき駅前再開発ビル「ラトブ」6階、いわき産業創造館で開かれた。外国にルーツを持つ市民によるスピーチコンテストと、出場者と市民の交流会の二本立てで、ユネスコやシャプラニール=市民による海外協力の会などのブースも設けられた。
 いわき市民間国際交流・協力団体連絡会が主催し、市が共催した。シャプラニールいわき連絡会も主催団体に加わっているので、去年(2017年)に引き続き、5人の審査員のひとりに引っ張り出された。

 一般の部には英語指導助手(ALT)や主婦、技能実習生、小学生など7人、高等教育機関の部には中国・モンゴル・ネパールからの留学生5人が出場した。テーマは「こうなったらいいな 明日のいわき」。外国人から見たいわきのいいところ、改善してほしいところなどを、トツトツと、あるいは流暢に話した。

 大賞を受賞したのは、一般が小6の押川マリアさん(12)。ふるさとのフィリピンと日本は、「豊臣秀吉の時代には仲良くしていた。第二次世界大戦では日本が占領した。今は仲良くしている。私にできることは、みんなと仲良くし、協力し合い、ごみを拾うこと。そうすれば、笑顔ときれいな自然でいっぱいのまちになる。戦争がおきたら家族はバラバラになる。平和だといいなと思う」と訴えた。

 高等教育機関の部では、福島高専に留学しているモンゴル出身のオトゴンバートル・ムンフゲレルさん(20)が原発震災を取り上げ、ハキハキとした口調で「自分の目で確かめようと思っていわきへ来た。びっくりした。みんな普通に生活している。間違った情報のままでいるモンゴルの人に、世界の人に、ネットで正しい情報を発信したい」と語り、会場の共感を呼んだ。

 大賞以外にも、出場者全員に「ダジャレがうまいで賞」「ハスのように美しいで賞」「公園を増やしま賞」などと、聴衆と審査員の“合評”でスピーチ内容に見合った賞が贈られた。

「素晴らしい提案で賞」には、いわきに住む外国人の思いの一端が現れていた。「外国人ができる仕事を増やしてほしい。学校でもっと英語などを教えてほしい。運転免許を取るための知識をわかりやすく教えてほしい。外国の食料品が買える店があってほしい。多くの外国語の案内があってほしい」

「ふだんのいわき」とは違った「もうひとつのいわき」にいるような時間を過ごしたあと、出場者・スタッフ・市民が一緒になって記念写真に納まった=写真。

2018年10月27日土曜日

米づくりの現場

 中学校の同級生のなかには、地元に残って家業を継いだ人間もいる。先日行われた同級会は、彼らが幹事を引き受けて準備を進めた。
 その一人、片方の手足が少し不自由になった同級生は、若いころは地域農業の担い手だったに違いない。古希を迎えた今も、自分のところだけでなく、ほかの家の田んぼも頼まれて米をつくっている。コンバインを動かす分には、手足の震えも支障がないようだ。

 磐梯熱海温泉(郡山市)に一泊して、旅館のバスでまち(田村市常葉町)へ戻ると、その同級生が「家まで送ってくれないか」と言う。家に電話したが、奥さんは留守。ちょうどいわきへ帰る道筋だ。彼の住む集落を訪ねたことはなかった。好奇心も手伝って承知した。

 彼の家は県道から続く田んぼの沢道を1.5キロほど入った丘のふもとにあった。そこだけ何軒か家が連なっている。丘を越えると、隣町(田村市大越町)だ。三角形でいえば、二辺を通って行くところを、底辺を直行するようなものだ。いわきへ戻るには、寄り道どころか近道だった。

 家の前で彼を下ろすと、「倉庫を見てくれ」という。見た目はどこにもある農家の大きな物置。ところが、内部は“工場”になっていた=写真上。収穫した米を乾燥させ、ごみや不純物を除去し、玄米を量って袋に入れるといった一連の作業を機械がやる。コンバインはいくら、乾燥機はいくら、選別機はいくら……。合計すると、導入した機械の費用は1500万円にはなるようだ。

 フルカラーカメラによる選別機の説明を受けた。玄米にまぎれこんでいる高温障害の白未熟米(しらた)・茶色いカメムシ被害米・透明ガラスや樹脂・草の実などを瞬時に除去できるのだという。

農家はどこでもこれをやっているのかどうか。そこまで投資をするとなると大変なので、彼がよその家の選別も請け負っているのかどうか――。そのへんの話は聞き忘れたが、夏の青田、秋の黄金色の田んぼを見て「日本の原風景」などと癒されて終わっていた人間にも、収穫後のこの対応には厳粛な気持ちになった。米の食味と安全はこうして守られているのだ。

「福島県/放射性物質検査済/ふくしまの恵み安全対策協議会」のラベルを張った米袋があった=写真下。福島県内の米は原発震災以来、「全量全袋検査」を実施中だ。国の基準を超える米はない。99.9%は「ND」(検出できないレベル)で、安全は保証されている。なのに、彼の努力、つまり福島県の農家の努力は正当に報われているか、東京の消費者は一度、彼のような農家を見に来たらいい――そんな思いにもなった。
 車で送ってくれた礼なのか、彼は米袋に玄米を入れ、重量を量った。デジタル表示が「10.06」になったところで袋を閉じ、ひもで縛って、車のトランクに入れてくれた。カミサンが米屋をやっていることは黙っていた。それより、わが実家は床屋だから米は買って食べる。ふるさとの水で育った米を手に入れたのは、大人になってからは初めてではないか。そちらの方の興味がまさった。

「これから稲刈りだ」という。車で送る途中、稲穂が垂れている沢の田んぼを見て、「ここも、あそこも」と、コンバインを入れる場所を教えてくれた。それから5日たって迎えた週末、やっと一息ついているところだろうか。

2018年10月26日金曜日

旧任地での帰国報告会

国際NGO、シャプラニール=市民による海外協力の会の「バングラデシュ駐在員帰国報告会2018」が、おととい(10月24日)夜、いわき市平字三町目のアートスペースもりたか屋で開かれた。
 シャプラは、主にバングラデシュとネパールで①子どもの権利を守る②災害に強い地域をつくる③フェアトレードを通じて共生できる社会をつくる――などを柱に、支援活動を展開している。

