戦後、いわきで音楽指導に情熱を注いだ若松紀志子さんの「お別れの会」が先週末(7月14日)、いわきワシントンホテル椿山荘で開かれた=写真。およそ400人が出席した。献奏が続く明るい会だった。「きょうはパリ祭」。そんなことを考えながら、4人の先輩と同じテーブルで過ごした。
どうも「さん」では落ち着かない。抵抗がある。「先生」だったから。昭和37(1962)年、平高専(現福島高専)が開校した。私は3年目に入学した。美術の先生はご主人の若松光一郎先生、音楽は奥様の紀志子先生。先輩4人は合唱部員ではなかったか。
私は、別の先輩たちに誘われて社会人を含めた同人誌に関係した。先輩たちが光一郎先生に表紙のカットをお願いするのにも同行した。以来、若松家にはしょっちゅう出入りするようになった。17、8歳のころだ。
両先生は、私らが社会人になっても私らを「クン」で呼び、私らは当然、「先生」と呼びつづけた。お二人が彼岸に渡った今は、いっそうそういう思いが強い。
先生が先輩たちと会わせてくれたのだと思う。3人は1期生。これまでにも何回か顔を合わせている。残る1人の先輩(2期生)はまるで記憶がない。が、彼は私のことを承知していた。
およそ30分たったころだった。私のそばに座っていた先輩が「I、女川の実家は大丈夫だったのか」と尋ねた。その瞬間、若かりしときのIさんの顔が思い浮かんだ。
「今やっとわかりました。顔も、体も2倍になっちゃったんじゃないですか」。細面の美少年が白髪で丸顔になっていた。こちらも「ハゲ毛(もう)」だから、変貌したことには変わりがない。1期生も、2期生も、私も寮に入っていた。
美術や音楽といったマイナーな授業が楽しかった。「お別れの会」に出席した先輩たちは特にそうだったのだろう。オペラ歌手になってドイツに住んでいる別の先輩もいる。紀志子先生は高専でも「名伯楽」だったと思う。
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