ざっと30年前のテレビ番組だから、20代はもちろん30代の若者は知らないだろうが――。
「天才・たけしの元気が出るテレビ!!」に、指圧師浪越徳次郎さん(ジェット浪越=1905~2000年)と、わがふるさと・田村市常葉町のじいさん(エンペラー吉田)がレギュラー出演をし、茶の間の人気者になった。
浪越さんはすでにアフタヌーンショーにレギュラー出演をし、「指圧の心は母心 押せばいのちの泉わく」で有名だった。
「指圧の心……」のジェット浪越に対して、エンペラー吉田は「偉くなくとも正しく生きる」の人生訓を口にした。ときに入れ歯がパカッとはずれたりして、元公務員らしいきまじめさゆえのおかしみが爆笑を誘った。この老人2人が番組に“元気”を与えていた。
なぜ、こんなことを書くのかというと、先日、たまたま「指圧の心……」の“原典”がわかったからだ。
作家吉野せいの青春を彩った人物のひとりに、宗教家・社会事業家の西田天香(1872~1968年)がいる。せいを支えた鹿島の考古学者八代義定と交流があった。
同じように天香に従った人間に、「昭和の良寛」と評された信州の詩人三石勝五郎(1888~1976年)がいる。その人と作品を紹介する本(宮沢康造編、三石勝五郎翁を語る会発行、2004年)を読んだ=写真。そこに、日本指圧学院(現日本指圧専門学校)の校歌「指圧讃歌」が載っていた。
歌詞の三番に「沢山咸(たくさんかん)は易の道/その拇(ぼ)に感ず拇に感ず/指圧の心 母ごころ/おせば生命(いのち)の泉わく」があった。浪越さんはこの後半2行を朗誦しては、ワ・ハ・ハ・ハ・ハとやっていたのだ。
詩人と指圧師は戦時下、東京で近所に住んでいた。詩人は易を生業にしていた。防空演習中に防空壕で出会い、「指圧も易も親指が大事」と意気投合した。すでに昭和15(1940)年、指圧師は日本指圧学院を開校していた。同17年、易者(詩人)が請われて校歌をつくる、という流れがみえてきた。
だからどうなんだ、といわれても、なんともいいようがないのだが、30年ぶりにエンペラー吉田まで思い出したものだから、つい記しておきたくなった。
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