そのひとつが、家事使用人として働く少女たちへの基礎教育や保健衛生、性教育などの知識の提供だ。現地のパートナー団体とともに、ダッカ市内3カ所でヘルプセンターを運営し、14歳以上の家事使用人の少女には縫製、絞り染め、ブロックプリントなどの職業訓練を、さらに全員を対象にした授業では刺しゅう、調理実習、ペーパークラフト、アクセサリ―作りなどを行っている。

報告会では、首都ダッカの事務所で1年間、駐在員を務めた猪瀬絢子(あやこ)職員が、「ラジオで変える、バングラデシュで働く少女の未来」をテーマに話した=写真上1。

シャプラは、東日本大震災が起きるとすぐ国内支援に入り、いわき市平で5年間、交流スペース「ぶらっと」を開設・運営した。猪瀬職員は2014年10月から1年間、いわき駐在員を務め、地元NPOや市民とも交流を深めた。報告会にはそのときからの知り合いなど25人が参加した。

バングラの児童労働の数は320万人(2006年国連統計)。うち家事使用人は42万1千人(2007年国連統計)で、80%が女子。女子の8割弱は14歳未満だという。

家事使用人として働く女の子たちが直面する問題は多岐にわたる。①労働環境(長時間労働=休日がない、無給もしくは低賃金、外出の機会が限られる、教育機会が少ない、食事が粗末・不規則)②暴力などの人権侵害③本人の意思に反した結婚――。

こうしたことが起きる背景には、男女の扱いが異なる慣習の名残、婚礼時の持参金制度(ダウリー制度)、子ども(特に娘)は働いて当然という風潮、自宅に一人でいることの危険、などがあるそうだ。

子どもには学ぶ権利がある。シャプラは働く少女を支援すると同時に、雇用主・保護者、地域、一般の人々・政府を巻き込むべく、ラジオを通じた啓発活動にも取り組んでいる。猪瀬職員は家事使用人として働く少女などへのインタビューを通して見えてきた課題や成果などを話した。
報告会のあとはキーマカレーを食べながら歓談した=写真上2。猪瀬職員はいわき駐在中に知り合った支援活動仲間と、いわきの人間もまた支援仲間と旧交を温めた。

猪瀬職員はいわき時代、私のカミサンの義伯父の家を宿舎にしていた。私は元「大家」として、「店子(たなこ)」に注文を付けた。「これからの報告会の教訓として、もう少しゆっくりしゃべること」

アンケートにも、「バングラの児童労働の現状がよくわかった」「生の声を聴けてよかった」という声に混じって、猪瀬職員をよく知る人が「少し早口でした。聞く側にも一呼吸を」とアドバイスを記していた。われら年寄りからのエールでもある。

子どもに必要なのは、「箒(ほうき)」ではなくて「本」――。いわきのあとは11月24日まで、和歌山、大阪、東京、愛知で報告会が開かれる。

2018年10月25日木曜日

ここにも少子化の波

 ここにも少子化の波が――。田村市立常葉中学校の昭和38年度卒の同級会が日曜日(10月21日)、郡山市の奥座敷・磐梯熱海温泉で開かれた。宴会場で、バスの中で、同級生と旧交を温めているうちに思い浮かんだのが、冒頭のフレーズだ。「ふるさとの今」がよくわかった。
旅館のバスが田村市常葉町~磐梯熱海温泉を往復した。東北新幹線とJR磐越東線の利用者は、郡山駅前でバスに合流した。マイカーで直接旅館へ向かう組もいた。私は実家に用があったので、いわきから常葉へ車で出かけ、そこからバスに乗った。帰りは逆のコースでいわきへ戻った。

 バスの発着場所は「役場」(呼び名は昔から変わらないが、5町村合併で「常葉町」から「田村市常葉町」になり、「町役場」も「田村市常葉行政局」に変わった)の駐車場。これが集合場所としては一番わかりやすい。

駐車場の道路向かいに子松神社がある。子どものころの遊び場の一つだ。確か10月25日、つまりきょうが本祭りのはず――。聞くと、25日に近い日曜日に変更されていた。今年(2018年)は27日が宵祭り、28日が本祭りだという。

 29年前、このお祭りについて書いた。「一筋町=写真=を氏子の行列が練り歩く。先頭を行くのは天狗。次に長獅子。そして、小学生による鞨鼓(かっこ)獅子、大人の神輿、中学生のタル神輿……。(略)沿道に鈴なりの町民。暴れたりしゃがみ込んだりの路上パフォーマンスを繰り広げる長獅子。それを見て泣き出す子。今も昔も変わらぬ渡御風景だ」

鞨鼓獅子を、俗に三匹獅子といった。一時休止されたが、平成22(2010)年に復活し、保存会で継承している、と田村市のホームページにあった。演じる小学生のいない時期があったのだろう。昔は氏子の家の男子児童が担い手だったように記憶する。今は小学校の統廃合で他地区から通っている女子児童も獅子頭をかぶるそうだ。

町内ごとに繰り出した中学生のタル神輿は、たとえばわが「上町第一」は今年、中学生が2人しかおらず、参加を見送ったという。

団塊の世代が子どもだった60年前は、タル神輿担ぎは「長男の特権」だった。その理由が今回わかった。芋を洗うように子どもがいた。わが町内では、昭和23年組だけで13人(男6人、女7人)。「長男」に制限しないと、収拾がつかなかった、ということらしい。「青年団」とは別に「少年団」があったことを思い出す。

ほかの天狗、長獅子は――。「よく見ると天狗の高下駄は二枚歯である」。前は一枚歯だった。「天狗に扮したのは、下駄など履いたことのない農協の若い職員」だ。「長獅子の面々も酒に強いとはいえない三十歳前後のマイカー族。『連中、年々おとなしくなる』と先輩たちがぼやいていた」。

「長獅子は酔った勢いで何でもやってしまう。スナックになだれ込んで酒を飲む。魚屋の前では刺身の差し入れがあるまで動かない。ハレの日だけの特権だ。ところが、やたらと座り込むのは、すぐ息が切れるためらしい。そばに寄るとみんなゼーゼーやっている」。これはきっと今も変わらないだろう。いや、ゼーゼーがひどくなっているかもしれない。

