2020年1月21日火曜日

浦項(ボハン)といわき

「しらみずアーツキャンプ2019」が日曜日(1月19日)、旧白水小で開かれた。「やっちき踊り」を調査・考究した講座「やっちき学概論」が朝のうちに開かれた。午前中は小名浜へ出かけていたので、講座のレジュメだけでも――と、午後に寄ってみた。ボリュームたっぷりのレジュメが手に入った。講演した本人とも会って話した。
 午後のイベントは「いわき・浦項(ボハン)潮目文化交流」。チラシには「2018年から韓国の浦項市文化財団と文化交流を継続している、いわき市地域活性団体MUSUBUとコラボ、浦項市で地域活動にあたる市民グループ『F5』の皆さんを迎え、災害と復興、文化と復興についての事例発表、トークセッションなどを行います」とあった。

MUSUBUの1人を知っている。途中までだが、彼女を含めて何人かの話を聴いた=写真。

浦項市は釜山(プサン)の少し北にある港湾都市で、人口は51万人。ウィキペディアによると、2017年11月15日、地熱発電所の稼働が地震を誘発し、多数の負傷者が出た。「F5」は災害からの心の回復、治癒に重点を置いた地域活動をしているという。

セウォル号で犠牲になった高校生の親たちとも連携している。亡くなった子の母親たちは劇に熱中し、修学旅行に向かう子どもたちを演じた。父親たちは木工に没頭した。プロ並みに腕を上げた人もいるという。わが子を思う親の気持ちがひしひしと伝わるエピソードだ。アートを介した回復・治癒への、一つのアプローチでもある。

東日本大震災と原発事故では、多くの人が理不尽な喪失を体験した。その一部を記録した本がある。『回復するちから――震災という逆境からのレジリエンス』(星和書店、2016年)。著者はいわき市で心療内科医院を開いている精神科医熊谷一朗さん。報告を聞きながら、この本のことを思い出していた。2016年3月4日付の拙ブログを抜粋して再掲する。
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賠償金をもらって遊んで暮らしている――原発避難者のなかにはそういう人もいるだろう。が、それは人の目に触れやすい「表層」の一部にすぎない。いわきの精神科医が見た、かつてない大災害(大津波と原発事故)による喪失体験、つまり心の「深層」はわれわれ一般被災者の想像を超えるすさまじいものだった。

『回復するちから』には、津波で妻と10カ月の息子を失った男性、海で自殺を図った電力会社の社員、仮設住宅に入居したものの「幻臭」に襲われる女性などの“物語”が載る。突然、生活が暗転し、つらく、苦しい体験を余儀なくされた。それでも、人間は生きる。生きるための回復力を持っている。希望の書でもある。
 
 もっとも涙したのは、翌月から小学1年生になるという男の子のレジリエンスの物語だ。2歳のときに小学校に入学する直前の兄を津波で失った。死の不安が知らずしらずのうちに幼い心に蓄積していった。入学を前に初めて怖くなり、眠れなくなった。食べ物も受け入れなくなった。この強迫症状は震災から4年後にあらわれた。

 精神科医がその子にわかるようにゆっくり話を続ける。「お兄さんが亡くなったことは、家族にとっても、君にとっても、とても悲しいできごとだった。けれどそれはもちろん、誰のせいでもない。それに○○君は○○君で、お兄さんとは全く別の存在だから、安心してね。夏には赤ちゃんも生まれるみたいだし、○○君も亡くなったお兄さんに遠慮することなく、学校に行って大丈夫だよ」

 幼い子は幼いなりに兄の年齢の死という、得体のしれない恐怖を抱いていたのだろう。「安心してね」「学校に行って大丈夫だよ」。そのあと、「彼はそのままの姿勢で前屈みに突っ伏し、うわーんと張り裂けるように、強く泣いた。長く泣いた。小さな身体の、どこからこれほどの声量が出てくるのかと驚くほどの、泣きっぷりだった。ほっとする。私もようやく肩の荷を下ろす」。
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 悲しみやトラウマは個性的なものだ。一人ひとりが違っている。震災後、シャプラニール=市民による海外協力の会がいわきで5年間、開設・運営した交流スペース「ぶらっと」も、被災者や避難者の心の回復を支える場になった。震災後2年を迎えようとしていた段階での被災者の声(シャプラの会報「南の風」に掲載された)を、やはり拙ブログから紹介する。

・原発避難で借り上げ住宅に住む60代の夫婦――。津波で娘と孫を亡くした。以来、妻はうつ状態が続き、薬を飲んでいる。夫も肺に水がたまり、通院している。アパートに届く「ぶらっと通信」を見て、「ぶらっと」を利用するようになった。思い切ってスケッチ教室に参加したら、とても楽しかった。いつまでも悲しんでばかりいられないと、今は夫婦で定期的に「ぶらっと」に来ることが楽しみになった。

・原発避難で借り上げ住宅に住む、相双地区の70代後半の夫婦――。震災前までは自宅で野菜を作り、婦人会や町内会の行事などで毎日忙しく、楽しく過ごしていた。避難所、郡山市のアパート暮らしのあと、いわき市へ移った。運転は危ないと息子に止められ、車を手放したことで外出の機会が減った。「ぶらっと」の利用者と招待旅行に参加したのを機に、毎朝の散歩が日課になり、近所に言葉を交わす顔なじみもできた。
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 浦項の地震も、セウォル号の事件も、東日本大震災も、原発事故も、個別・具体、つまりそれぞれの心に寄り添ってこそ、共感が生まれ、悲しみやトラウマからのレジリエンスが可能になる。浦項の活動報告に触発されて、シャプラのような活動がある、アートによる活動もある、復興への道筋は多様でいいのだ――あらためてそんなことを思った。

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