「サーフィン」は薄磯の海岸堤防のそばにあった。大津波で店が流されたあと、一時、内陸の常磐湯本町で営業を続けた。ママさんはしかし、海とともにある暮らしが忘れられなかった。「高台住宅」用に薄磯の丘陵が開発されると、ふもとに店を新築した。2018年10月、通いで薄磯での営業を再開した。
震災前と同様、1階が駐車場、2階が店になっている。前は2階から海が見えた。震災後は海岸堤防のそばに防災緑地が築かれたため、海は見えない。
額縁のような店の窓から道が見える。カウンターからときどき眺める。たまに車が行き来する。と、何度目かで防災緑地と更地の間を行くバスが目に留まった。
昔からの道は防災緑地をつくる過程で少し移動したようだが、基本的には前と変わらないだろう。ママさんが少し前、「バス通り」とか「バス道」とか言っていたのを思い出す。あとで時刻表を確かめたら、近くにバス停「灯台入口」(写真に写っている)があって、いわき駅前行き「12:23」だった。バスは止まらずに視界から消えた。
まだ阿武隈の山里で洟(はな)を垂らしていたころ、祖母に連れられて小名浜の叔父の家へ泊まりに行ったことがある。平駅(現いわき駅)前からはひっきりなしにバスが出ていた。「カタハマジュンカンセン」(片浜循環線)という言葉を知ったのは、そのころではなかったか。
いわき民報の昭和31(1956)年2月2日付の記事、同10日付常磐交通の広告によると、片浜循環線は同年2月11日に運行が始まった。内回りは平―湯本―小名浜―江名―豊間―平、外回りはその逆コースで、内・外回りとも20分おきに出たというから、バスの利用客がいかに多かったことか。
外回りで小名浜へ向かった記憶がある。沼ノ内、薄磯、豊間の集落は、狭い道の両側に家が密集している。急なカーブでは、バスが軒先に触れるのではないかと冷や冷やしたものだ。そのときは気づかなかったが、運転手はハンドルさばきが絶妙だった。
今、バスは空気を運んでいるだけ、と揶揄されることがある。大津波に襲われた薄磯、豊間は、風景が一変した。どこかよその土地に来たような錯覚さえ覚える。バスの利用者も減ったにちがいない。でも、バスは今も震災前と同じように行き来している。震災後も変わらずにあるもの、そのひとつが路線バス――と考えると、なにかホッとするようなものが胸に広がった。
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