2016年5月31日火曜日

原発避難路

 ネット情報はパソコンで、ケータイは通話が主でメールは返信だけ、というアナログ人間だが、スマホの威力は実感している。インド人がホームステイをしたときには、スマホが通訳になった。今度はカーナビだ=写真。
 いわきから那須高原へ、同級生の車に同乗して出かけた。東北新幹線那須塩原駅、午後1時半集合――に合わせて、朝9時に出発した。一般道路を利用した。

 同級生の頭には5年前の原発避難ルートがあったようだ。いわき市南部の国道289号~同294号~同4号と、西南方向を目指して阿武隈高地と八溝山地の峠を越え、栃木県那須町へ出た。

 国道6号バイパスから同289号に入って少したってから(すぐに山峡になる)、「原発避難から帰るときにこの道を利用したんだ」と私。すると、「夜、真っ暗なこの道を避難した」と同級生。私は3月15日、同級生はそれより2~3日遅れて避難した。同級生がたどり着いたのは栃木・那須、私はその北の福島・那須甲子(なすかし)だった。

 あのとき――。私ら夫婦と息子一家、義妹母娘を含む8人は昼過ぎ、2台の車で出発し、渋滞する国道49号~同4号経由で夜、白河市に着いた。市内の避難所はすでに満パイだった。西郷村の国立那須甲子青少年自然の家を紹介された。道を間違えながらも霧の山道をのぼってたどり着いたときには、もう夜中になっていた。

 そこは福島県中通りの南端、標高1000メートル前後のなだらかな高原だった。同級生とは何日か、県境をはさんで同じ那須高原の空気を吸っていたわけだ。

「行けどもいけども真っ暗だった」と同級生。放射能の心配に見知らぬ土地と闇夜の不安が重なる。

 私も心細かった。どうにか山上には来たもののガソリンがない。帰れるだろうか。燃料計の針の位置から逆算して、289号を利用すればなんとかいわき市の平地までは行けそうだ――そう踏んで高原を出ると、鮫川村で燃料計の残量警告灯が点灯した。いわきの田人に入ると長い坂道だ。エンジンを切って下った。燃料計の針は振り切れていたが、ぎりぎりわが家へたどり着いた。

 そんなことを語り合い、思いだしながら峠をいくつか越える。久慈川流域(棚倉町)から那珂川流域(那須町)へ。よその町へ行ったときにはあとで必ずそこがなんという川の流域に属しているかを確かめる。交流圏・文化圏の違いや中身が付随して見えてくる。

 おっと、スマホの道案内の話だった。いわきを越えると、カーナビが頼りだが、道路が新設されたりして情報が古くなっている。めんどうくさいので、スマホをカーナビに使うのだという。おかげで、道に迷うことなく那須塩原駅に着いた。

 途中、那須町で食堂に入った。地元紙の下野(しもつけ)新聞を手にしたら、東日本大震災や原発事故の記事はなかった。去年(2015年)の秋、岩手県へ行ったときにも思ったことだが、「原発震災」は、福島県以外では住民の意識から消えているらしい。
 
 だからこそ、いわきに住む人間として「福島の理不尽」から目をそらすわけにはいかないのだと、自分に言い聞かせるのだった。

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