平・三町目のもりたか屋で、写真展「戦前に撮影されたいわき」(いわき市主催)が開かれた。写真展最終日の21日には、同じく市の主催で「たいら学」の1回目<16ミリフィルムが映す昭和11年のいわき>と題した上映会が開かれた。
上映会には行かなかったが、写真展は見た。平・豊間の松林の中にできた結核療養所「回春園」の写真があった=写真。この1年近く、作家吉野せいの作品集『洟をたらした神』の“注釈”づくりをしている。その延長で、第二の作品集『道』もときどき開く。表題と同じ題の作品に「回春園」が主要な場所として登場する。
大正元(1912)年秋、詩人山村暮鳥が牧師として平に着任し、地域の文学青年たちと交流する。そのなかに、八代義定、高屋光家、若松(結婚後は吉野)せいらがいた。せいと義定、光家の関係はせいの小説「道」に詳しい。光家の生と死をテーマにした作品で、光家は「白い人」ないし「松井さん」と表現されている。彼が入院し、亡くなる回春園の描写――。
「豊間村の岬には白亜の灯台が絵のようにそびえたち、広い松原の中には隔離した県立の結核療養所が病棟を並べている」
「密植された護岸の厚い松林が切れて、太い疎らな松原の中に潮風にさらされたクリーム色の建物がちらちらし出した。可なり大きい病棟の南面に、松原越しに遠浅の広い海が銀青色にしきのべられている(中略)。回春園と刻まれた石柱の門をくぐると玄関までの石畳みの歩道に高い松の枝が蔭をおとしていた」
回春園のある豊間の松原は、確かに「密植されて厚」く長かった=写真。千本、いや“万本松原”といっても過言ではないくらいに、黒々としている。病棟も、屋根のつくりからみて4棟、ほかに関連施設がある――そんなことが読み取れた。
施設の正面を撮った写真に石の門柱が写っている。「福島縣立回春園」とある。せいの記憶どおりだ。
回春園は、今は国立病院機構いわき病院に変わった。松原は、ほとんど姿を消して住宅地と化した。2011年3月11日、一帯は大津波にのまれる。病院は残ったが、家と人はあらかた消えた。
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