人口が少ない町の、そのまた一地域の祭りだからこそ、少子化問題が早くから浮き彫りになった。地域の片隅は、その意味では、行政の“末端”ではなく、時代の“先端”だ。

もはや、「町内だけ」「長男だけ」「男だけ」といった古い観念では、時代に対応できない。外部との回路を開いて関係を結べる人、いわゆる「関係人口」を増やしながら、祭りや産業・暮らしを考えないといけない時代に入った。

2018年10月24日水曜日

第41回吉野せい賞

 きのう(10月23日)昼前、いわき市役所内の記者クラブへ出向き、第41回吉野せい賞の発表会見に同席した。主催者の同賞運営委員会委員長が概略を説明し、5人の選考委員を代表して私が受賞5作品(奨励賞3編、中学生以下の青少年特別賞2編)の選評と総評を述べた。秋のいわきの恒例行事の一つで、「地元3紙」と河北新報が会見に参加した。
 今年(2018年)はたまたま中央公民館から月に1回、8月を除く5~9月まで計4回の市民講座を頼まれた。吉野せいの短編集『洟をたらした神』(中公文庫)をテキストに、作品に出てくる語句を注釈しながら横道にそれ、文学を越境してまた戻ってくる、といったやり方で話をした。同時に、8月後半から1カ月ほどは、ひたすら吉野せい賞の応募作品を読み続けた。

選考委員になって10年。『洟をたらした神』の注釈づくりを始めて数年。この秋は市民講座のこともあって、脳内がせい賞の応募作品とせいの作品で満たされた。せいの命日の11月4日・日曜日、草野心平記念文学館で表彰式が行われる。そこで総評と選評を述べれば、今年の選考委員としての役目が終わる。

 ところで、若いせいの思想形成に大きな影響を与えた人に、鹿島村(現いわき市鹿島町)の八代義定(1889~1956年)がいる。大正時代、牧師として磐城平に赴任した詩人山村暮鳥の理解者・協力者で、考古・歴史研究家、旧鹿島村長としても知られる。昭和27(1952)年には第1回福島県文化功労賞を受賞した。仕事の延長でいわきの近代詩史を調べているうちに、義定に出会った。

義定とせいの関係は次世代に引き継がれた。『洟をたらした神』が劇化され、せいの死をはさんで平と小名浜で上演された。小名浜での益金が市に寄付され、吉野せい賞が創設された。今年亡くなった義定の次男、八代彰之さんが小名浜での公演の中心になった。

 義定の長女は、福島高専の1年先輩の母親。小名浜の自宅へ飲みに行ったり、泊まったりしているうちに、義定の子どもや、孫である先輩のいとこたちとも知り合いになった。今、せいの作品注釈をライフワークにし、吉野せい賞の選考委員を務めているのも、義定とせいの関係の延長線上にいたからではないか、と思うことがある。その不思議を。

 今年は初めて、秋の彼岸に好間の龍雲寺へ足を延ばし、吉野家の墓に線香を手向けた。墓地=写真=の先は、夫とせいが開墾生活に苦闘した菊竹山。北西に500メートルほど離れたところに吉野家がある。墓参りをしてわかった。「『洟をたらした神』の世界」がこうして、また少し広がった。知る楽しみも、ともに。

2018年10月23日火曜日

古希祝いの同級会

 常葉中学校の同級会が日曜日(10月21日)、郡山市の磐梯熱海温泉で開かれた。昭和23(1948)年4月~24年3月生まれの団塊世代のど真ん中だ。もともと人口の少ない阿武隈の山里の学校なのに、5クラス二百数十人がいた。うち50人が参加した。
 同39年春に中学校を卒業後、5年刻みで同級会を開いてきた。全体の同級会としては最後になるようだ。「あとはいつ会えるかわからない」。そんな思いで参加した同級生が多かったのではないか。卒業以来、初めて、あるいは2回目という同級生が何人かいた。

一次会は型通りの大宴会。部屋に戻ってからの二次会が壮観だった。部屋が人で埋まった。部屋は大部屋、といっても中は和室で、4人用と3人用に仕切られている。4人部屋と3人部屋、ソファとテーブルが置かれている窓際の広縁の3カ所に分かれて、旧交を温めた。

「二次会は部屋で」と予約段階で話がついていたとかで、仲居さんがグラスを運んできた。アルコールは持ち込んだ。ふだんは飲まないような酒を用意したという。それで終わらなかった。話し足りないグループは、そのあと別の部屋で三次会に突入した。

 私は、三次会の話は翌朝聞いた。二次会が終わったのは夜更けの11時。ふだん9~10時に寝ているので、11時には睡魔が降りてきた。翌朝は5時すぎに起きた。前日に続いて雲一つない快晴だ=写真。頭もスッキリしている。同級会で二日酔いにならなかったのは初めてだ。

二次会ではアルコールを避けて、コーラにした。それにはワケがある。およそ1カ月前、いわきの夏井川渓谷にある隠居で福島高専の同級生6人でミニ同級会を開いた。飲み過ぎて足をとられて転び、座卓の角にしたたか胸を打ちつけた。

くしゃみをすると激痛が走る。整形外科で診てもらったら、左の10番目の肋骨が折れていた。湿布と胸バンドをして静かに過ごすようにいわれる。3週間後、順調に回復しているという診断。この間、自戒の意味も込めて禁酒していたので、そろりそろりとアルコールのリハビリを始めた。

とはいえ、「治った」とは言われていない。また酔っぱらって転び、ろっ骨を傷めた――となると、笑われるどころか怒られる。で、アルコールは一次会止まりと決めていたのだ。でなかったら、三次会までつきあって、「頭痛の朝」を迎えたかもしれない。

 おかげで、同級生の話をしっかり胸に刻むことができた。小学2年で自分の家の焼失と避難を経験した町の大火、ふるさとの山のスカイラインに林立する風車、放射性物質の全量検査をしている米、祭りや学校を直撃する少子化問題――など。「冥途のみやげ」ではすまされない「ふるさとの現実」がそこにあった。

