2020年1月29日水曜日

焼夷弾と防空頭巾

 4日後の日曜日、2月2日午後1時――。いわき駅から歩いて10分ほどのいわきPITで、映画「東京大空襲 ガラスのうさぎ 」が上映される。
原作は、高木敏子さん(1932年~)が著したノンフィクション作品『ガラスのうさぎ』(金の星社)。いわきでロケした映画ではないが、原作に勿来の親切なおばさんが登場する。いわきにゆかりのある映画ということで、いわきロケ映画祭実行委員会(緑川健代表)がイワキノスタルジックシアター第5弾に選んだ。

きのう(1月28日)の夕刊いわき民報に予告記事が載った=写真上1。昭和20(1945)年の平空襲でB29から投下されたとみられる焼夷(しょうい)弾の残骸も、写真とともに紹介されていた。会場ロビーに展示されるという。

実は、焼夷弾の残骸を手に入れた?のは若い仲間だ。フェイスブックに写真をアップしていた。それに刺激されて焼夷弾の構造をネットで調べた。クラスター爆弾で、ベトナム戦争で使われたナパーム弾のもとになった。「焼夷」は焼き払うことだが、英語は「incendiary bomb(インセンディアリー・ボム)」、つまり“放火弾”。長谷川平蔵が目をむきそうな名前が付いていた。

 ノスタルジックシアター第1弾は、いわきの作家吉野せい1899~1977年原作の映画「洟をたらした神」だった。原作が田村俊子賞を受賞したとき、せいを取材した。それで上映後のトークショーに引っぱり出された。今度も、似たような理由で上映後に緑川代表と対談する。

『ガラスのうさぎ』の初版が昭和52(1977)年12月に出た翌年9月、高木さんからいわき市役所広報広聴課に、「恩人を捜し当てたい」という手紙が届いた。それを記事にした。『ガラスのうさぎ』もそのときに読んだ。そのへんの経緯を、2019年8月1日の拙ブログに書いた。一部を抜粋する。
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高木さんは、ロングセラーの児童文学作品『ガラスのうさぎ』の作者。作品のなかに、常磐線の列車でたまたま同席し、一夜の宿と食事の世話をしてくれた「勿来のおばさん」が登場する。

高木さんはそのとき、13歳。終戦直後の昭和21(1946)年2月末、寄留していた宮城県・秋保の親戚の家を飛び出し、焼け野原の東京へ戻る途中だった。

 それから32年後の同53(1978)年9月、『ガラスのうさぎ』を出版したばかりの高木さんから、いわき市役所に尋ね人の手紙が届いた。当時、私は30歳。いわき民報の市役所担当記者だった。広報広聴課長から耳うちされて記事にした。他社も何紙か報じた。

 記事に高木さんの手紙の一部が載っている。「勿来の親切な女の方に、ひと晩大変お世話になりました。今でもその時のご恩、有り難さは忘れることが出来ません。しかし、残念なことにお名前がわかりません。現在六十歳から七十歳位の方だと存じます。是非お目にかかり形ばかり御礼の印を――との思いがつのります」

 幸い、勿来のおばさんが判明し(77歳になっていた)、高木さんは翌54年1月4日、再会を果たす。いわき民報によると、広報広聴課長が勿来のおばさん宅へ高木さんを案内した。勿来のおばさんは「あの時、私は七人の子持ち。一人位増えてもという気持ちだった。大したことをしたわけではない」とこたえている。高木さんはピンクのちゃんちゃんこを贈り、勿来のおばさんはつきたての紅白のもちでもてなした。
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 きのう朝、たまたまカミサンと日曜日の上映会の話になったとき、伯父(故人)の奥さんが持っていた防空頭巾=写真上2=があるという。伯父は東京の下町で生まれ育ち、やがて埼玉で小さな工場を経営した。奥さんが亡くなったあと、いわきへ転居し、わが家の近くに土地を買って家を建てた。防空頭巾も東京~埼玉~いわきと移動したわけだ。焼夷弾と一緒に、この防空頭巾も会場ロビーに展示してもらうことにした。

もし映画を見たいという人がいれば、いわきPITへ連絡をどうぞ(☎0246-38-3826)。

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