先週半ばに平・専称寺関係のフェイスブックで知った。「本堂を覆っていた囲いが全て撤去されました!」。やっと、本堂が修復されたか。
きのう(1月21日)、夏井川の対岸、神谷(かべや)側から囲いの取れた専称寺を眺めた。銅板葺きの屋根が一部、午後の日を反射していた=写真。
専称寺は東北地方太平洋沖地震で大きな被害に遭った。本堂は「危険」、庫裡は「要注意」、ふもとの総門もダメージを受けた。いずれも国の重要文化財に指定されている。
震災の翌年、総門と本堂の大規模工事が始まる。秋には本堂がパイプで囲われ、解体作業のための足場が組まれた。以来、本堂の姿は、ふもとからも対岸からも見えなくなった。その囲いがおよそ5年ぶりにはずされた。
私は、檀家ではない。が、専称寺の歴史と文化を学び、敬愛する一人ではある。参道入り口に石柱が一対。一方に「奧州總本山専偁寺」、もう一方に「名越(なごえ)檀林傳宗道場」と彫られている。東北の浄土宗の元締めであると同時に、同宗名越派の大学でもあった。以下は、前に拙ブログで書いたことの再録・要約・書き加え――。
この大学で学んだ高僧・名僧は数多い。江戸時代前期の無能上人(1683―1718年)と貞伝上人(1690―1731年)。それに、私もいささか研究のまねごとをしている幕末の良導悦応上人こと俳僧一具庵一具(1781―1853年)などだ。一具は出羽に生まれ、専称寺で修行し、俳諧宗匠として江戸で仏俳両道の人生を送った。
無能上人は今の福島県玉川村に生まれた。山形の村山地方と福島の桑折・相馬地方で布教活動を展開し、31歳で入寂するまで日課念仏を怠らなかった。淫欲を断つために自分のイチモツを切断する、「南無阿弥陀仏」を一日10万遍唱える誓いを立てて実行する――そういったラディカルな生き方が浄土への旅立ちを早めたようである。
貞伝上人は津軽の人。今別・本覚寺五世で、遠く北海道・千島のアイヌも上人に帰依したという。そこまで布教に出かけたのだろう。太宰治が「津軽」のなかで貞伝上人について触れている。貞伝上人が忘れ難いのはそれもある。
無能上人は、江戸時代中期には伴嵩蹊が『近世畸人伝』のなかで取り上げるほど知られた存在だった。今は岩波文庫で読むことができる。
佐藤孝徳著『浄土宗名越派檀林 専称寺史』(1995年)で知ったのだが、専称寺は東北地方に200以上の末寺をもっていた。著者にいわせると、「専称寺こそは東北文化の交流の場であり、新たな文化の発信地にもなっていたのである。近世東北文化の生みの親が専称寺であった」。
民衆救済を目的とする宗教であれば、非常時にはいっそうその精神が発揮される。3・11に被災した寺は別として、沿岸部では多くの寺が住民の避難所になり、交流の場になり、遺骨の保管所になったのではないか。専称寺の旧末もそうして被災者の心のよりどころとなったはずである。
専称寺を眺めるとき、本末のネットワークだけでなく、蝦夷へも布教に出かけた僧侶たちの心に思いが至る。いわきの歴史が内包している大きな知的・文化的財産だ。まだ庫裡の改修が残っている。が、再び境内に立って、山門からふもとの山崎を、太平洋を、対岸の神谷を遠望したいと切に思う。
修復過程は時々のイベントを通して公開されている。境内を彩る梅も、限定公開される。けさ、パソコンを開けたら、今年(2018年)は3月24日(土)、25日(日)に公開されることがフェイスブックで告知されていた。
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