2018年10月21日日曜日

非カエデの紅葉見ごろに

 テレビが伝える「紅葉情報」を見るたびに、「紅葉には二つあるぞ」と思う。テレビの「紅葉」はマークが示すようにカエデだ。ところが、カエデの紅葉の前に繰り広げられる非カエデの紅葉が、ほんとうは美しい。錦繍(きんしゅう)を山全体、森全体の織物ととらえれば、主体は非カエデであって、カエデではない。
 カエデはカエデ自身の鮮やかな赤が、非カエデは黄・茶・赤のハーモニーが人の心を引きつける。

 夏井川渓谷の隠居の庭から眺める対岸の森が、ツツジやヤマザクラなどを中心に、錦繍に染まりはじめた=写真上。カエデはまだあおい。カエデの紅葉を楽しむころには、非カエデの葉はあらかた散って裸木になる。全体の色合いを楽しむなら、やはり非カエデ、今だ。

 おととい(10月19日)午後、隠居へ行ったら、隣の「錦展望台」にトラックや乗用車が止まって、何人もの人が広場の草刈りをしていた。常置のコンテナハウス(春のアカヤシオ開花時と秋の紅葉時、直売所になる)のそばには「地酒」ののぼりが立っていた。

 隠居の向かい、道路と線路にはさまれた山側の空き地でも、住民のKさんが草刈りをしていた。紅葉シーズンに、行楽客が行き来する道路沿いをきれいにしておこう、というもてなしの心であることは、二十数年の付き合いからわかっている。

 すでに準備の終わったものもある。JR磐越東線江田駅近くの道路沿いにある空き地にパイプの骨組みができた=写真下。非カエデ~カエデの紅葉期、田村郡小野町のNさんが長芋と曲がりネギを並べる。骨組みにブルーシートをかければ、ちょっとした直売所になる。
 長芋の直売所はともかく、展望台の方は、きのうが非カエデ紅葉の最初の営業日だったのではないだろうか。
                   *
 きょうは夜、常葉中学校(現田村市)の同級会が郡山市の磐梯熱海温泉で開かれる。20歳のときから5年ごとに実施している。今回で11回目だ。前回はいわき市のハワイアンズで開かれた。前々回と前回の間に東日本大震災が発生した。地震・津波、原発事故でひどい目に遭っている浜通りを支援しようという名目が加わった。今回は、節目の古稀記念――というわけで、あしたのブログは休みます。

2018年10月20日土曜日

ハクチョウが来たよ

 今年(2018年)、会津の猪苗代湖にハクチョウが飛来したのは10月9日。すると、浜通り南部のいわき市にやって来るのは1週間~10日後の16~19日だろう。これまで個人的に記録してきた猪苗代湖・阿武隈川(福島市)と夏井川のハクチョウ飛来日のデータからいえることだ。そのとおりになった。
 猪苗代湖への飛来をニュースで知って以来、街への行き帰りに夏井川の堤防を利用して、ハクチョウ飛来の有無をチェックした。

きのう(10月19日)、それとは別に、夏井川渓谷の隠居へ白菜苗と三春ネギの芽生えの様子を見に行った。途中、小川町・三島で道路が夏井川と並走する。小川江筋の取水堰が流れをゆるやかにしている。そこがハクチョウの越冬地のひとつだ。冬鳥のマガモが3羽飛来していた。ハクチョウの姿はなかった。

隠居で少し土いじりをしたあと、帰途に就く。三島の夏井川が視野に入ると、浅瀬にハクチョウが2羽と3羽=写真=に分かれて、翼に首を突っ込んで眠っていた。マガモを見てからわずか1時間後だ。夏井川のメーン越冬地・平窪(平)から流れて来たのではないか。平窪もチェックしなければ――。

いわき市内の夏井川には越冬地が3カ所ある。上流から三島、平窪、塩~中神谷(平)で、冬、日常的にハクチョウを観察しているのは塩~中神谷だ。平窪は、上流の久太夫橋からチェックした。川面がハクチョウで白く点描されていた。大挙して飛来したようだ。これまでのウオッチング例からいうと、50羽以上はいるのではないか。

塩~中神谷はどうか。新川との合流点で道路拡幅のための護岸工事(右岸・山崎側)と、砂利採取(左岸・塩側)が行われている。なにかとざわついているためか、まだ姿を見せない。平窪で長旅の疲れを癒しながら、徐々に三島へ、塩~中神谷へと分散していくのだろう。

 ところで、写真に撮った三島のハクチョウ(翼を広げている個体)だが、データを拡大するとくちばしの黄色い部分が黒い部分より多い。体も見慣れたコハクチョウより大きかった。オオハクチョウの若鳥のようだ。最初の飛来がオオハクチョウというのは初めてだ。この何日かで北国も冷え込み、コハクチョウと一緒に渡って来たのだろう。

2018年10月19日金曜日

テレビの色が復活

 テレビをつけているときに息子が来た。「色、おかしいよ」。テレビの人間の顔の色が土気色だ。画面も全体に青っぽい。リモコンで調整しても変わらない。カメラでテレビ画面を撮ると、異常なほど全体が青紫色っぽくなる。夫婦で「おかしいな」といいながらも、そのままにしていたのだった。
去年(2018年)か一昨年、マチの家電商から買って取り付けてもらった。カミサンの同級生で、なにかあるとすぐ来てくれる「家電のホームドクター」だ。今度もすぐやって来た。量販店だと通り一遍の対応に終始し、結局は買い替えとなったのだろうが、ここはホームドクターががんばった。

月曜日(10月15日)、メーカーのサービス部門の人が来て、テレビのカバーをはずし、本体を取り換えた。カバーをしてスイッチを入れると、人間の顔に生気が戻っていた。正常な色が復活した。「半分」どころか「ずいぶん、青い」テレビを見ていたのだ。

お昼になったので、ニュースを見てBSプレミアムに切り替えたら、第34回ATP(全日本テレビ番組製作者連盟)賞テレビグランプリの放送になった。2017年度のドキュメンタリー部門受賞番組を、14・15日の2日間、NHK・民放の枠を超えて紹介する番組だった。

