いわき市の北、双葉郡へは、ふだんは行かない。阿武隈高地の山の向こう、田村市常葉町の実家への行き帰り、夏井川沿いを駆け上がったら、国道288号(郡山市と太平洋側の双葉郡双葉町を結ぶ、阿武隈高地越えの幹線道路)~主要地方道いわき・浪江線(通称・山麓線)を下り、たまに国道6号へ出る。原発事故が起きたときにはいずれも避難路になった。
長らく「富岡以北通行止め」の規制がかかっていた国道6号は、5年前の2014年9月15日、2輪車を除いて通行が再開された。
4年前の3月1日、常磐富岡IC~浪江IC間が開通し、常磐道が全通した。これに伴い、阿武隈高地側から常磐道へのアクセス道路として、山麓線と、山麓線との交差点から以西の国道288号が通れるようになった。その年の暮れ、実家へ帰った帰り、震災後初めて288号~山麓線を利用した。
山麓線は文字通り、広野・楢葉・富岡・大熊町の山麓を縫うように走る。そこはたびたび通っても、市街が点在する平地~沿岸部は、行った日を覚えているくらいに少ない。2013年11月2日、首都圏からやって来た“ダークツーリズム”の一行十数人に同行して、広野・楢葉・富岡各町を巡った。
富岡では、山麓線沿いのほか、夜ノ森地区と沿岸部を見て回った。海の見える富岡駅に通じる商店街で、ずれて斜めに傾いた美容室の看板時計に出合った。時計の針は「2:46」をさしたままだった。その先にある駅は惨憺たるありさまだった。電柱が傾き、折れ曲がり、線路がセイタカアワダチソウに覆われていた。
2012年の歌会始に、元福島高専校長の寺門龍一さんが最年長で入選した。「いわきより北へと向かふ日を待ちて常磐線は海岸を行く」。寺門さんの自宅は茨城県、校長官舎は平にある。かつて利用した常磐線の全面復旧を願い、併せて被災地の復興を祈って詠んだ。
そのころ、富岡町は全町避難が続いていた。事故から2年後の3月25日、避難指示区域が解除され、日中の出入りができる避難指示解除準備区域と居住制限区域、立ち入りができない帰還困難区域に三分される。さらに2年前の2017年4月1日、帰還困難区域を除いて富岡町の避難指示が解除された。
私が初めて富岡駅を見てから6年――。駅舎は新しく建てられ、電車も発着するようになった。富岡~浪江間は代行バスが走っている。新常交も、富岡の「町内循環線」と、いわきを結ぶ「急行いわき―富岡線」のバスの運行を始めた。
そんなことを思い出しながら彦根東高新聞部員と話していたところへ、ツアーのバスが到着した。富岡から各地を転々として最終的にいわきに避難し、シャプラニールとも交流するようになった「富岡すみれ会」の田中美奈子さんがツアーガイドを務めた。
富岡駅で3・11当時の説明を聴いたあと、少し北にある海食崖に移動して、そこから南に見える復旧工事中の漁港、富岡駅、東電福島第二原発などを見た=写真上1。
事故を起こした1Fは富岡町の北隣・大熊町と双葉町にまたがってつくられた。2Fは南隣・楢葉町にあって、敷地の一部が富岡町に入っている。「1Fだけでなく2Fも廃炉が決まっています」「建設中のあの橋は、津波が来たときの避難路にもなるということです」。地元の事情に精通している田中さんならではの説明に何度もうなずいた。
田中さんが説明の場所に選んだ崖の上は、震災前、結婚式場があったところだという。田中さんもそこに勤めていたことがある。崖の上にありながら、大津波の被害を受けた。更地になった今は、サーファーが駐車場に使っていた。
以下は、おまけ――。富岡駅で一休みしている彦根東高の生徒を見ると、田中さんはガイド用に携帯している写真をめくりながら説明を始めた。
生徒の一人にハッパをかける。「カメラ、カメラ、この瞬間を撮らなきゃ」。一人が走ってカメラを取りに行く。取材はあとでもできるが、シャッターチャンスは再現できない。そのあと、高校生は自分たちがつくった新聞をツアーの一行に配ってPRした。そのシーンを部員が撮影するところを、撮った=写真上2。
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