2018年1月18日木曜日

戊辰戦争と目明

 いわきでの戊辰戦争について、小名浜の「二ツ橋の戦闘が東西両軍の勝敗の大勢を決した観」があると、考古・歴史に詳しい八代義定(1889~1956年)が書いている。
 八代の論考や短歌・俳句作品を収めた『残丘舎遺文 八代義定遺稿集』(菊地キヨ子・八代彰之編、2001年)を読んでいたら、西軍は平潟上陸以来、作戦が巧妙を極めた、西軍の勝因は諜報機関の利用活用よろしきを得たことによる、というくだりに出くわした。

 その秘密を解く鍵を握った――と、八代は書く。「それは西軍の参謀堀直太郎と小名浜在住の若松鉄五郎父子の関係であります」として、堀ら西軍から小名浜の目明(めあかし)・鉄五郎父子に贈られた賞金や賞状など4種類の史料を紹介している。史料には、官軍のために探索・道案内に尽力した、という意味のことが書かれている。

 鉄五郎とその子・明(妙)五郎(のち誠三郎)は、作家吉野せいの曽祖父と祖父だ。昨年(2017年)10~12月、いわき市立草野心平記念文学館で開かれた企画展「没後40年記念 吉野せい展」では、小名浜の生家や誠三郎の関連写真が紹介された。

 写真は①「若松(旧姓)せい生家 いわき市小名浜下町 昭和30年代」②「せいの祖父若松誠三郎の顕彰碑『北辰真武一刀流師範/若松誠三郎源尚之翁碑』地福院常福寺 いわき市小名浜 戊辰戦争の折、誠三郎は、目明役だった曽祖父鉄五郎とともに活躍した」③「若松(旧姓)せいと兄真琴 大正10年」――などで、誠三郎は剣術使いとして知られていた。

 新藤謙『土と修羅 三野混沌と吉野せい』(たいまつ社、1978年)には、曽祖父は「目明し鉄五郎」と呼ばれた侠客肌の男で、官軍の奥州征討の際、道案内を務めた。祖父・誠三郎も同行した。誠三郎は剣術を学び、のちに道場を開いている。門弟は数百人を数えた、とある。若松家の史料や八代の小論「戊辰戦争」には目を通していなかったようだ。
 
 誠三郎は江戸で千葉周作門下の小栗篤三郎に学んだ。この線から鉄五郎父子が西軍の手引きをするようになったのではないか、と八代は推測する。「若松父子が生前発表すれば勤皇家として格別の沙汰があったと思われるのでありますが、是非善悪は別として、異郷の人に土地の情報を提供したという点に遠慮があって、遂に生涯この事を他に漏らすことをしなかった」のだろうという。
 
 賞状が八代によって紹介された背景には、八代がせいと吉野義也の結婚を仲介したこともあるのではないか。若松家としては八代への信頼が厚かった、それで史料を提供した、ということがいえるのではないか。いずれにしても、目からうろこのような史料にはちがいない。

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