かけっぱなしにして座業を続ける。と、3時半ごろ、福島の映像が流れた=写真。「BS1スペシャル 福島タイムラプス 震災7年目の映像詩」(2018年3月11日放送)のダイジェストだった。優秀賞を受賞した。

あとで番組のPR文を読む。「福島県出身のタイムラプスクリエーター清水大輔さんが、震災から7年目の故郷の風景を撮影した映像美を通じて、再生への道を歩む福島の姿と人々の声を伝える」ものだった。

タイムラプスとは、連続撮影をした写真をつないで動画にする技法とかで、フェイスブックではだいぶ前から彼の作品がシェアされていたので、清水さんの名前も作品も承知はしていた。「福島県出身」というより、小名浜出身の「いわきの人」ではなかったか。

テレビの色が戻った瞬間に優れた作品を見られたことを幸運に思う。同時に、タイムラプスというものがより深く胸に刻まれた。

2018年10月18日木曜日

ポポーの実を食べた

客がいう「ポポー」を「ゴボウ」と勘違いした種屋さんの話を紹介しながら、「ポポーの名前を知ったからにはぜひ一度口にしたいものだが、こればかりはだれかの思いやりを待つしかない」と書いたら、さっそく、友人がポポーの実を持って来てくれた=写真。常磐の知人の家の庭にあるポポーが、台風24号の影響で落果した。そのお福分けだという。
見た目は、黄色いアケビ。香りは、かなり強い。9月15日に開かれたいわき地域学會の市民講座は、吉武利文会員(香りのデザイン研究所)が担当した。「香りの文化史」と題して話した。そのとき、試しに嗅いだ乳香を思い出した。

 ポポーは、春に腐肉臭のする紫色の花をつけ、秋に黄緑色の薄い外果皮をもつ果実をつける。完熟すると木から自然に落ちる。それから数日後、香りが強くなったときが食べごろだそうだ。果肉はやわらかく、甘い。外観がアケビ、種が柿に似るため「アケビガキ」とも呼ばれる、とネットの事典にあった。

何日か冷蔵庫に入れて“追塾(ついじゅく)”し、果皮が黒ずんできたところで、皮をはがしてがぶりとやった。確かにやわらかい。甘い。種は? これもいわれるように柿の実のかたちをしているが、それよりは大きくて厚い。

味の表現には迷う。真っ先に「ソフトクリーム」を連想した。味というよりは舌触り、これが最初に脳を刺激した。ネットには「マスクメロン」、あるいは「森のカスタードクリーム」といった比喩が並ぶ。

きのう(10月18日)もポポーのお福分けがあった。前のポポーと違って、緑がかっている。前は卵型、今度のは細長いムラサキアケビ型。大きさが違う。ポポーにもいろいろ種類があるらしい。手に取るとすでに熟しているのか、やわらかい。すぐ皮をむいて食べた。甘い。が、前のときよりはあっさりしている。追熟すればもっと濃い味になるのか、それともそういう味の品種なのか。

ポポーは見るのも食べるのも初めてだった。が、庭木としてはけっこう知られているらしい。カミサンの実家にも、昔、ポポーの木があったという。書けば、いつも「だれかの思いやり」が届くとは限らないが、来るときは来るものだと、うれしくなった。

2018年10月17日水曜日

バングラ前駐在員の帰国報告会

シャプラニール=市民による海外協力の会は国際NGOだ。南アジアのバングラデシュやネパールで、①子どもの権利を守る②災害に強い地域をつくる③フェアトレードを通じて共生できる社会をつくる――などを柱にした活動を展開している。創立メンバーの一人が福島高専の寮仲間だったので、前からかかわっている。
シャプラのバングラ事務所で1年間、駐在員を務めた猪瀬絢子職員が来週水曜日(10月24日)午後6時から、いわき市平字三町目のアートスペースもりたか屋で帰国報告会を開く=写真(チラシ)。

シャプラは東日本大震災直後から初めての国内支援に入り、平で5年間、交流スペース「ぶらっと」を開設・運営した。帰国報告をする猪瀬職員は、1年間、いわきにも駐在した。地元NPOや市民に知り合いが多い。

シャプラの活動報告会は、これまでにもいわきで何度か開かれている。が、いわき駐在経験スタッフの報告会は初めてだ。いわき以外では、東京・和歌山・大阪・愛知で開かれる。

「ラジオで変える、バングラデシュで働く少女の未来」をテーマに話す。シャプラは2006年から、家事使用人の少女たちの権利を守るための支援活動を続けている。報告会では、現在取り組んでいるコミュニティラジオを通じた啓発活動について、家事使用人として働く少女などへのインタビューを通して見えてきたことを紹介する。

 4カ月前、バングラデシュのダッカ事務所駐在員、つまり彼女から活動の現況を伝える手紙がシャプラ会員やサポーターに届いた。おおむね次のようなことが記されていた。

――ダッカは、街の発展が見て取れる。でも、その変化から「取り残された人々」がいる。シャプラはそうした人々への支援活動を続けている。
 
 具体的な取り組みとしては、児童労働削減のため、現地のパートナー団体とともに、ダッカ市内3カ所でヘルプセンターを運営し、14歳以上の家事使用人の少女には縫製、絞り染め、ブロックプリントなどの職業訓練を、さらに全員を対象にした授業では刺しゅう、調理実習、ペーパークラフト、アクセサリ―作りなどを行っている。

学び成長するという当たり前の権利を一人でも多くの子どもたちが享受できるように――という思いを届ける報告会でもある。

定員は30人。参加費は500円で、キーマカレーが出る。問い合わせはシャプラニールいわき連絡会・吉田(0246-34-7871)か、シャプラ東京事務局・鈴木(03-3202―7863)へ。

2018年10月16日火曜日

「おんべいまつり」

 東日本大震災の月命日(10月11日)に、薄磯海岸で再開したカフェ「サーフィン」を訪ねた帰り――。
県道小名浜四倉線から北方に見える山並みと雲の写真を撮るため、田んぼのあぜ道に曲がって車を止めると、そばに立て札があった=写真。「おんべいまつり (御幣=氏神) 10月15日 白山神社々務所」と書いてある。

「おんべいまつり」? よくわからないままいると、週明け月曜日(10月15日)、若い人が「本日は氏神祭。神社から受けた御幣を、早朝、庭の氏神様に納めた」と、フェイスブックで報告していた。これか!

