2012年7月7日土曜日

磐城平城跡の石垣


先日、「磐城平城史跡公園の会」の総会が平の生涯学習プラザで開かれた。昨年度は東日本大震災・原発事故のために6月の総会を含め、1年間、会の活動が中止になった。

いわき地域学會として参加を要請され、会に加わった。設立総会以来、2年ぶりの総会だ。記念シンポジウムも開かれた。テーマは「磐城平城の石垣」。東日本大震災でいわき市の指定史跡になっている「磐城平城跡塗師櫓石垣」=写真=が崩落した。鉱物を研究している地域学會の仲間が石垣の材質について基調講演をした。

いわき駅裏の物見ケ岡は磐城平城のあったところ。すっかり宅地化され、城の痕跡(遺構)は石垣くらいしかない。本丸跡には柵が設けられて入れない。市民から寄付を募って本丸を復元しようとしたときがあり、その痕跡(基礎工事)が残っている。計画は頓挫した。

石垣は、3・11に上半分が崩落したという。撤去された石材は常磐藤原町斑堂の収蔵施設に仮保管されている。

残存する石垣には、上部だけ一つひとつに番号が付されている。撤去された石にも番号が付されているという。いつの日か復元するときに忠実に石を積み上げる――そのための深慮なのだろう。

門外漢には、どんな石が使われたのかが気になるところ。使用岩石を多い順に挙げると、①角閃片岩、斑糲岩などの塩基性岩②花崗岩③砂岩――だとか。で、①の採取地は城から近い好間川流域だろう、という。②は夏井川流域の小川から好間にかけて広く分布ずる。砂岩は軟らかくて石垣に向かない。あとから置かれたと推測される、のだそうだ。

石垣のある「塗師櫓」の前の坂道は急峻だ。そのことを併せ考えると、本丸が一番東側にあったのは、徳川譜代として北の伊達藩に対峙する城だったためではないか――という。いわきは、江戸時代には伊達藩に対する江戸の北のトリデであり、現在は原発事故収束作業にあたる、東京のための北のトリデだ。

0 件のコメント: