作家吉野せい(1899~1977年)の夫は詩人三野混沌(吉野義也=1894~1970年)。開拓農民として、いわき市好間町の菊竹山で一生を終えた。が、家業も子育ても、結果的に妻であるせいにまかせきりだった。
戦後はすぐ、GHQによる農地改革が始まる。改革の骨子は「直接、国が地主から農地を買収し、小作人に売り渡す」というもので、地主・自作農・小作農で構成された農地委員会が改革業務を遂行した。
義也は、地元・好間村だけでなく、福島県の小作側農地委員にも当選した。すると、ますます家業を忘れて改革を進めるために奮闘した。夫婦仲は冷え込んだ。作品集『洟をたらした神』所収の「水石山」に、せいが書いている。
「彼が歩いた道は、福島県内をぐるぐる何千里とつづけられただろう。5年近い歳月を、いわき双葉相馬の海岸線は殆ど隅から隅まで、阿武隈の裏表、安積平野から白河高原の県境、猪苗代から奥会津まで、いつも人と人とがいがみ合う田畑の中で、血走る目で憎む山道の境目で、吐息つく青ぶくれた小作人の上がりかまちで、見、聞き、話し、菊竹山を忘れて遠く離れた道から道を歩きつづけた」
「家族のためには役立たぬ彼。もう今は、これからさきもこの家を支えるものは自分の力だけを頼るしかないという自負心、その驕慢の思い上がりが、蛇の口からちらちら吐き出す毒気を含んだ赤い舌のように、私の心をじわじわと冷たく頑なにしこらせてしまった」
で、夫・義也が好間村と県の農地委員に当選したのはいつか――当時の文献・新聞に当たったら、ひとつは特定され、ひとつは訂正されるべき点がわかった。
まず、訂正すべきことから――。いわき市立草野心平記念文学館編『三野混沌』展図録年譜に「昭和22年(1947)
53歳 3月 福島県農地委員会小作委員に当選」とあるが、当選したのは3月ではなく2月だった。2月25日投票・26日開票と、福島縣農地改革史編纂委員会編『福島縣農地改革史』(昭和26年)にある。
したがって、せいの『暮鳥と混沌』年譜に「昭和23年(1948) 55歳 4月、福島県農地委員会小作側委員に当選、県下をあまねく歩きつづける」とあるうち、「23年」「4月」はせいの誤認で「22年」「2月」に直す必要がある。義也の図録の「3月」は最初の県農地委員会が開催された月、というふうに解釈するしかない。
もうひとつ、特定できたこと――。市町村の農地委員選挙は、昭和21年12月20日、全国一斉に行われた。石城郡内では定員340人に対して398人が立候補した。その結果が同年12月27日付のいわき民報に掲載されていた。
いわき民報は同年2月5日に創刊され、5月から日刊化された。図書館のホームページを開いて、昭和21年のいわき民報を逐一、チェックし続けた結果、その年の最終号に至って、やっと「吉野義也」に出会えた=写真。
昼前から始めたチェック作業が終わったのは、宵の6時過ぎ。晩酌の時間までくいこんだ。でも、この何日間という短い間でふたつの事実が確認できたことは幸運だった、というほかない。
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