早速、わが家にある民俗学関係の本に当たる。ネットでも確かめる。いわき地域学會副代表幹事を務めた故佐藤孝徳さんの文章が目に留まった。

年中行事が忘れられてゆく。旧9月の氏神祭くらいは残してほしい――と前置きして、「氏神とは家(氏)を守護してくれる神で、先祖の人々がまつられている。だから、秋に収穫された稲を供え、神とともに分かち合って食べるのが、この氏神祭りである」と解説していた。

 祭りの名は「まつられる幣束からきているようだ。(略)神を敬う意味から接頭語の『御』を付けて『御幣』。それを『おんべい』と読むのが標準語なのだが、わが磐城のお国言葉だと、訛って『おんべん』と言う」と佐藤さん。「おんべい祭り」(幣束祭り)は、土地の言葉では「おんべん祭り」になるのか。

 さすがは「いわきの『歩く百科事典』」。生きていれば、電話一本でさらに詳しく聞くところだが……。

「おんべいまつり」を知らなかったのは、庭に氏神さまをまつるような家ではなかったことが大きい。それに、各家の行事でもあるので、メディアがニュースにすることもなかった。

 いわきの隣、阿武隈高地の川内村ではどうか。いわき地域学會が請け負って調査・執筆した『川内村史』のうち、 第3巻「 民俗篇」(1988年)には陰暦9月の年中行事として、「9日ツトコまつり」が紹介されている。

「幣束まつりともいう。新しい米に小豆や栗を入れたおふかしをつくり、小さく握って藁のツツコに入れて氏神様に供える。諏訪神社の神官が幣束を準備し、各家に届ける」。いわきの白山神社では、氏子が社務所へ受け取りに行ったのだろうか。あとで図書館から『いわき市史 第7巻 民俗』(1972年)を借りてきて読んでみよう。

2018年10月15日月曜日

勿来と泉ケ丘へ

 三春ネギの種まきを終えた。白菜苗の補植も済ませた。日曜日、夏井川渓谷の隠居へ行っても、することがない。カミサンが「勿来の『青空ゆいまーる市場』へ行きたい」という。泉ケ丘のギャラリーいわきでは、あす(10月16日)まで阿部幸洋新作展が開かれている。きのう(10月14日)、骨休めを兼ねていわきの平野部を往復した。
いわき市はかつて、日本一の広域都市だった。北から大久川、夏井川、藤原川、鮫川の4水系で市域が構成されている。私は、夏井川の下流域に住む。上流域の隠居と自宅は車で30分。移動するのになんのためらいもない。が、藤原川を越えて鮫川流域へ――となると、けっこう覚悟がいる。それだけいわきは広い。

「青空ゆいまーる市場」はフリーマーケットだ=写真上。若い仲間の奥さん(臨床心理士)が中心になって、年に一回開いている。彼女は空き店舗を利用した交歓の場「なかゆくい」を主宰している。フリマはその一環でもある。カミサンがシリアの「アレッポのせっけん」の販売を委託したこともあって、顔出しと買い物を兼ねて出かけた。

「なかゆくい」も「ゆいまーる」も沖縄のことばだ。「なかゆくい」は「一休み」、「ゆいまーる」は「相互扶助」=「結(ゆい)」のこと。主宰者が沖縄で仕事をしていたことがある。お気に入りのことばなのだろう。

もう30年以上前になる。いわき民報の勿来支局に勤務し、鮫川流域を取材エリアにして駆けずり回った。「なかゆくい」のある窪田町通にも何度か足を運んだ。が、当時よりシャッターを下ろしている店が多いような気がする。日曜日だから? あるいは、文字通り「シャッター通り」になってしまった?

フリマをのぞいたあとは、泉ケ丘へ――。支局時代同様、山際を縫う昔の「浜街道」を利用した。植田~添野~渡辺と進めば、丘陵を切り開いた泉ケ丘までは近い。

ギャラリー=写真下=で画家の阿部と旧交を温める。彼が故郷のいわきで初めて個展を開いたのは19歳。そのころからの付き合いだ。今はスペインに住む。「とうとう定年退職の67歳になった」という。何のことかと思ったら、年金受給の話だった。
スペインでは、年金生活者が働くと、収入の半分は税金として持っていかれるそうだ。仕事をしないで年金で暮らすよりは、税金を払ってでも仕事を続けた方がいいに決まっている。死ぬまで絵描きをやめられない人間には、定年退職はないのだから。

晴れていれば、勿来へ行くといつも北関東の開けた空を感じる。曇っていたので、今回はそうでもなかった。が、夏井川水系の人間が鮫川水系の人間に会いに行き、藤原川水系で個展を開いている人間と茶飲み話をする――いわきならではの長い“市内ドライブ”になった。

2018年10月14日日曜日

ヨーロッパコマドリのこと

いわき駅前再開発ビル「ラトブ」5階のいわき総合図書館入り口に、持ち帰り自由のリサイクルコーナーがある。おととい(10月12日)は絵本2冊を手に入れた。
うち1冊はアデル・ジェラス/作、クリフ・ライト/絵、直野洋子/訳『わたしからあなたへ』(草炎社、2006年)。ウサギの子どもが主人公だ。「ピーター・ラビット」と同じイギリスのアナウサギにちがいない。どう描かれているのか。

空いっぱいの朝の光・おはようのキス・はばたく夢・隠れる木・木漏れ日・雨上がりの水たまり・石でつくった塔・笑顔・静かに安らかに更ける夜・月明かり・星――みんなあなたへの贈り物だ。自然は万物の命のみなもと、自然の中で暮らす生きものたちよ永遠に、ということだろう。

ページをめくると、すみっこに顔から胸が赤橙色のヨーロッパコマドリが描かれている。中の方でもところどころ、ウサギにつかず離れずといった感じで登場する=写真。ウサギたちのふるまいを目撃する読者の代表なのかもしれない。イギリスでは市民になじみの深い鳥で、「国鳥」扱いをされているほど人気があるようだ。

