2016年11月4日金曜日

メメント・モリ

 知人のお母さんの通夜でいわき市好間町の葬儀場を訪れたとき、壁面に懐かしい絵がかかっていた=写真。故松田松雄(1937~2001年)の初期の作品で、青い「風景」シリーズの1点(10号ぐらい)だろう。
 画面手前から奥へ雪原が遠近法で三分割され、それぞれに頭から黒いマントをかぶってうなだれた人物が、同じように遠近法で配されている。雪原の先には青い海、そして群青の空。松田独自の、エッジの効いた空間構成だ。昭和45(1970)年前後に制作された作品ではないだろうか。

 人はいつか、こうして生の向こう側へと歩いていく。死者を弔い、生を振り返る斎場で、静謐さと聖性を保ったその絵が遺族を、弔問客を慰撫する――「メメント・モリ(死を思え)」、である。

 それから何日か後、画家峰丘本人から11月恒例の個展の案内をもらった。「ここ数年の体調の変化に、自分の生き方やメメント・モリを考えることが多くなりました」と案内状にあった。峰とは同い年だ。比喩ではなく、現実問題として死や生を考える機会が増えた。カミサンが寝坊すると、呼吸しているかどうかが気になる。その逆もある。

 それからまた何日かして、「松田松雄展――白への回帰」の案内が遺族から届いた。没後15年展だ。昨年(2015年)、松田の故郷の岩手県で大がかりな回顧展(岩手県立美術館主催)が開かれた。そのとき展示された作品も並ぶようだ。

 案内チラシには昭和55(1980)年までの具象3点が紹介されている。松田と濃密に向き合った時期でもある。「白への回帰」は、そのころの作品に絞って展示する、ということだろうか。
 
 回顧展に合わせて、松田が37年前、いわき民報に週1回1年間連載した随想「四角との対話」が娘さんの手で電子書籍化され、紙本にもなった。37年前、校正を買って出た縁で校正を引き受け、あとがきを書いた。
 
 昭和40年代後半~50年代前半、松田の作品に向き合うと、いつも「祈り」という言葉が浮かんできた。それからおよそ30年後、東北地方太平洋沖地震による大津波で、東北3県の沿岸部を中心に多くの犠牲者が出た。なにものかへの「祈り」に、津波犠牲者の鎮魂が加わった。「私は胸の中でいつも、東日本大震災の犠牲者のそばに、松田の、このころの作品を飾って祈っている」(あとがき)という状況は今も変わっていない。

 峰丘展はギャラリー界隈(平)で、松田松雄展はアートスペース・エリコーナ(同)で、同じ11月19日に始まる。峰の個展は、初日のオープニングパーティー(会費制)が盛大なことで知られる。松田松雄展を見てから、師走へと頭を切り替える最初の忘年会のつもりで、オープニングパーティーに参加する。

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