2019年3月8日金曜日

「白い爆発」と「黒い爆発」

 フェイスブックに若い知人が<「原発爆発」映像が呼び覚ます「3・11」の実相>というタイトルの記事を紹介していた。プリントアウトしてじっくり読んだ=写真。筆者は日本テレビの経済部長・政治部長・解説主幹などを歴任した倉沢治雄さん。「テレビメディアと原発事故」を考えるうえで大いに参考になるテキストだ。
系列の福島中央テレビ(FCT)が東電の福島第一原発(1F)の建屋爆発事故をテレビ局で唯一、映像にとらえた。なぜFCTは爆発の映像を撮ることができたのか。ローカルレベル、つまり福島県内では視聴者がリアルタイムで爆発映像を見ることができたが、キー局の日本テレビはそれを放送するまでに1時間以上もかかった。その理由は?

当時、「実相」を知りたくて情報を探った人間としては、テレビ局の「中の人」が「中の人」の話を聞いてまとめたこの記事で、ようやく腑に落ちるものがあった。

FCTは平成23(2011)年3月12、14日の原発建屋爆発映像スクープで、2012年度日本記者クラブ賞特別賞を受賞した。当時の活字メディアや今回の文章によれば、次のような経緯があって「世紀のスクープ」が生まれた。

平成12(2000)年、1Fから南西約17キロの楢葉町の山中にある中継塔にアナログカメラを設置する。同21(2009)年にはさらに、高画質のデジタルカメラを1Fから2.3キロ、2Fから1.7キロの沿岸部に取り付ける。ところが、「当面バックアップ用に」と残しておいた山中のカメラをのぞいて、よその放送局も含めてカメラがすべて大地震による停電の影響で使えなくなった。

山中のカメラは、内陸の送電網から電源が引かれていた。事故を起こすとすれば2Fではなく古い1Fの方という判断から、メンテナンス後も必ず1Fに向くようにしていた。そもそもカメラは「前年(1999年)に起きたJCOの臨界事故」を教訓に、「原発立地県のテレビ局として、常にウォッチする必要がある」という考えから設置された。それらもろもろが積み重なって水素爆発の瞬間を撮影することができた。

しかし、キー局が最初の水素爆発を放送したのは1時間余りたった午後4時49分だった。「中の人」の文章で理由がわかった。報道局幹部が「そのまま放送するとパニックが起きるとためらった」。解説のためにテレビ局に来た専門家も、「爆破弁の開放では」と事態を矮小化して考えた。

震災当時、いわきから30キロ先にある1Fに関しては、テレビで情報をとるしかなかった。初回は「白い爆発」だった。ところが、2回目は「黒い爆発」だ。FCTの14日の映像を見て、思わず「終わった」、胸の底からつぶやきがもれた。小学校2年のときに町が大火事になって、避難した。人生のたそがれ期に「また避難か」と愕然とした。

いわき市が震災時の情報入手などに関する市民アンケートを取った。その結果が震災翌年の「広報いわき」11月号に載った。「なにから情報を入手したか」。テレビが90%前後と圧倒的に多かった。避難の有無では、まず津波避難があり、次いで原発避難が起きた。避難した日は「3月15日」がピークだった。「黒い爆発」の映像が背中を押したのだろう。

テレビメディアの使命はこうしたときの速報性にある。キー局はしかし、それをためらった。「放射能の被害から人々の命と健康を守るという視点で考えると、この1時間13分の遅延は極めて重要だ」。系列局とキー局とのやりとり、アナウンサーや記者、報道幹部の葛藤……。なにはともあれ、あのときのFCTの仕事にはあらためて敬意を表したい。

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