 9年前の2009年9月、同級生の病気見舞いと還暦を記念して“北欧修学旅行”を敢行した。スコットランド(イギリス)の東、ノルウェーの古都・ベルゲンでは、1979年に世界文化遺産に指定された「ブリッゲン」や、郊外のトロルハウゲン(トロルの丘)の作曲家・グリーグの家を見学した。なかでも、氷河がつくった海、ソグネフィヨルドは圧巻だった。

足元の小さな一点景も記憶に刻まれた。グリーグの家の庭では、ヨーロッパコマドリに遭遇し、タヌキノチャブクロほかの菌類を見た。「1年に400日は雨が降る」という多雨地帯のうえ、緯度が高いために、北欧ではキノコの腐敗を早めるハエの幼虫が少ない。向こうで長くキノコ狩りを楽しめるのはそのためだという。

北欧旅行を楽しんだ年の12月。イタリアに住むカミサンの同級生からクリスマスカードが届いた。夏休みに別荘で過ごした際、軒下に巣くっていたスズメバチの写真と、10月初旬、いつもより早く自宅の庭にやって来たというヨーロッパコマドリの写真が添えられていた。北方のヨーロッパコマドリは、冬には暖かい地方へ南下して越冬する。

人に見守られているヨーロッパコマドリに対して、日本のコマドリはどうか。日本野鳥の会いわき支部の支部報「かもめ」第138号(2018年4月1日発行)が届いたとき、愕然とした。

支部長の年頭所感――。いわき市内で計画が進められている再生可能エネルギー6事業(風力発電)のうち、(仮称)阿武隈南部風力発電事業について、「市内で唯一のコマドリやコルリの繁殖地であり、その他の希少種や渡り鳥への影響、更には環境保全の観点からも問題が大きい」として危惧し、県と市に配置計画の見直しなどを求めて要望書を提出した、という。

 同支部発行の『いわき鳥類目録2015』によると、コマドリは夏鳥で、4月末に南からいわきへ渡ってくる。落ち着く先は落葉広葉樹に混じって背丈の高いササが茂る800メートル級の山地だ。繁殖が局地的なこともあって、観察が難しい。風車建設でコマドリの営巣地を失ってはならない。

2018年10月13日土曜日

三春ネギの種まき終了

「10月10日」は、私にとっては特別な日だ。なにがなんでもこの日でないといけない、というわけではないが、この日前後に必ずやることがある。昔野菜の「三春ネギ」の種まきだ。かつては国民の祝日「体育の日」(平成12=2000年からは「ハッピーマンデー」制度で10月第2月曜日に移行)が「種まきの日」だった。単純でわかりやすかった。
 夏井川渓谷の小集落・牛小川に隠居がある。集落では夏井川上流の田村郡から伝わって来た三春ネギを栽培している。22年ほど前、土地の人から三春ネギの苗を譲り受けて、隠居の庭で栽培を始めた。

東京方面から伝来したいわきの平地のネギ(千住系)と違って、三春ネギは秋まきだ。

それぞれの栽培者によれば、「種まく日」は平地のネギが4月10日、山地の三春ネギが10月10日と決まっている。ちょうど半年のズレがある。三春ネギは、10月10日が祝日でなくなってからは、その日に最も近い週末にまく。今年(2018年)は、時間がとれなくて作業が遅れ気味になった。9月30日・石灰散布、10月5日・肥料すき込みのあと、3連休最後の体育の日(10月8日)に種をまいた。

ネギと白菜――これがこの冬、「自産」で手に入る予定の野菜だ。白菜は8月下旬に種をまいた。芽が出たのはいいが、およそ半分は発芽しないか、発芽しても消えた。種まき直前に菜種の油粕をまいて土にすき込んだ。それから発生したガスで発芽障害がおきたらしい。虫に食われたり、育ちが悪かったりして、半数の15株ほどは補植が必要になった。

白菜の種をまいたあと、余った種を育苗トレーに埋め込み、自宅の軒下に置いて水やりを続けたら、本葉が出てきた。おととい(10月11日)、これを隠居へ持って行って補植した=写真。もったいないので、時期を失しないうちに種をまいた。それだけのことで、補植を想定していたわけではない。結果的にはこれがよかった。

晴れていると、定植した苗がすぐしおれる。苗のストレスが少ないように、曇雨天を狙った。小雨の中、コートを着て作業を続ける。終われば、やはり気持ちが晴れる。

 ネギの話に戻る。去年は三春ネギの消費を抑えて越冬させ、夏にいっぱいネギ坊主を収穫した。いつもの3~4倍の種が採れた。苗床もそれに合わせて拡大した。白菜補植に合わせて苗床をチェックすると、早くもモグラ道ができて一部が盛り上がっていた。これが繰り返されるとネギ苗は枯れる。

モグラその他による目減り対策として、白菜を補植して空いた育苗トレーに土を盛り、ネギの種をまいた。それが、きのう(10月12日)の朝。こちらはわが家で管理する。ネギの発芽・育苗過程もじっくり見ることができる。

野菜は種まき時期を逸すると、1年先、あるいは半年後まで待たないといけない。三春ネギに関しては、ざっと半年先の春の定植、1年半後の採種を念頭において種をまく。今年も10月10日をはさんでこれを終えた。白菜苗の補植も済ませた。子どもではないが、大きな宿題が終わったので、どこかへ遊びに行きたい気分だ。

2018年10月12日金曜日

薄磯でカフェを再開

 きのう(10月11日)午後、外出から帰ってフェイスブックをチェックすると、薄磯復興協議委員会の「カフェーサーフィンオープン」の記事が目に留まった。「薄磯にとっては震災後、初めての飲食店となり、ほんとうにうれしい再開でもあります」。複数のFB友が記事をシェアしていた。
すぐカミサンと出かける。わが家から車でおよそ10分。薄磯が大改造されて新しい道ができたため、少しカフェが近くなった。

 2011年3月11日――。大津波が岩手・宮城・福島県などの太平洋沿岸を襲った。いわきの薄磯も壊滅的な被害を受けた。海岸堤防のそばにあった「サーフィン」(鈴木富子さん経営)は流され、すぐ裏の自宅も1階部分が津波にぶちぬかれた。鈴木さんはかろうじて避難して無事だった。

