2020年1月22日水曜日

阿武隈のシイタケ栽培

 カミサンの朋友から手紙が届いた。なかに、東京新聞の切り抜きが入っていた=写真。
「広葉樹の里山で人は 福島・阿武隈」というタイトルで、今年(2020年)1月6日に連載がスタートした。サブタイトルは<失われたシイタケ栽培>。切り抜きはその1~3、5回分だ。私がキノコに興味を持っていることを知っていて、わざわざ切り抜いてくれた。4回目と6回目はきのう(1月21日)、ネットで読んだ。やはり、切り抜きの方が味がある。

 初回に、取材を担当した文化部の記者が書いている。「原発事故まで福島県の阿武隈山地(吉田註・国土地理院によれば、「阿武隈高地」)は、シイタケ栽培用原木生産の日本の一大拠点で、シイタケ生産も盛んだった。事故からまもなく9年、米や野菜、果物などは出荷再開の朗報が届く中、里山で栽培する原木やシイタケは放射能の影響で生産が滞ったままという」

記者は「以前から、里山と人々との関わりに強く引かれていた」。それが、阿武隈のシイタケ栽培と原木の「今」を取材する原動力になった。田村市都路町や船引町で原木シイタケを生産していた農家や、中通りの玉川村でシイタケ原木の生産・販売をしている業者を訪ねて話を聴いた。(このごろは山里を里山という言葉で表現することが多くなっているようだが、里山は本来、家の裏山のような身近な山のことだろう)

都路町は私の母親の生まれ故郷だ。隣の常葉町に嫁ぎ、夫婦で床屋を営んだ。その意味では、阿武隈は先祖の墳墓の地でもある。と同時に、豊かで美しい里山、澄んだ空気、清らかな水、日本の原風景ともいえる景観、さまざまな農産物、伝統文化、生活文化を体感できる、「スイスの山村さながら」(田中澄江『花の百名山』)の山里だ。何か思い屈するときには、心は阿武隈に帰る。連載はそのふるさとに光を当てる。

田村市の東部に位置する都路町は事故を起こした1Fから近い。町がすっぽり30キロ圏内に入る。町の東部は20キロ圏内で、一時、警戒区域(立ち入りが禁止)に指定された。除染が進んで人が住めるようにはなったが、森林そのものはあらかた手つかずのままだ。

シイタケ用の原木は、基準値がキロ当たり50ベクレル。森林総合研究所によると、シイタケの移行係数は平均0.43だが、安全のために全体の90%が含まれるなかでの上限1.99として、シイタケの基準値100ベクレルの半分に設定した。

「事故前の年間出荷量は阿武隈の木を中心に約20万本。今は約8分の1に減り、大半は県南西部の南会津町産だ。切り出してそのまま基準値を下回る阿武隈の木はまだ少ない」。玉川村の業者は非破壊検査機の判断基準を原木基準値の半分、25ベクレルに設定している。「実際、25ベクレル(以下)じゃないと、買ってもらえない」ともいう。厳しい状況が続く。

それでも――。阿武隈の山里では、江戸時代からシイタケ栽培が行われてきた。先進地の伊豆半島から出稼ぎ人がやって来て、栽培を指導した。そのまま土着した人もいる。歴史の長いシイタケ原木栽培を断ち切るまいと、みずから厳しい自己基準を設けて奮闘している原木供給業者がいる。原木栽培を再開させようと奮闘している人たちがいる。阿武隈の「シイタケ情報」をアップデート(更新)するいい機会になった。次は何をテーマにするのか。阿武隈の「今」を幅広く取材したものになるといいが。

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