2010年7月20日火曜日
平六小校歌と草野心平
昭和28(1953)年9月24日、草野心平は平六小の校歌をつくるため、下調べにやって来た。神谷(かべや)村が平市と合併したのは昭和25年5月。村の名が消え、神谷小も平六小に改称された。それから3年余、平六小の名にふさわしい校歌を――となったのだろう。
学校のすぐ裏手を小川江筋が流れ、学校前方南の水田には立鉾鹿島神社の森=写真=が見える。地元からの要請で心平に話を伝えた、心平のいとこの平二中校長草野悟郎さんも招かれ、一緒に学校の内外を見て回り、学校の沿革を聞いた。
その晩、学校の近くにある大場家で歓迎の宴が開かれた。心平と悟郎先生、校長やPTA役員らがごちそうをつついてにぎやかに語り合った。このあと、心平は大場家に泊まらず、悟郎先生の家に行く。翌朝、悟郎先生の家にやって来た校長、PTA会長らに頼まれて色紙に何かをかく――という、よくある展開になる。
昭和26年発行の『神谷郷土史』によれば、合併当時、大場家は父子で村医・校医を務めていた。若先生の夫人はPTA副会長だった。『神谷郷土史』は最後の神谷村長、神谷市郎さんが著した。
それはさておき、『草野心平日記』を読んだ印象でいえば、いわき市内にある心平作詞の校歌のいくつかは、悟郎先生が橋渡し役になって、できた。いとこを介した依頼では断れないだろう――頼む側にはそんな期待と打算があったに違いない。要するに、悟郎先生を通せば間違いがない、ということだ。
以上のことは『神谷郷土史』の部分を除いて、「歴程」369号(草野心平追悼号)所収の悟郎先生の追悼文で知った。『心平日記』には、残念ながらこのへんのところが欠落している。
神谷へ下調べにやって来たほぼ1カ月前、心平は初めて川内村を訪れ、長福寺を根城に矢内俊晃住職らと5夜6日、酒につかり続けた。『心平日記』はこれも欠く。
本人の日記、関係者の文章・談話などを組み合わせると、「あるとき」あるいは「そのとき」の心平の行動を知り、内面まで探り得るのではないか、という期待があるのだが、そんなときに限って『心平日記』には欠落がある。
♪立鉾の 森のみどりば/小川江の 清き動脈/阿武隈の 南のはてに/そびえたつ わが学び舎(や)ぞ/ああ神谷/われらが母校 平六小
『心平日記』に記されていた完成校歌の一番である。私の子どもたちはこの校歌を歌って小学校を卒業した。
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