 鈴木さんは、カフェとは別にキルトなどの手仕事をライフワークにしている。カミサンは店(米屋)の一角でフェアトレード関係の小品や古い布切れなどを扱っている。で、鈴木さんが古布を買いに来る、私らが「サーフィン」へコーヒーを飲みに行く、ということを震災前に続けていた。

 震災後の2011年7月。日曜日にかぎって通れるようになった海岸沿いの道を利用して薄磯地区に入ると、津波に流されてほぼ更地化したなかに、1階部分の壁は抜けながらもポツンと立っている建物があった。鈴木さんの家だった。そこに鈴木さんが立っていた。災後初の再会が生存の確認になった。

防波堤で津波の来るのを眺めていた住民はそのままさらわれた、義理の弟夫婦など身内も6人いっぺんに失った――大津波が押し寄せてきた当時の様子を生々しく語る鈴木さんに、黙って向き合うしかなかった。

 その後、鈴木さんは常磐湯本町で「サーフィン」を再開する。湯本は母親の出身地。自分も湯本駅前で生まれた。店を再開したものの、鈴木さんは海とともにある暮らしが忘れられなかった。いつかは薄磯に店を再建したい――湯本の店で強い思いを語った。それが、やっと実現した。

 前に店があったところは防災緑地に替わった。宅地化された丘陵のふもと、豊間小学校の近くに新しい「サーフィン」が建つ。外観は黒一色=写真下。前と同じように、1階は駐車スペース、カフェは2階にある。店の入り口に立つと、鈴木さんと目が合った。「うわさをすれば……」とにっこりする。先客にキルトの仲間がいた。その人たちとカミサンの話にでもなったのだろう。

 コーヒーを頼んだ。まず、小瓶とコップが置かれる。お冷やである。小瓶も、コーヒーカップも、受け皿も一つひとつ異なる。気に入ったものを店のインテリアと用具にする。鈴木さんの遊び心は健在だった。

 ひととおり店内=写真上=を見回し、落ち着いてから聞いてみる。「なぜきょうに?」「豊洲のオープンに合わせたの」。震災の月命日だから、ではなかった。親戚かだれかが市場に関係していて、それに合わせたのだそうだ。予想外の答えが返ってくるところが、また鈴木さんらしい。
「紹介するね、娘と嫁さん」。厨房では若い女性が2人、忙しそうに立ち働いていた。「通いなので、営業時間は午前11時から夕方5時まで。定休日は月曜日と第1・3日曜日。孫のお相手もしたいからね」。話がわかりやすい。

 薄磯は震災後、景観が一変した。海は高台の宅地からしか見えない。それでも、潮風が「サーフィン」をなでていく。

 マチに住んでいて、週末にはヤマの隠居で過ごす。思いたったら、今度はウミへ――息抜きの場所がひとつ増えた。海を感じながらのカフェ再開を心から喜んでいるのがわかるほど、鈴木さんの表情は明るかった。

2018年10月11日木曜日

最後の田んぼが消えた

 つい先日、そこを通ったら、境界が3段のブロックで囲われ、土盛り中だった=写真。住宅に囲まれて休耕化した田んぼがある。それを除けば、散歩圏内で唯一の水田だった。
田畑が宅地に替わる状況は東日本大震災前からあった。震災がそれを加速した。拙ブログから抜粋して変化を追ってみる。

震災から11カ月がたった2012年2月――。双葉郡から避難して来た人が増えた。わが家(米屋)にそういう人が来る。散歩コース沿いにある戸建ての空き住宅やアパートがふさがった。

旧国道沿いの駐車場で工事が始まったと思ったら、たちまちアパートが建った。各部屋のガラス窓にはすべて「予約済」のステッカーが張られてある。道路向かいの家並みの裏、農業排水用の小川をはさんだ北側に水田がある。一部が埋め立てられ、アパート2棟の建築が行われている。こちらも「満室御礼」の看板が立っていた。

被災家屋の解体と建て替え、そしてアパートの新築と、いわきでは宅建業界が大忙し。住宅に関して言えば、解体と建設が同時進行的に行われている。

それからさらに半年後の2012年9月――。新旧国道の間に家が立ち並ぶ。家並みにはさまれて畑が残る。その一部、といっても小学校の校庭の半分くらいはある、そこが2階建てのアパート4棟と駐車場、入居者の家庭菜園になるという。津波被災者、あるいは原発避難者のためのアパートではなく、単に若いファミリー向けが3棟、独身者向けが1棟ということだった。

いわき市は市街化区域内に多くの未利用地を抱えている。わが家の裏手の畑がそれに当たる。家並みに囲まれた周辺の田畑も一部、宅地化された。震災後、そうしたケースが散見されるようになった。都市計画上は歓迎すべきことなのだろうが、地域との“共生”という点では悩ましさが増す。

さらに震災から5年後の2016年2月――。時間の経過とともに、小川(農業排水用)の北側の田んぼが宅地に変わり、アパートや戸建て住宅ができた。2月のある日、義伯父の家の裏からクレーン車の長い腕が伸びていた。家を建てているところだった。田んぼがまた消えた。

 中神谷に移り住んだのはもう37年前。そのころ、道路のすぐ向かいにも田んぼが残っていた。初夏は夜になると、カエルの大合唱が聞こえた。やがて田んぼは埋め立てられ、道路向かいは駐車場に、その奥は宅地になった。そこに義伯父が家を建てて首都圏から移住した。

 田んぼは何枚残っているのだろう。家から半径100メートルの範囲内を、散歩を兼ねて見て回った。37年前には田んぼが十数枚、いやもっとあったか。畑も小学校の校庭分くらいは残っていた。今は、畑はアパートができて半分に減り、田んぼは3枚あるだけだ。田畑に囲まれて家々が立っていたのが、家々に囲まれて田んぼや畑がある。ずいぶん様変わりした。

さて、震災から8年目の今年(2018年)、耳に入ってくる話といえば――。新築アパートなのに、もう空き部屋がある。建設業界の震災バブルは終わった。全般的に受注が減っている。建設業界は、震災前は青息吐息だった。復興需要で「いきぼえ」(いわき語で「勢い」)が上がった。それにもブレーキがかかってきた、ということだろう。